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三ヶ月後の「ソ連参戦」となる「対独戦勝記念日」である

2024年05月09日 | 憲法・防衛・平和・人権

今日は、ソ連(ロシア)がナチス・ドイツとの戦いに勝利した記念日「対独戦勝記念日」です。同時に、日本にとっては3ヶ月後の8月9日「ソ連参戦」に連なる重要な日となります。

『1941年6月22日、ナチス・ドイツとその同盟国の軍隊は、独ソ不可侵条約を破って、ソビエト連邦に侵攻した。以後、1945年まで続いた。この戦争は一般に「独ソ戦」と呼ばれる。ドイツ、ないしは西欧の観点から、第二次世界大戦の「東部戦線」における戦いと称されることも少なくない。いずれにせよ、この戦争は、あらゆる面で空前、おそらくは絶後であり、まさに第二次世界大戦の核心、主戦場であったといってよかろう。』大木毅著「独ソ戦 絶滅戦争の惨禍」より

ポリス・スラヴィンスキー著「日ソ戦争への道」から抜粋

欧州の第二戦線」と「ソ連の対日参戦」の関係
(略)
 ソ連は、既に3年間、対独戦の主要な重荷を背負い(独ソ戦戦にはヒトラー軍の8割が集中していた)、疲弊を極めていた。こうした状況の中で第二戦線の開設が延期されることは、ソ連国民にとっては信じがたい重荷となった。ソ連国民はますます犠牲を払わねばならなかった。
 そこでスターリンは、難局を乗り越えるために、1943年10月30日、ソ連、米国、英国の外相会議で初めて、ドイツが撃滅されたあかつきにソ連は対日参戦すると言明したのである。
(略)

ソ連政府に対する連合国の圧力
(略)
 スターリンとチャーチルの交渉には、米国の利益を代表するハリマンとディーンが同席した。最初の会議で連合国は軍事計画についての情報を交換した。ディーンは、日本本土上陸を含む太平洋における米国の軍事作戦計画について説明し、「包括的な戦略において最も重要な要素になるのは、ソ連の果たす役割です」と述べた。ディーンは、南、西、東で日本を壊滅させるさまざまな計画を検討する際に、「こうした計画は、北からの対日作戦計画と調整して初めて最も効果を発揮するでしょう」と強調した
 このなかで注目すべき出来事になったのは、10月16日のスターリンとハリマンおよびディーンとの会談である。この会談でソ連側は、ソ連の対日参戦義務を確認し、ドイツが降伏してから約3カ月後に参戦すると述べた。このとき、極東のソ連軍兵力は、ソ連が参戦するまでに、30個師団から60個師団に増強されることに決まった。
 スターリンは、文書の形でこれについての協定を締結したいという申し出を断った。そして、この件を秘密にしなくてはならないのは、ソ連の準備が整うまでに日本が攻撃する可能性があるからだと説明した。 
 ソ連参謀本部の計算によると、ソ連軍を欧州から極東に移動させるには3カ月の期間が必要であった。米国からの援助があることを条件としても、将来の戦場に2、3カ月分の燃料、食糧、輸送手段を備蓄するには、それくらいの期間はかかった。ソ連極東の港にこれらの装備を輸送することによって、軍の再編成は著しく容易になり、国の中央から、通過能力が限定されているシベリア鉄道を経由して輸送する時間と数量は減少する。米国側は、に同意し、供給の一部を負担することにした。 
  ディーン将軍が書いているように、この会談でスターリンはハリマンに、タイプライターで打った7ページの商品と物資のリストを手渡した。これらの商品と物資は極東のソ連軍に2ヵ月間補給するのに必要なものであった。そこには食糧、燃料、輸送手段、その他の物資が含まれ、150万人の軍の消費に充てられることになっていた。そのなかには、戦車3000両、自動車7万5000台、飛行機5000機が含まれ、ドライカーゴにして86万4000トン、液体貨物にして20万6000トンとなった。これらのすべてを1945年6月30日までに輸送する必要があった。 
交渉が進むなかでスターリンは、ソ連軍による関東軍包囲・繊滅計画を米国側に示した。これについてハリマンはルーズヴェルトに、こう報告している。「われわれは、太平洋戦争に参加するばかりでなく、全力を挙げて参戦するというスターリンの完全な同意を得ました。 彼は、われわれを支援し、戦争をできるだけ早く終わらせたいという決意を熱心に語りました」 
 米国側のイニシアチプにより、1944年12月14日のスターリン・ハリマン会談では、ソ連の対日参戦の政治的条件が検討された。スターリンは、ソ連は南サハリンを受け取りたい、即ち、ポーツマス条約によって日本に引き渡されたものを返還してもらいたいと述べた。千島列島をもらいたいとも話した。さらにスターリンは次のように述べた。テヘランでルーズヴェルト大統領は、自ら率先して、極東の温かい海への出口をソ連に提供すると提案した。そのとき大統領は、以前、ロシアが租借していた旅順と大連について語った。ソ連は、租借によりこれらの港の権利を回復し、ウラジオストクとの交通路を短縮する。奉天、長春、ハルビンを経て旅順、大連に通じる東支鉄道の権利を再び獲得したい。この場合、中国は、これらの鉄道が通る地域の主権を完全に保持する。さらにソ連政府は、外モンゴルの現状が完全に保持されることを希望する。 
 ハリマンは回想録のなかで、こう書いている。「私は、直ちにスターリンの提案をルーズヴェルト大統領に知らせた。スターリンの提案はヤルタでの討論を行う基礎となった」 米国の歴史学者L・ローズによれば、ルーズヴェルトは『スターリンのアジア的な要求』を知って、その慎ましさに驚いた。なぜならスターリンの要求は、日露戦争のときに日本がロシアから奪った領土権の回復を求めたにすぎなかったからである。

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参考Blog記事

5月9日「独ソ戦勝利記念日」

75年前の8月9日ソ連軍の参戦と朝鮮半島軍事情勢の考察

(了)

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