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常識とは何?何気なく使う言葉の危うさ。噛みつき亀風味でもの申す。脱線ご容赦。あくまでもお馬鹿な私の私論です。最近ボケ気味

読書1 「沈黙」における遠藤周作のロジック

2011年10月25日 17時26分29秒 | 批評 勘違いもあるかも
日本が鎖国へと向かう中当時植民地化の先遣として権力と迎合した宣教師を送り込んでいたオランダ、ポルトガルによってもたらされたキリスト教の信者は、宣教師がいなくなり、迫害の対象とされたが、信じる力は衰えることがなかった。こうした時代背景を巧みに取り入れながら書かれたのが遠藤周作の「沈黙」である。神とは何か、神に忠誠を誓い死を畏ぬどころか殉ずる事を悦び散った数多の隠れキリシタン達。
それでも、沈黙を続ける神とは何か?キチジロウという人物ー密告を繰り返し自らは命乞いをしつつ、しかしキリシタンとの関わりを断ち切れない人物を弱者として、登場させる事で、殉教者を際だたせるという巧みな手法を用いて物語は進行していく。
このように、信仰とは何かという命題を軸に話は進むのだが、遠藤がしかけたロジックに殆どの読者は気がつかないといえよう。
私は幾度となく手にした本なのだが、詰まるところ蜘蛛の糸と同じように二律背反した人間の自己矛盾や勧善懲悪的な日本人の気質等その屋台骨は実際は至極シンプルなものなのである。それは、結末を読めばわかる。そのヒントは、戦争末期の神風特攻隊とにている。国の為というのは大義名分、しかし現人神である天皇の為に彼らは飛び立たねばならなかったのである。幾つもの命を奪いさったにも関わらず、歴史を遡れば殉教、殉死を余儀なくされたのだが、そこに云いようのない虚無感、喪失感を感じてしまうのは私だけであろうか?
ところで、私見を述べればキリスト教は「死」から始まった宗教と言い換えて過言ではない。ほかの宗教も人間万人とも平等に訪れる「死」を平安に受け入れることができるか?全てはここに集約される。
冷酷に言えば、隠れキリシタンの教義はおおよそキリスト教とはかけ離れている。現世利益を掲げる他の宗教観が入り込み、独特のものとなっている。
唯一の救いは16人の殉教者を聖人と認められたと位かもしれない。
「沈黙」をキリスト教徒の禁書としたのはまさに日本的な話である。
最初に述べたように、キリスト教やキリシタンは単なる道具に過ぎないのである。しかし、私の最大の憂いは、殉教の道を選んだ多くの人が信じていた神は
まごうかたなきキリスト教のそれだったのかそうかである。もしも違っていたとしたなら、宗教と政治の狭間で失わなくてもよかった清き命だったと思い憐憫を禁じ得ない。

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