ちくわブログ

ちくわの夜明け

映画制作について

2009-08-24 04:02:19 | 映画制作
わたしがこの先、製作途中だった学生運動に関する映画を完成させるのか、待っている人はいなくても発言だけはしときたいので久々にそれについて書きます。


現状はお膳立てが整った状態です。
ほとんどのインタビューしたい人には会うことができ、また名刺もいただきました。
しかしそれ以降、ここ一年はほとんど動いていません。


お仕事に集中したかったのが一番の理由です。
理由になってないかもしれませんが、それは「金」と「不安」の両面からきています。
とにかく映画を作ろうというのにお金が無かった。
でも今回の映画は無くても撮れると思っていた。

実際、撮れると思う。

しかしそういう冒険をする勇気が出なかった。
不安。

「仕事しなきゃ」という不安です。
わたしみたいな、ほとんど職質されたら答えようが無い職業の人間は、自分の「職業」に対する拠りどころが無いので、常に仕事をしていないと「このままじゃ餓死するんでは」という謎の強迫観念にとらわれます。

そういうことをやっているうちに、お仕事に対するプライオリティがぐんぐん上がってきて、いつの間にか映像にさく時間が「仕事」で埋め尽くされてしまいます。



これらは全ていいわけです。
再開は年内にはするでしょう。
ただ、どうしてもひっかかっていることがあって進みません。
「君は僕の事をどれだけ知ってるの?」


これ、次に言われると、もう自分でもどう思うか分からない。
当事者にとっては、取材する側の及びもつかない領域だけに。
一応、命張ってたんだもんな・・・・

中にはホントにどうしようもない年寄りもいるけど、「戦ってきた人」たちは違う。
われわれとは人種も、人生観も違う。優しく諭してくれるということもあるのか分からない。
ある元・武闘派と言われる大物と会ったときは、怖くて震えた。
あの人を僕が取材するとして、キチンと目を見て話せるだろうか。なんか問い詰められたらどうしよう。すごく怖い。


でもだからこそやる価値があるんだと思う。


ここで再開するにしてもしないにしても、わたしの立ち位置をはっきり残しておこうと思う。

学生運動に関する思想を一元化して「こうだ」と言うことは出来ない。
新左翼だけでなく、民青もいたし、アナーキストもいた。
その新左翼でさえ分裂を繰り返し、殺しあうまでになった。

はっきり言って、歴史として俯瞰して見るなら、愚かしくて評価なんてできない。
しかしそんなふうにうっちゃっていいものだろうか?
自分たちの親と同じ世代の人々が、国家権力と闘った。思想がどうとはいえ、「闘った」という事実。
闘った人間を、行動した人間を、なにもしてないわれわれが「無意味だ、愚かだ」と言うのはおかしい。
だって、彼らは歴史上の人物ではない。今、まさに生きている人々だ。自分と同じラインで評価しなければならない。
「じゃあお前はどうなんだ」


これに対する答を、出したい。
わたしは、われわれはどうであったか、という答を出したい。

三島由紀夫はかつて、東大全共闘を相手に
「そして私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。ほかのものは一切信じないとしても、これだけは信じるということはわかっていただきたい」
と言った。

それは一般人で、何もしていないわたしも、同じ気持ちです。
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