日常あるいは平穏な日々

日々思う事をつれづれなるままに書いていこうと思います。

日常あるいは哲学する日々 ~自分教 儀典1~

2011年05月22日 | 自分教
自分教の考えの基本となる部分は、中学時代に考え始めたものですが、そもそも、この様な事を考えるに至ったのは、自分が生きている事に疑問を感じたことが始まりです。
今でもそうですが、私は、納得できないと動けない傾向にあります。昔の私の勉強嫌いも、勉強する意味が分からなかったので勉強しなかったと言ったら、単なる言い訳でしょうか?兎も角「生きる事に意味が無いのであれば、死んでも同じじゃないか?」と思ったわけです。
その時期、印象に残る自殺のニュースが流れました。

「生きている意味が分からないので、終わりにしようと思います。さようなら」

という様な内容の書き置きが残されていたというものです。自殺した方は確か、当時の私の私と同じくらい(中学生)だったと記憶しています。当時の私は、その心境に共感したものですが、この様に私は生きているわけで、要するに死ななかったわけです。ではその時、まず何を思ったのか?

「痛いとか、苦しむのは嫌だなぁ」

というのが、それでした。この辺、非常に私らしいですねw
その後は、苦しまなくて済むような自殺の方法が無いか、色々な方法を探しましたね。しかし、そのどれもが苦しまないという確証が持てず、ぱっとしない。そうこうしている間に、ある疑問が浮かびます。

「そもそも、死ぬって何だ?どうなったら、人は死んだ事になるのだろう?心肺停止しても、息を吹き返す人も居るし、脳死状態から回復する人も居る。生と死を分かつものは何なのか?」

と考えつつも、もう一つ思った事は、

「人は生まれてくるし、生きて、死んでいく。もし、その全てに意味が無いのであれば、そんなものは存在しなくても同じ筈だが、現に目の前に存在している。という事は、やはり生きる事には意味があるのかも知れない。それは一体何だろう?」

というわけで、その後、
・死ぬとは?
・自殺は悪いことか
・人殺しを悪だとする根拠とは
・人の生きる意味は
・悪いとは何なのか
・絶対的な善悪の価値基準の存在の有無について
・生きるために必要なものは何か
・幸せとは何か
・お金は必要性どこまで必要か

などを考えながら、現在に至るわけですが、さて、どこまで書いたものか?
という点については、現在も悩み中です。

改めて書きますが、私は、特定の宗教に属しているわけではありません。というより、過去の歴史を振り返れば、どうしても宗教に対して良い印象は無く、既存の宗教に対する不信感は強い方だと思います。
とは言え、あまり突っ込んで書くと、かなり宗教染みた内容になるので、自分でもそれを書く事に抵抗があるのですね。

という事で、それこそ自分が納得できる範囲で書いていこうと思います。

日常あるいは哲学する日々 ~自分教 その3~

2011年05月18日 | 自分教
というわけで、生が如何にして成り立っているかについてです。

考えてみると、生きるという事は非常に不思議です。
例えば人は、心臓が止まれば、何れ死を迎えるわけですが、じゃあ心臓は人の意思で動いているかと言えば、そういうワケではありません。
心臓だけではありません、体中の幾つもの器官が意思とは関係無く働いているおかげで、人は総体として、生体活動を続けられています。

そして人は、親が居なければ産まれても来ませんし、産まれてからは、食事や空気が必要です。

元は、精子と卵子であったものが、DNAのプログラムに従って人の形に肉体を生成する事で、
人として産まれて来るわけですが、一体どれ程の細胞分裂を繰り返して、臓器や肉体を組成していくのかと考えると、
気が遠くなる思いです。
また、食事を取り込んで、それらから栄養や水分を体中に巡らせ新陳代謝を行ったり、空気を取り入れてエネルギーとして燃焼する事で、
生体活動を行わせています。正に奇跡的なバランスの上に成り立っているという思いです

そして取り入れている空気は、植物の光合成によって生成されているし、食物となる植物や動物は大地が育んでいます。
中には、人の手を借りているものもあるし、無いものもありますが。
そして今こうして利用しているインターネットは、多くの人の努力の上に成立しているものであるし、ティッシュ一枚とっても同様です。

そう考えると、人は一人では生きていけないなどというレベルでは無く、自分以外のものこそが自分を生かしているという思いです。

勿論、人は自らの生きる意思や、もっと消極的に、死なない意思があって初めて生きる事が出来るわけですが、人が生きている上で
生を支えるより大きな要因は自分以外にあるのでは、と思い至ります。

であれば、どうして傲慢になど生きられましょうか?
特に、自らの生を是とするのであれば、その生を支える全てのものに感謝こそすれ、です。


というわけで、人が生きるというのは、本当に不思議かつ、社会や自然のお陰様と思うわけです。
だからこそ、生というものを貴重であると認識して大切にしていきたいとも思うのです。
勿論それは、生に執着するというのは異なるわけですが。


この様に、人の命というものは、本当に様々なものによって支えられているわけですが、それに関連して次回は、
生きるために必要なものってなんだろう、という事について考えたいと思います。

日常あるいは哲学する日々 ~自分教 外典1~

2011年05月12日 | 自分教
先日の田植えツアーの際に、T女史と「コンビニ弁当は1日で飽きるが、手料理であれば、自炊であっても飽きが来ない」という話題で盛り上がりました。この件について、風邪で休んで部屋でまったりと食事をしている間に、これは如何なる理由によるものなのかを考えてみました。

食事というのは多くの場合、一度、火を入れられますが、この時、一度食物は死に、料理という形で人の手に依って再生されると捉える事が出来るのではないかと考えました。この時、機械が食事を作るとしたら、食事は、非常に無機質なものだと捉える事ができます。

無機質なものというは、一時的な美しさを表現する事は出来ても、長い間の安心感を与える事は出来ませんし、長時間、無機質な空間に居たらストレスを感じます。人が得られる安心感とは、生あるものとの触れ合いの上にこそ得られるものなのだと思います。

上記を踏まえた上で、
私の基本的な思想として、物には人の思いが宿るというものがあります。例えば、見知った人が自分のために作った料理には、その作り手の思いが食事に宿ると考えるわけです。であれば、食事は人の手で作られる事によって、無機質なものから無機質では無いものに移行する事で、作り手と受け取り手との関係性が構築されると考える事ができます。要するに人は、この関係性の構築によって得られる安心感によって、同じ人の作った食事を飽きる事無く食べ続ける事が出来るのではないか?と考えたわけです。愛情の籠った料理がより美味しく感じるのは、この関係性の構築における喜びの強さに依存しているのかも知れません。

料理の作り手がもし自分であった場合には、その食事を取るというのは、自分との対話になるのだろうし、野菜を生で食べれば、自然との関係性の構築であるのだろうと思うのです。であれば、機械や見知らぬ人が、何の愛情も無く作った食事というのは、非常に無機質であると考えられますし、無機質なものを体内に取り入れ続けるというのは、大きなストレスなのだと思います。だからコンビニ弁当は、すぐに飽きるのだろうと思うのと同時に、家庭の味が良いというのは、強固な関係性の構築によって出来上がった強い安心感なのだろうと思うのでした。

日常あるいは哲学する日々 ~自分教 その2~

2011年05月06日 | 自分教
早速友人がコメントを付けてくれた、このシリーズ。
有り難い事です。

こういう事を話題の俎上に載せるというのは、日本では、どちらかと言えば禁忌視されている節があって、
これを書くにあたっては、実は少し躊躇もあったのです。
しかし、今の日本の社会や教育に対する私の危機感センサーの針は振り切れっぱなしだし、
東日本大震災もあって、広く、こういう事を考えることの切っ掛けを作る事も必要なんじゃないかと思ったのが、
これを書くという一歩を踏み出させた切っ掛けだったりします。

そいう事もあって、友人のコメントは、有り難かったなと。

というワケで、これを読んでくださった方には、是非一度、「自分が生きるという事」について、
見つめ直していただけたらと思っています。
そして、このシリーズが、「自分が生きるという事」を考える一助になればと思っています。


さて、前回は人の死を、生の終端と位置づけました。
逆に言うと、生の終端を迎える前は、生きているという事になります。

そして、ここで得られる気付きとしては、生と死は不可分であり、連続したものである事です。
と同時に、人は生きている事を当たり前の日常として受け止めている面がありますが、
もし生が日常の一コマであれば、死も日常の一コマに過ぎないのでないか、という思いに至ります。
死というものは、生の時間に比べ、あまりにも短い間に行われるために、生に比べて特別視し価値ですが、
でも、死も生の一部なのだというのが、今の私の考え方です。
この事から私は、生と死は等価であると捉えています。

生が無ければ死も無く、生まれなければ死も訪れないわけであり、
生とは、『誕生』も『死』も含め、誕生から死までの一連の事象なのですから。

そこで私は思うわけです、生と死が等価であり、死の訪れが早いか遅いかの違いこそあれ不可避なのであれば、
無条件に執着する様なものでは無いなと。また、徒に恐れたり悲しんだりするのとも違う気がします。
とは言え、友人知人の突然の死は、非常に辛いものに変わりは無いのですが。

また、死を徒に恐れたり悲しんだりするものでは無いからといって、自らに死を齎す事は、
これはやはり罪なのだと考えています。
これは先の、「自らを守る事が人を守る事に繋がる」に通ずるものにもなるのですが。

結局、生とは、誕生から始まって、終端の死を迎えるまでの連続した流れの中での活動なのだと捉える事ができます。
また、生とは誕生や死の様な一瞬の出来事の連続を、生というもので刻んでいるとも言えます。
そのため、生の中の一瞬一瞬は、死の一瞬と同じだけの意味を持つ様に思っています。
すると、生というものは、今この一瞬も非常に貴重な一瞬である事に気付きます。
そう考えると「生きるという事は、疎かにできないな」と思うわけです。
だからこそのジレンマも、勿論あるわけですが。


といったところで次回は、生というものが、如何にして成り立っているか、という点について掘り下げてみたいと思います。


※ この辺の考察を開始して、既に10年以上は経過している内容のため、私の中では、当然に思えてしまっている部分もあり、
一部、表現が分かり難い部分もあるかも知れません。そういう点については、是非、コメントでご指摘いただきたいと思います。
なるべく平易に書いているつもりですが、見落としも多いと思うので。

日常あるいは哲学する日々 ~自分教 その1~

2011年05月06日 | 自分教
私が思うに、自分というものを確立する上で、自分をより理解するという事は非常に大切に思うのですが、そのためには

・社会の中の自分とは
・自分にとって嬉しい事、悲しい事
・自分が善く思う事は何か

など、考える事は山ほどあります。
それらについては、過去、色々と考えて来たわけですが、そういう考えを一度、文字としてまとめておく事も重要かと思い、このカテゴリを追加してみました。
因みに、これらの考えを深めて行くと、だんだんと内容が宗教じみてきます。とは言え私は、特定の宗教に属しているというわけでは無いので(とは言え日本人なので、
自然の内に、神道の影響を色濃く受けているわけですが)、自分なりの宗教という事で、タイトルに『自分教』と入れてみました。

まずはじめは「生と死」についてから書こうと思います。

生と死について考える時、まず、死とは何かを考える事から始めたいと思います。
死を自分の中で定義付けする事で、自分にとっての生というものを逆説的に捉えられると考えられるからです。

私の思考は、
「人は、ただ漫然と生きているいるだけで、生きていると言えるのだろうか?」
「ただ生きるだけであれば、死んでいるのと変わり無いのではないか?」
というところから始まります。
まぁ、良くある話ですね。

では人の死とは、一体何であろうか?生きながらにして死んでいるというのは、あるのだろうか?
結論としては、生きながらに死んでいるというのは無いですね。
生きている時は生きているし、死んでいるという事は無い。
あるとしたら、自分という【存在】を殺して、殺されて生きるという事でしょうか?
これは、所謂【無視する・される】という状態ですね。または【存在】を【認識しない・されない】。
でもこれは、【存在】が無い事にされているだけで、死というものとは別物です。
死は生の延長線上にあるものであるし、【存在】が無い事にされているというのは、【在る】の対局となるので。

という事で、生や死は、存在の有無とは異なるという事です。
死んでも死体であったとしても、その人は存在するし、生きていれば尚更です。

通常、心肺停止というのは、人の死を意味する場合が多いわけですが、
しかし世の中には、心肺停止後、蘇生するという事例も報告があるわけです。これを、どう捉えるか?
死というものが生から切り離されたものであり、不可逆なものであるなら、心肺停止というのは、
必ずしも死では無いという事になります。
もう1点は、脳死状態を如何に認識するか?

私が思ったのは、死というのは生の終端であるという事です。
終端であるのであれば、再開というのは無いので、心肺停止というのは『=死』では無いという事になります。
脳死についても同じで、脳死から帰還するケースの報告がある以上『=死』では無いという事ですね。

では、その生の終端は、どの様な状態なのか?

ここ1つの可能性について考えます。
もし人に魂が存在するとしたら?
もし人に魂が存在するのであれば、死とは、その魂と肉体が完全に引き離され、戻れなくなった状態と考えられないか?
人にもし魂が存在するのであれば、これによって生の終端を、説明できる様な気がします。

魂の存在について関する考察は、まだまだ先の事として、もう少し、生について考えてみたいと思います。

※補足
個人的には、脳死=死という認識は無いのですが、脳死となった場合の臓器移植を否定するものではありません。
なんと言っても私は、ドナーカードを所持しており、脳死時の自分の臓器提供に同意しています。
自分の事を言えば、脳死となって意識を取り戻せる奇跡を待たずに、最後の役目として、臓器を提供するのでも良いじゃないかという認識なのです。
世の中には、自分の死を省みずに他者を守る人も居ますし、それは尊い行為だと思います。
脳死後の臓器移植は、その中でも、自分にとっては比較的抵抗の少ない部類なのかな?と思うのです。
痛みや苦痛も認識できないですし。
勿論、自分を守る事によって人を救う事もできますから、それもまた良き行為なのだと思っています。
何より人の死は、自身に近しい人の心を傷付けますので。
だから、もし脳死による臓器提供に同意するにしても、親や家族などの理解が欠かせないと思っています。