天地人直江兼続25、前田慶次の米沢における屋敷跡
会津古城研究会長 石田 明夫山形県米沢市 米沢駅より車で10分
慶長6年(1601)、関ヶ原の敗戦後、会津を去った上杉景勝と直江兼続。他家の誘いを断り、禄高も減らされるを承知で米沢に移った前田慶次。屋敷は、米沢東の郊外で、山麓に丘が点在する工業団地のある堂森地区に慶次の屋敷とされる慶次清水が残っている。東には野球場がある。スコアボードの西に、雑木林があり、清水への通路が100mほど続いている。そこで小学生と会った。ゲームで前田慶次のことは知っているという。また、水汲みに訪れる人もあり、豊富な水量を誇っている。清水は2ヶ所並んであり、庭跡の可能性もある。屋敷を取囲むような土塁や水路は確認できない。慶次は、ここで病死したという。
会津の歴史は「考古学から見た会津の歴史」へ最新の画像[もっと見る]
- 戊辰・会津戦争2 孝明天皇の信頼と新選組誕生 7年前
- 会津の歴史40 会津の地名と神話の世界 8年前
- 会津の文化15 80年ぶりの米沢街道、桧原峠の通行 14年前
- 会津戦争9 南会津の蝉峠のざんごう跡 14年前
- 北の関ヶ原30 会津の前田慶次の屋敷 14年前
- 北の関ヶ原29 兼続も歩いた「米沢街道」 16年前
- 北の関ヶ原29 兼続も歩いた「米沢街道」 16年前
- 北の関ヶ原27 会津の上杉謙信廟 16年前
- 北の関ヶ原26 会津の林泉寺 16年前
- 北の関ヶ原25 米沢の前田慶次屋敷跡 16年前