石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

北の関ヶ原11  兼続・上杉景勝の道(堂)谷坂陣跡

2007年12月10日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続11、直江兼続・上杉景勝が対家康戦で築いた陣跡

会津古城研究会長 石田 明夫

勢至堂峠入口の太閤道を取り込んだ大規模な「道(堂)谷坂陣跡」は景勝の精鋭部隊八千人が守備 

福島県須賀川市長沼町江花  国道294号線勢至堂峠南側 東北道須賀川ICより30分

慶長5年(1600)上杉景勝と直江兼続は、徳川家康の会津進攻に備え、白河市石阿弥陀や栃木県日光市の横川7山王峠などに防塁を築きます。とくに家康の有力な進攻ルートと想定された白河から長沼、そして勢至堂峠付近が最も厳重に防塁を含め防御施設を造りました。堂谷坂陣跡は、勢至堂峠南側入口に位置し、太閤道の街道を遺構内に複雑にとり込んだもので、土塁、堀切、平場、堀によって防御された大規模な守りの陣跡。『会津要害録』に慶長五年に築いたことが書かれています。景勝は、この陣を築き8000人で、徳川家康の進攻に対し、指揮をしていました。山頂部分まで、削平された移動用に使用する山道が延びています。残念ながら国道294号線の改修工事で遺構の一部が消滅し分断されています。勢至堂峠の頂上部分にも上杉景勝・直江兼続時代の防塁と戊辰戦争の塹壕があります。

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