阿賀野市ブログ応援隊

個人・サークル・行事・歴史・頑張っている人などの阿賀野市の情報と、人生の楽しみ(?)をお伝えします。

手塚治虫 展

2024年02月29日 | 絵画・彫刻・書など

 鉄腕アトム(1958年の絵) 展覧会で購入したハガキ

(下)平成2年(1990年)9月21日~26日 新潟市中央区にある「新潟三越」7階で「手塚治 夢ワールド」という漫画原画の展覧会が開催されました。手塚治虫は平成1年(1989年)2月9日 60歳没「昭和3年(1928年)11月3日生」

   

(下)1990年9月17日付の新聞の広告(新潟日報?)。私は手塚治虫の漫画原稿を実際に見たく、新潟まで見に行きました。

  生の漫画原稿の絵、本当に上手でした。

鉄腕アトムは1952年4月~1968年3月まで月刊誌で漫画が発表された。 1963年~1966年、アニメ(白黒)でテレビ放映(1期)された。

   

(上左)昭和50年(1975年)6月発行 (上右)平成元年(1989年)5月発行 ※手塚治虫は1989年2月9日没

(下)手塚治虫の「ブッダ」 1972年9月~1983年12月に連載。

コメント

生田神社 (神戸市)

2024年02月28日 | 史跡など

 兵庫県神戸市にある生田神社(いくたじんじゃ)の御朱印。

2024年2月19日 2月限定の特別御朱印として頂きました。 初穂料500円。神戸市の式内社で、創建は神功皇后元年(201年)。

コメント

春が、すぐそこに

2024年02月27日 | 日記

コメント

「大地主・市島邸の物語 11」 浄念寺との関係

2024年02月26日 | 大地主・市島邸の物語

市島宗家市島春城は、新発田市五十公野の浄念寺にある

 浄念寺→ 文明5年(1473年開基・大和国「奈良県」広瀬郡細川氏祐慶、越前国「福井県」足羽郡広瀬村に一字を創建して、浄念寺と号す。その後、慶長3年(1598年)5月 第5世住職祐白の代、現今の地(新発田市)に移りて堂宇を建立す。この堂は明治32年(1899)2月の火災に焼失焼失から87年後の、昭和62年(1987年)新しい寺を新築した。

 この浄念寺は、藩主・溝口氏の転居と共に移動し、福井県→石川県→新発田市と移動してきたようです。よほど寺と溝口氏の交流・信頼があったと考えます。この時代、藩主が移動すると寺や住職も移動したようです。移動前の寺・墓地などは誰が管理したのでしょうか。新しい住職が転任して寺を管理したのでしょうか。

市島宗家の菩提寺は、新発田市五十公野の浄念寺。浄土宗大谷派。(下図参照)

市島徳次郎(3代目)の7子・「ふみ」は、新発田市五十公野・浄念寺の住職、専順に嫁す。市島宗家は、この時、浄念寺と親戚になりました。

 浄念寺の位置図

 ← 浄念寺

(上)昭和62年(1987年)8月1日、浄念寺が再建された。 寺が焼失した前後、日清戦争・日露戦争・福島潟を高額で購入など様々な理由で、金持ちの市島家は寺の再建費支出まで余裕がなかった・・かもしれません。

 「上記」詳しく書くと、 明治27年(1894年)8月~明治28年4月まで日清戦争 → 明治30年(1897年)に市島徳次郎(湖月)は貴族院議員を退任。市島邸内に冠婚葬祭などの公式行事の本屋敷として湖月閣を造営完成 → 明治32年(1899年)2月に浄念寺が火災で焼失 → 同年3月、耕地整理法施行。市島宗家、株式投資に対する資金転換のため赤字経営 → 明治37年(1904年)日露戦争が始まる → 明治40年(1907年)日露戦争後の恐慌が起る。水原郷(阿賀野市)が凶作、減収は平均25%以上 → 明治44年(1911年)市島徳次郎の・佐藤伊左衛門(水原町下条町の佐藤家に養子に行った)が死亡し、子が相続。その負債整理のために佐藤家が所有していた福島潟を兄・市島徳次郎が多額の金額で購入 → 寺の改築は他の檀家との関係もあり、ポンと市島宗家は改築費用を捻出できなかった可能性があります。  

 

 

 

コメント

明治23年(1890年) 新潟県の多額納税者名簿

2024年02月25日 | 歴史

明治23年(1890年) 新潟県の多額納税者名簿  1位は新発田市の市島邸、市島徳次郎 11,282円。 4位は聖籠町の二宮邸、二宮孝順 6,625円。 9位は新潟市江南区(旧横越村)の北方文化博物館、伊藤文吉 4,702円。 11位は阿賀野市(旧笹神村)の五十嵐甚蔵3,922円。 15位は阿賀野市(旧安田町)齋藤弥惣兵衛 2,698円。  写真は市島邸で撮影。  「朝野新聞(ちょうやしんぶん)」とは、明治7年(1874年)~明治26年(1893年)11月19日まで東京で発行された新聞。民権派の政論新聞。

コメント

新潟湊之真図 安政6年(1859年)

2024年02月23日 | 歴史

新潟湊之真図 安政6年(1859年) 新潟市中央区にある白山神社の境内で撮影。 江戸時代の話です。

コメント

新潟市・白山神社の「花アート 2」

2024年02月22日 | ちょっと、いい写真

コメント

セーラームーンのカード 29

2024年02月21日 | セーラームーンのカード

   セーラームーン

コメント

新潟市中央区 「黄龍神社」 2024

2024年02月20日 | 史跡など

2024年1月31日 新潟市中央区・白山神社の境内にある「黄龍神社 おうりゅうじんじゃ」

 

 今年は「辰年」のためか、人気です。

 黄龍神社の御朱印。1月31日参拝なので「初詣」と記載。

コメント

赤い自転車 19

2024年02月18日 | ちょっと、いい写真

 2023年6月 「じゅんさい池」

コメント

備忘録41 沖縄の泡盛 古酒

2024年02月17日 | 備忘録 

沖縄県石垣市にある請福酒造(有)の泡盛・7年熟成古酒 アルコール分43度 900ml

2000年に石垣市へ旅行。久しぶりに会った友人から土産としてもらいました。木札には1992年製造と書かれています。

泡盛は、ちょっと匂いに癖があり苦手な酒でしたが、頂いた古酒の泡盛は「日本酒?」と思うほど匂いに癖が無く、良質な日本酒を飲んでいる感覚でした。やはり、値段が高額だと酒の味が違います。おいしい泡盛を頂いたことに感謝。

この泡盛を新潟で買おうとしたのですが、当時は新潟で売っておらず購入できませんでした。現在はネット販売の時代、ネットで検索したら現在の請福酒造さんでは、写真の泡盛は販売されていません。残念! 私にとっては、幻の酒になりました。

 

コメント

「大地主・市島邸の物語 10」 新発田藩の領地説明図1833

2024年02月16日 | 大地主・市島邸の物語

新発田藩の領地説明図(天保4年・1833年) 着色しているのが新発田藩の土地

最初の新発田藩の時は、図右下の赤い矢印先「赤色斜線部分」のおおよそ阿賀野市地区も新発田藩領。その後、幕府領になり、水原代官所が設置・管理した。新発田藩は、新潟市中央区沼垂・鳥屋野潟、旧亀田町、旧横越村、旧新津市、旧小須戸町、旧加茂市、旧中之口村、少し離れて三条市と旧与板町の中間部分など広大な土地が領地でした。新発田城は領地の右端に置かれました。図面の色の違いは、管理地区の違いです。それにしても新発田藩は、広大な土地を支配していました。溝口家が豊臣秀吉に信頼されていたからでしょう。そして、徳川の時代になり、外様大名になっても同じ土地を支配。徳川家からも信頼されていたと考えます。  藩主・溝口家は最初に新発田市五十公野に住居。城が完成してから新発田市の街中に転居。市島家も最初に五十公野に住居。藩主・溝口家と近い関係だったから五十公野に住居したと考えられます。市島家は侍の身分だったけれど、戦闘要員でなく事務方のような仕事をしていたのだろうと推測します。

コメント

新潟市中央区 「白山神社」 2024

2024年02月15日 | 史跡など

新潟市中央区にある「白山神社」  平日なのに、大勢の参拝者がいました。 2024年1月31日撮影。

 拝殿

 拝殿の内部

(下)白山神社の境内に設置されている説明看板から複写したものです。

コメント

瓢湖 今昔物語113 (令和・2021)

2024年02月14日 | 瓢湖

コメント

写真家「荒木経惟」写真展 in 新潟市

2024年02月13日 | 絵画・彫刻・書など

写真家「荒木経惟 あらきのぶよし」 写真展。 2014年8月9日~10月5日 新潟市美術館にて

荒木経惟(あらきのぶよし) 昭和15年(1940年)5月、東京都台東区生。 1971年 電通の同僚・青木陽子と結婚。1971年、「センチメンタルな旅」私家版・限定1,000部の写真集を発売。 1972年、電通を退社しフリーになる。 1976年、「わが愛・陽子」銀座・ニコンサロンで写真展開催。 以後、多数の写真集を発表。

(下)会場で購入したポストカード。 亡くなった奥さんがモデルです。

            ←  葉書の裏面の文字

     

  ← 会場のパンフレット

 ← 新聞の広告

この展覧会で3つ、記憶に残っていることが有ります。一つは「センチメンタルな旅」という荒木の新婚旅行の写真。朝方、行為が終わった後のシーツの乱れを数枚撮影したもの。この写真を会場にいた若い男女、新婚か同棲中の雰囲気の二人がシーツの乱れている写真を見て真剣に話し合いしている様子。二つ目は写真展の写真展示はパネル張りが常識だと思っていたのに、印画紙の写真そのまま、又は薄いボードに貼って展示していたこと。展示は「パネル張り」でなくて良いんだ!!と驚いたこと。三つめはアラーキーの写真は陰毛が写っている写真が多いのですが、公の美術館で陰毛がそのまま写っている写真が多数展示されていたこと。さすがに、そのまま展示はしにくいので3畳くらいの広さにカーテンで仕切り、中に入らなければ写真が見れないように配慮されていましたが、陰毛の写ったヌード撮影した女性のポラロイド写真が多数、壁面にびっしりと展示していたこと。「時代は変わった」と驚いた記憶があります。現在の世の中の常識(コンプライアンス)だと、このような展示は不可能かと思います。新潟市美術館では最初で最後の展示方法だったかも。

(上)「芸術新潮 1991年5月号」 荒木経惟の特集号です。新潟市での展覧会は、この雑誌が発行されてから22年後。写真表現でアンダーヘアが当たり前になった時代でした。

コメント