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「カラスの絵」 長井一禾と息子・大有

2023年02月14日 | 絵画・彫刻・書など

カラスの絵の名手といわれた長井一禾(ながい いっか)は、阿賀野市・旧水原町の生まれ

長井一禾(1869~1940年)旧水原町外城町・佐藤家で生まれる。9歳の時に長井家の養子になった。

39歳でアメリカから帰国後、「カラスの一禾」として多くのカラス画を残した・昭和15年病没。享年71歳。

会場でカラスの絵を見ましたが、カラスの眼が鋭く、「生きている」感覚になりました。2023年2月26日まで阿賀野市保田・吉田東俉記念博物館で展示しています。入場料は大人300円。 2階に展示しています。  ネット検索し、ウイキペディアを見ても前記会場でもらったパンフレットの略年譜の方が詳しいので、阿賀野市出身の画家・長井一禾を今以上に世の中の人に知ってもらいたく、パンフレットの表裏のの記事一部を投稿しました。パンフレットの略年譜の文字は1文字が1.6mm。拡大鏡が無いと目の悪い人には読めません。スキャナーで拡大し投稿しました。

 展示会のポスター

テレビ「開運!なんでも鑑定団」の番組でも何度か「長井一禾」の作品が出品されています。阿賀野市出身の画家とは知りませんでした。

1889年に東京麻布歩兵第三聯隊に入隊。1891年に満期除隊。「越後に帰り、資本金10万円で石油会社を創設、その社長となったが1年ほどで撤退。また描きだした」と伝えられる。1895年(明治28年)、新潟新聞新年初刊に長井一禾「第16聯隊補充大隊下士」の絵画(石版画)が載る。1900年 日本美術院内の絵画研究会に出品。岡倉天心・横山大観・川合玉堂らと互評。7月 水原町天朝山公園内の市島別邸7で画会頒布会。余剰金をを前年焼失した水原尋常小学校建築費の一部にと13円50銭を寄付。

1901年 陸軍軍曹だった長井一禾が旧笹神村の大日ケ原で秋季陸軍大演習巡視のために来越中の閑院宮載仁王殿下を水原・越後府跡の天朝山に案内。予定にはなかった松の苗の植樹を言上「お手植え」が実現。 1905年 アメリカのクラーク百年記念万国博覧会にカラス図を出品、銀牌受賞。

(下)明治41年(1908年) 2月にアメリカから帰国後の4月17日撮影の写真●長井一禾(39歳) 東京市下谷区上野桜木町に転居

   8月に帰省し、新潟市に滞在。

1914年 大正天皇即位記念に「八咫鴉図」を謹製献上

 

1917年 兵庫県須磨に転居 1920年 一禾・大有親子、大連で絵画頒布会。 1929年 息子・大有死す、29歳。1931年 樺太からの帰途、郷里水原に立ち寄る。1932年 7月神戸で水害。須磨の住居流失。郷里水原の有志、家屋復興資金調達のための画会を計画。作品頒布(水原町の人で一禾の絵を所持している人が多くいるのは、その為なんですね) 1937年 京都楞厳寺に滞在。4座敷に翌年までかけて四季の鴉襖絵を描く。1938年 楞厳寺の襖絵完成。筆塚を建立。断筆。 1940年 71歳で死去。

長井一禾の子・大有(ながい たいゆう。1900~1929年)

 長井大有の絵

 29歳で夭折

長井大有 帝展入選作家(4回) 才能の非凡さを周囲に認められつつも、昭和4年(1929年)に29歳で死去

なお、父・一禾は、大有を失ったことに力をおとし、その晩年は社会の一切から脱却し禅僧の如き枯淡な日々を過ごしたという。「笠原軔を中心とする阿賀野市ゆかりの文人集Ⅲ 2009年発行」から  ネット検索すると、長井一禾の作品は安価で購入できそうです。


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