阿賀野市ブログ応援隊

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新潟市・白山神社の大船絵馬、新潟湊之真景と画家・井上文昌

2024年03月10日 | 歴史

(上・左右)新潟市中央区にある白山神社 2024年1月31日撮影

(上・左右)白山神社の拝殿の内部。赤い矢印先に「大船絵馬」が奉納されています。絵の前にはネットが設置されています。

(下)大船絵馬のレプリカ。絵を見てわかるように文字で説明されています。 この絵馬は嘉永5年(1852年)5月、阿賀野市・旧水原町中央町2丁目に住んでいた市島家(現在は新発田市天王に転居し、市島邸として公開されています)の分家・角市の戸主・市島次郎吉正光(廻船差配人)「市島春城の実家」が所有していた北前船の航海安全を祈願して奉納したもので、1.9m×3.6m(2坪)の大きさで新潟湊(港)の御城米(幕領の年貢米)積み出しの様子を描かせ新潟町(市)の鎮守・白山神社に奉納。 この絵を描いたのは新潟市生まれの井上文昌(いのうえぶんしょう) 1818年生~文久3年(1863年)・45歳没。33歳の時に描いた絵です。有名な谷文晁の門に学んだ画家。新潟町で代々町役人をつとめていた井上家の生まれ。この絵のレプリカは新潟市歴史博物館みなとぴあ常設展で展示しているそうです「確認していません」。 絵の左下端には、この年の御城米を管理する蔵宿を務めた新潟町の商人、宿 近江屋利右衛門、加宿 室屋文右衛門の名前が書かれています。 この絵は新潟県指定文化財として昭和44年(1969)年に指定されています。 (下)の画像は白山神社の境内に設置されている歴史説明立てパネルを撮影したもの。境内に何枚も図面などが設置されています。 ※角市の市島春城は早稲田大学の初代図書館長    このブログの末尾に「大船絵馬」についての続きの投稿があります。ぜひ、お読みください。

(上)説明文の1行目の中央 「寛永5年」とありますが「嘉永5年」が正しい文字です。(下)大船絵馬の中央部分の拡大。市島次郎吉の所有するベザイ船の絵が描かれています。※弁才船(べざいふね・弁財船、弁済船とも記述された)は、安土桃山時代から江戸時代・明治にかけて日本での国内開運に広く使われた大型木造帆船。江戸時代後期は1000石積の船が主流になった。新潟湊が開港したのは1869年。開港17年前以前の江戸時代後期の北前船往来の様子が描かれています。

北前船は、北海道から新潟、大阪へと日本の西側の日本海から瀬戸内海を航海しました。

(上)「春城代酔録」という市島春城の本には、先祖が白山神社に大船絵馬を奉納した時のことが次のように書かれています→「廻船業が最も盛んだった頃は千石船を40隻所有し、各船は種々の物資を積んで諸方に廻漕し、帰着の時は千両箱の1個を持ち帰るのを通則としていた。40隻全部が千両を持ち帰ったかは疑わしいが、仮にすべてが通則通りであったとすると、1年間で4万両の金を得たことになる。当時に於いて決して少ない金ではない。前述の大船絵馬の額を白山神社に奉納の時の事に就き先考の談を聴くに新潟の歌妓数十人に盛装せしめて額を載せた車を曳かせ市中を練り歩いたので、満市時ならぬお祭り騒ぎを演じたとあるが、奉納済んでその夜、新潟市全市の妓を総揚げして盛宴を張った豪奢振りは今日でも新潟で故老の言い伝えが残っている。多分、この額を奉納した頃が角市の絶頂に達した時であろう。

  明治初め(?)の白山神社前。白山神社の入口前は現在のような道路でなく、水路(川)でした。写真のような芸妓さんたちを角市の市島次郎吉は「大船絵馬」の奉納祝として総揚げして盛宴をしたのでしょう! 男性として、ちょっと羨ましく感じます(お金が無いと無理です)。ただ、この幸せは何年も続きませんでした。

(下)寛政7年(1795年) 図面の上半分が白山神社。神社入口の鳥居下部は、水路(現在は広い道路になっています)。神社の上側は信濃川。現在の信濃川はもう少し上側に移動しています。※大船絵馬を奉納する56年前の図面 鳥居の右側には米蔵が建ち並んでいます

(下)明治40年の白山神社の図面。この図面にも白山神社の入り口前は水路で、船が通っています。ただ、江戸時代は入り口前の水路側に米蔵が多く建っていました。この図面には米蔵が描いてないので、取り壊したのでしょう。絵の上部には弥彦山と角田山が描かれています。弥彦山の下部は、信濃川です(白山神社のすぐ横に信濃川が流れていました。現在は道路になっています)。(下)の図、左側は白山公園。明治5年(1872年)に新潟遊園として造営されました。 

「春城代酔録の続き」大船絵馬奉納、その後何年であったか台風の為に多くの船舶が覆没した事がある。春城の家も1年に27隻の船を失い、1859年、下記の「新潟湊之真景」が描かれた年に廻船業を廃業した(大船絵馬を奉納した7年後に廃業。損害が大きかったようです)。角市の名前が意外に広く各地に知られたのは、廻船業の為であって船頭などで巨利を博したから。北海道の函館には土蔵造り3階建の建物も所有していた。この建物も火災で焼失した。」 ※大船絵馬を奉納した年、市島次郎吉(屋号・角市)は、長岡藩立て直しのために本家・市島宗家と共に各2千両を差出した。翌1853年、関東地震・米使ペリーが浦賀に来る(黒船騒動)。1854年、鎖国制度の崩壊。角市・市島次郎吉(3代)は63歳で没。死亡した5年後の1859年、新潟湊之真景が描かれる。1860年、角市・市島春城が生まれた。市島宗家、新発田市の天王に転居した。

(下)新潟湊之真景 この絵も井上文昌が40歳の時に描きました(描いた4年後に死亡)。安政6年(1859年)に、新潟への最初の外国船渡来を描いています。UAG美術家研究所のHPでは「井上文昌の現存作品は少なく、経歴もほとんどわかっていないが、新潟市の白山神社の「大船絵馬」や、新潟への最初の外国船渡来を描いた(新潟湊の真景)の作者として知られている。ほかに武将絵馬・吉祥絵・版本の挿絵や袱紗の意匠・粉本などが残っている」とあります。

  下の絵は、市島次郎吉が白山神社に大船絵馬を奉納した7年後の作品。この絵の10年後に新潟湊は開港し、外国船が入港しました。この絵については新潟市の郷土史家・齋藤倫示さんの調査では「1859年4月22日にロシア船が入港、1859年4月23日にオランダ船が入港、同年10月に英吉利(イギリス?)船が入港、ほかに国籍不明船が2隻(佐渡沖に来たとか)。異国船6隻が同時に来港したのでなく、デフォルメして描いてある」そうです。 

 ※「新潟湊之真景」が描かれた3年後の1862年、阿賀野市(旧水原町)の下福岡集落(阿賀野川の畔・分田集落の近く)に会津藩が村替新地支配のため福岡代官所を創設します。この陣屋詰役人は奉行など合計15名。下福岡集落の隣集落・水ヶ曽根で会津藩が切り倒した木材を阿賀野川に流し運び、ここで水揚げ・製材。山間地にある会津藩は海に近い水原代官所の一部が欲しかったようです。阿賀野川沿いにあった福岡代官所から新潟湊に物資を運び北前船で大阪などへ。又、帰りの船で大阪などの製造した物を購入、会津に送っていたと考えられます。外国船からの情報も入っていたでしょう。福岡代官所の創設3年後の1865年、旧笹神村(阿賀野市)の15の集落の地域が会津藩領になりました。この新潟湊之真景という木版画の図面、会津藩も所有していたと考えられます。そして新潟湊も欲しがった可能性があります。色々と考えさせる図面です。

  明治時代の北前船の写真。白山神社境内の立て看板から撮影。

新潟市の郷土史家・齋藤倫示さんの紹介

井上文昌について斎藤さんは研究成果を「越佐文人研究会編の新潟県文人研究」という本で、研究成果を発表されています。

 ・新潟県文人研究 第14号(平成23年・2011年) 新斥の画人「井上文昌」の交わった人々 37ページ

 ・同誌 第15号(2012年) 「井上文昌の出自について」 10ページ

 ・同誌 第16号(2013年)「井上文昌の事績」 12ページ

 ・同誌 第17号(2014年)「井上文昌の眷族」 7ページ

 ・同誌 第23号(2020年)「再び井上文昌についての考察」 9ページ

上の絵について、斎藤さんはユーチューブ(4回)でも説明されています。音声と絵での説明で理解しやすいです。

 ユーチューブは「幻の画家 井上文昌と探る江戸末の新潟町」で検索してください。

(下)2024年3月2日にテレビ局・UX開局40周年記念特別番組「新潟 水の末裔たち」という1時間30分間の番組が放送されました。この番組でも「新潟湊之真景」の図が紹介されました。この図面は木版画で、新潟港に出入りする各藩に港の説明用に配布したそうですが、現存しているのは3枚だけとか。ユーチューブで齋藤倫示さんが説明していた「水戸教」の説明もしていました。水戸教というのは宗教でなく、港に出入りする大型船に港の川底の深さ(浅い場所・深い場所)を教える役目や出入りする船の確認をした職業の人・・のようです。又、番組内で新潟湊が重要で、水原県から新潟県に変更・県庁が新潟市に移転した・・と説明していました。水原県は阿賀野市の旧水原町中央町2丁目にある天朝山公園内に、水原県庁の建物が戊辰戦争後に新築されました。水原県という言葉がでて、阿賀野市民としては嬉しかったです。

 ナビゲーターは新潟市出身の藤井美菜さん。良い番組でした。

「3月16日追記」 齋藤倫示さんからの新しい情報です。新潟町が上地され、初代奉行の川村修就が水原代官所の小笠原代官を訪れ、その時に市島次郎吉宅で供応を受けた記録がある。その節に「井上文昌」の話がでたのでは?・・との情報です。 

 齋藤倫示さんFacebook「新潟郷土史コミュニティ」で情報発信されています。ぜひ、検索してお読みください。

「私の仮説」 齋藤さんの情報・Facebookの情報・水原町編年史・ウィキペディア情報・私が作成した年表などから想像すると、「大船絵馬」については、下記のような話になるのでは? 

 新潟湊(港)と町は、長岡藩の領地でした。この新潟港は他藩との貿易では重要で、幕府は長岡藩に上地(港の土地を幕府に寄付させました)させ、幕府管轄の港としました。港を管轄すれば「お金」が幕府に多く入るからです。新潟町は1843年(天保14年)に天領(幕府の土地)になり、新潟町に初代の新潟奉行として川村修就(かわむら ながたか)が着任しました。新潟奉行は天領となった新潟周辺の地域を支配する為に新設。設置の理由は日本海交通の要衝である新潟港の管理。新潟に駐在し、その民政や出入船舶の監視、密貿易の取締り、海岸警備、海防強化が役務。老中支配で1,000石、役料1,000俵の身分。 ただ、港を長岡藩から上地させても、幕府の命令に従う船(北前船)がなければ、港を上地させた意味がありません。それなら幕府で北前船を多く建造すればいいけれど資金がない。そこで大金持ちの地主に船を作らせることを考えた。幸い、新潟の隣に水原代官所という幕府の役所があり、そこに大地主が数件いる。新潟奉行は水原代官に船のお金を出資してくれる大地主を紹介してくれるよう水原代官所を訪ねた。

 水原の一番の大地主は市島宗家(市島邸の家)だが、数年前に飢饉で苦しんでいる農民を救う為、天朝山を埋立て・土盛工事をし農民に人夫賃を支払い生活を助けた。そして天朝山に自分の別邸を新築した。そんな状態だったので多くの北前船を建造するお金の余裕はなかった。そこで次にお金持ちの市島の分家・角市の市島次郎吉に白羽の矢を立てた。「水原代官所を訪ねた時に、新潟奉行は市島次郎吉宅で供応をうけた」と記録があるが、これは水原代官所の建物の中でなく、市島次郎吉の屋敷で新潟奉行・水原代官・市島次郎吉が話し合い、船を作ることになった。その礼として幕府の北越御用米の廻漕の免許を与える約束をした。北前船で大阪と北海道を一往復すれば現在のお金で1隻6千万円~1億円の収入が見込めるから魅力的な話である。実際、翌年の1844年(天保15年)に市島次郎吉は廻漕船(北前船)を23隻建造し、幕府から越後御用米の廻漕の許可を受けて営業開始。船で莫大な利益を得、1852年には北前船40隻を所有して営業しています。廻船業を初めて8年間で23隻から40隻に増加。いかに利益が大きかったか。もちろん江戸時代の話・江戸時代の常識で、市島次郎吉から幕府や新潟奉行に何かしらの利益(お金)を与えていたでしょう。廻船業を始めた1844年には江戸城西丸大火に市島次郎吉は300両を献上。廻船業の許可のお礼でしょう。普通に考えれば廻船業をしたことのない人に、いきなり御用米の廻漕を許可するのが不自然です。ほかにも接待や個人的なお金の渡しの可能性も。もちろん、そんなことは記録に残さないですが。幕府にとって大地主は銀行のようなものだったかも。

 1852年(嘉永5年)新潟港の前所有者・長岡藩が財政困窮し、長岡藩の財政立て直しの為に幕府管轄の、水原代官所の代官斡旋により水原の市島宗家と分家の市島次郎吉は各2,000両を差出しています。新潟港の前所有者である長岡藩を助けるために新潟奉行・川村修就が動いて水原代官斡旋という形で長岡藩の財政を救った。新潟奉行は長岡藩に恩を着せた可能性があります。新潟港を上地させられた長岡藩は収入が大きく減少。新潟奉行と長岡藩では「トラブル」が頻発していた可能性があります。そこで長岡藩の財政困難を救った、新潟奉行と市島次郎吉の関係は強固になり、目出度いことなので何かの祝いをしよう。この「何か」が大船絵馬の奉納だったのでは。なぜ、そう考えるのか。大地主といえ市島次郎吉は町人・平民。そして水原代官所の領地の人間。他所の新潟町でお祭りのような派手な行列や新潟町の芸妓全員をあげての宴など、江戸時代・武士の時代にできないでしょう。そんなことをしたら新潟奉行所に目を付けられ中止されます。又、嫌味で嘘の罪を作り罪に問います。それが無い・・ということは新潟奉行承認、市島次郎吉の宴には新潟奉行や配下の者も出席。新潟の地元有力者も出席。そして、この祝「長岡藩に新潟奉行が勝った」の証を後世に伝えるために考えたのが、井上文昌に描かせた大船絵馬。小さいと白山神社に奉納しても目立たないので遠くからでも見えるよう2坪(畳4枚分の大きさ)の絵馬なのでしょう。なぜ、そう考えるのか。大船絵馬には市島次郎吉の北前船だけでなく、江戸城や大阪城の絵が描かれています。当時の平民が江戸城や大阪城の絵を自分の為の奉納額に城を描きこむことは断罪される可能性があります。それが出来たのは後ろに新潟奉行がいるからでしょう。大船絵馬を奉納するときの派手な行列や宴。そして、この大騒ぎが(長岡藩の財政より新潟の方が数段立派だという事実)を後世に伝えるための大船絵馬の奉納だった気がします。そして絵馬を描いたのが新潟町で代々町役人を務めている家の息子。市島次郎吉に北前船を作るよう打合せをした時、絵馬を井上文昌に描かせるという話も決まっていたのでは。大きな絵ですから短期間で描けません。その時の井上文昌の父は、役人として良い地位にあったのかもしれません。もちろん、絵が上手でなければダメですが。大船絵馬の絵が評判で7年後に「新潟湊之真景」も新潟奉行に依頼され井上文昌が描いたと考えます。当時の役所の絵、絵が上手だからと簡単に依頼されることは無いでしょう。町役人の子・谷文晁の門に師事した・絵が上手い等、いくつかの要素が無ければ無理です。こう考えると上記の2枚の絵には、いろんな人生・経済の状況・出世・人付き合いなどが感じられます。 この話、私の想像ですが、7割くらいは正解かと考えます。

 

 

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