
高真司さんの「生活保護費減額取り消し訴訟」
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<高さんの著作>
『風をさがす道のりⅠ』(1990年3月発行)
小説『烈火』(1991年3月発行)
『風をさがす道のりⅡ』(1992年9月発行)
戯曲『春の雪』(1994年2月発行)
『風をさがす道のりⅢ』(1998年3月発行)
<高さんの略歴>
1950年12月 金沢市で生まれる
1977年3月 生活保護を受ながら、自立生活
1988年1月 母親が死亡。石川県心身障害者扶養共済年金、月額2万円を受給
1988年9月 金沢社会福祉事務所は収入と認定し、生活保護費を2万円減額
1994年4月1日 「生保決定通知書」
1994年5月18日 石川県に「生活保護費減額処分審査請求」→7/6棄却
1994年8月3日 厚生省に再審査請求→翌年4/18棄却
1994年7月18日 「生活保護費減額取り消し訴訟」提訴(金沢地裁)
1997年12月18日 他人介護料特別基準として、月額76万円の支給を申請
1998年3月31日 他人介護料特別基準として、月額12万4500円とする生活保護決定
1998年5月29日 右決定に対し、審査請求→7/15棄却決定
1998年8月14日 右決定に対し、再審査請求→まだ結論が出ていない
1999年3月11日 結審
1999年6月11日 金沢地裁判決
1999年10月4日 控訴審第1回口頭弁論(金沢高裁)
2003年7月17日 最高裁決定(勝訴)
2004年8月27日 死亡
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<註1>高真司さんの裁判は、法律的には「収入認定の取消と適正な介護料の支払 いを求める生活保護費決定処分取消請求事件」と呼ばれるのですが、このパンフレットでは、わかりやすくするために、「生活保護費減額取り消し裁判」と呼ぶことにしました。
<註2>高さんの証言や著作からの引用は、「 」で括りましたが、<5>及び<7の(3)>全文引用なので、「 」で括りませんでした。
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目次
はじめに
第1部
1 高真司さんの訴え
(1)ジリジリと頭をもたげる不満、(2)母がかけてくれた気持ち、(3)公的保障があたりまえ
2 介護が不可欠
(1)障害、(2)外出、(3)排泄、(4)食事、(5)睡眠
3 おそまつな公的介護
(1)介護の現状、(2)公的介護サービス、(3)全身性障害者介護派遣事業、(4)ガイドヘルパー制度、(5)ボランティアやアルバイト
4 高さんの家計簿
(1)収入、(2)支出
5 あたりまえに地域で生きる
第2部
6 自立まで
(1)子供のころ、(2)学生との出会い、(3)生きざまをさらして、(4)信念を曲げず、(5)遠慮なく、迷惑をかけて
7 自立後の生活状況
(1)自立…最後の壁、(2)バス闘争…自立宣言、(3)火山のような赤い炎、(4)どん底…発想の転換、(5)自立センター設立へ
あとがき
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はじめに
6月11日、金沢地裁は、石川県心身障害者扶養共済制度に基づき、高真司さんに支給されていた年金月額2万円を収入認定し、生活保護の支給額を減額したことを取り消す判決(勝訴)を下しました。
母親が自分がいなくなり、高さんが1人になったとき、介護が1時間でも多くつけられ、高さんが生きたいと思うだけ生きられるようにと願いながら、石川県扶養共済制度の掛金を払い続けていました。その意味で、高さんにとって、この年金は母親の思いがこもったもので、母親の分身であり、高さんが使うのが当然のお金です。
ところが、社会福祉事務所はこれを「収入」であると認定し、生活保護費の支給を減額しました。これでは、母親が何のために掛金を払い続けたのか、訳が分かりません。しかも高さんにとって、大切な収入が減り、生活が一層厳しくなりました。このような福祉事務所の対応は、高さんのような常時介護を必要とする「障害者」は、生活保護を受けて生活するという選択は間違いで、施設にはいって「保護」されていればいいということになります。
それは、「障害者」をひとりの人間と見るのではなく、単なる保護の対象としか見ない「健常者」中心の社会の固定化です。高さんはこれからも自立して生きていくことを希望しており、それは一人の人間としての当然の選択です。
そこで、高さんは生活保護費を減額した処分を不服として、石川県知事にたいして、審査請求(不服申し立て)を行ないました。それが棄却されたので厚生大臣にたいして再審査請求を行ない、これも棄却されたので、やむを得ず1994年3月、「生活保護費減額取り消し訴訟」に踏み切ったのです。
さらに、高さんは24時間の介護に必要な費用を要求して、1997年「他人介護料特別基準申請」をおこないましたが、「特別基準にも、上限がある」として、要求の6分の1の介護料しか認められませんでした。これについても、審査請求、再審査請求をしていますが、社会保険審査会の結論はまだ出ていません。
訴訟では、「収入認定-生活保護費の減額」の違法性と「特別基準による金額の適否」について争点となりました。判決では、裁判所は特別基準の金額については違法と認めませんでしたが、収入認定が違法であるとして、高さん勝訴の判決を下しました。
今回の裁判は高さん個人や「障害者」だけの問題ではなく、「障害者」を差別 し、排除してきた「健全者」社会の問題であると思い、このパンフレットを作成しました。
---第1部-------------------------------
1 高真司さんの訴え
(1)ジリジリと頭をもたげる不満
「1993年秋頃、年金研究会の勉強会で、『生活保護を受けて生きるしんどさを話してほしい』と言われました。レポートしたのでは面白くないと考え、劇をすることにしました。劇の題名は『生活保護より、年金で暮したい』で、内容は一人暮しを始めた女性障害者が生活保護を受けて、生活しようとするとき、どんな困難にぶつかってしまうかというものです。
この頃から、僕のなかに権利という考え方が前より強くなり、6年前に諦めさせられた扶養共済年金2万円が収入認定され、生活費から差し引かれていることに、不満がジリジリと頭をもたげてきたのです。そして、自分のやり方でまず審査請求を石川県にたいしてすることにしたのです。」(『風をさがす道のりⅢ』より)
(2)母がかけてくれた気持ち
「私の母が、生前に1か月500円の掛金をかけていた扶養共済年金というものがあります。この年金は日本型福祉の典型的なものとしてでてきたのですが、家族が助けあうのが日本型福祉の中心にあり、親は自分が年老いて、死んだ先を考えていくものという風に位置づけられているそうです。でも、私の場合、生活保護を受けなければ、介護というものを保障してくれない今の制度のなかで生きていこうとしているとき、この年金は収入と見なされ、その分は生活保護費というものから引かれていくことになるのです。
これを難かしく言うと、収入認定ということになり、母がせっせと掛けた年金が無駄になるのではないかというのが私の言い分です。私は、本当は親に年金をかけさせるような福祉はどこか社会で保障しようという考え方からずれていて、障害を抱えて生まれてきた私は親がなくなったあとも、面倒を見てもらっているようで、嫌なのですが、こういう私の気持は一旦横に置いといても、母親がかけてくれた気持が有効に生かされていないということではないでしょうか。」(『風をさがす道のりⅢ』より)

(3)公的保障があたりまえ
高さんは、現実に介護が足りず、食費も衣料費も足りず、非常に苦労しています。それでも、この大変な生活をずーっと続けたいと言っている高さんは、
「施設に行って、僕の関わる人間関係を制限されてまで生きていきたいとは思わない。たとえば、僕が奥村先生に会いたいときは、何時でも電話をして、何時でも会いに行くことができます。そういう生活をこの街のなかでしていくのは、普通のことだと思います。しかし、制度的な保障が足らないから、今は、生活保護を受けざるをえないし、特別基準の申請もしなければなりません。本来は、僕の生活は、全部公的に保障されていなければならないのです。僕は今の状態が普通じゃないと考えていますから、早く普通に戻すように努力しているし、その一環として、ここまで来て訴えを起こしているのです」と述べています。(1998.11.20『証言』より)
2 介護が不可欠(1996.11.29『証言』より要約引用)
(1)障害
高さんの日常生活は、身体障害(両下肢機能の全廃、体幹機能障害)のために、身体を自力で動かすことができません。自由に動かせるのは、目、口、首くらいで、話したり、ものを食べたりすることはできます。他に右足の先を少し動かせる程度です。したがって、何をするにも介護者が必要です。
(2)外出
自分で車椅子を動かすことができないので、介護者に押してもらいます。高さんは自立センターの活動として、ほとんど毎日、街頭でカンパを募っていますから、香林坊や武蔵が辻へ行くのにも、介護者の協力が必要です。
高さんが外出するときに利用する交通機関は、介護者が運転する自動車か徒歩、つまり介護者に車椅子を押してもらいます。車椅子用の民営タクシーは金沢市内には数台しか走っていないので、ほとんど使いません。民営バスも、車椅子で乗ることができないので、利用できません。このように、介護者がいなければ、高さんは外出できないのです。
(3)排泄
用便については、小便はし尿器で行なっていますが、大便については、介護者に車椅子から便座まで運んでもらって、行なっていますので、介護者にはかなりの負担がかかります。そのため、介護者が女性だと、力が足りないので、非常に不安で頼むことができません。
公社ヘルパーは早朝の介護をつけることができないので、高さんは午前6時に目覚めてから、自立生活センターの介護者が来る9時までなにもすることができません。高さんは「通常、朝、目が覚め、目覚めた状態で、考え事をしていると、おしっこがしたくなりますが、介護者がいないので、自分に『起きたらダメ』と言い聞かせながら、介護者が来る9時ギリギリまで寝ているようにしています。それでも介護者が来るまでに失禁してしまうことがしばしばあります」と述べています。
(4)食事
食事については、自力で食べることができないので、介護者に食べさせてもらっています。最近、経済的理由から自炊が多くなりました。自分では作れませんので、メニューを決めて、介護者が作ります。介護者によっては、食事作りが上手な人もおれば、苦手な人もいます。切り方や煮加減、調味料まで介護者に指図して作りますので、かなり時間がかかります。
なぜ、介護者に任せず、いちいち指示を出すのかといえば、「いろんな人が介護に来ていますので、介護者に左右されない生活をすることが自立生活です。いろんな人の手を借りるのは普通のことなのですが、介護者一人ひとりの能力に頼っていると、食事を作れる介護者がいなくなると、ご飯が作れなくなります。人に手助けをしてもらうのは、あくまでも自分が本当にできないところだけをやってもらうの が、自立した生活です」と、高さんは語っています。
(5)睡眠
高さんは、いつも車椅子に座ったまま、睡眠をとっています。なぜかというと、布団で横になって寝ると、自力で寝返りを打ったり、姿勢を変えることができず、また布団を動かすこともできませんから、場合によっては窒息などの生命にかかわる危険性があるからです。ですから、布団のうえで眠るときは、介護者にも泊まってもらう必要があります。しかし、経済的に余裕がないので、夜間の介護は週1回程度、ボランティアの人に来てもらい、残りの6日は車椅子に座ったまま眠ります。
週1回の夜間介護も、1997年(平成7年)4月からなくなりました。それ以後、夜間の介護がないままですが、平成8年7月に2回だけ有料の介護サービス(看護婦・家政婦紹介所)に頼んで、布団のうえで寝ました。1日1万円かかりました。
高さんにとって、介護がない場合は、車椅子に座っていた方が、若干でも上体を動かすことができ、その点では安心です。しかしよく眠れるはずもなく、身体に負担がかかり、肉体的・精神的に辛い思いをしています。最近病院で診察を受け、「長時間の座位による両下腿うっ血」と診断され、「布団のうえで、横になって眠るように」と言われました。
夜間の介護は一般に当直勤務と違い、寝返りやおしっこを何回するか分からないし、結構介助がたいへんで、介護者はほとんど寝られません。ですから、昼間の仕事を抱えているボランティアの人には、夜間の介護は頼めません。有料ならば、やってくれると思いますが、高さんにはそれだけの費用がありません。
3 おそまつな公的介護(1996.11.29『証言』より要約引用)
(1)介護の現状
高さんに対する介護の状況は、平日の午前中から日中にかけては、自立センター専属の介護者と公社ヘルパーがおこなっており、夜間や休日はアルバイトの介護者、夜中は週1回ですが94年4月まではボランティアで埋めてきました。
しかし現在の介護の体勢は十分なものではありません。1996年4月から9月にかけて、集計した、高さんへの介護の状況は上表のとおりです。
生活時間帯で、高さんはどの程度の介護を受けているのでしょうか。24時間を通しては、だいたい47%で、朝8時から夜12時までの16時間のうちの64%になります。すなわち全日(24時間)では半分、生活時間(16時間)でも3分の1も介護なしで生活しているのです。「過去に、前日の夕方から、翌々日の朝9時まで30時間介護のないことがありました。その間、飲まず、食わず、たれっぱなしでし た。以前は介護がなくなるということに恐怖感があったが、最近はマヒしてきたのか、あまり恐ろしいと思うと、暮せないから、まあいいやという感じです」と語っているような状態です。

(2)公的介護サービス
高さんは経済上の理由から、なるべく費用のかからない公的介護サービスを求めているのですが、週に6時間(月曜日と木曜日の2回)というお粗末な状態です。しかも、公社ヘルパーは土・日・祭日には頼めません。最初のころはもっと少なくて、木曜日だけで、週4時間でした。2~3年たって、やっと週6時間に増えたのですが、もっと増やしてほしいと要求しています。例えば、時間帯を変えて、朝7時から10時まで、毎日来てほしいと依頼したのですが、公社は人数が足りないとか、直接身体に触れる介護をする人で、早朝からできる人がいないと断わられています。
公社ヘルパーについては、介護者が女性であるために、同性(男性)の介護者と比べて、不都合なところがいろいろ出てきます。男性には男性の介護をつけ、女性には女性の介護をつけないと、「障害者」の人権は守れません。具体的に言えば、気軽に着替えをしたり、おしっこをしたり、大便ができて、過ごしやすい状態が必要です。介護を受ける立場からすれば、異性の介護者には頼みにくいこともあり、同性の介護者による介護が当り前だと思います。
(3)全身性障害者介護派遣事業
現在全国で、20以上の市で全身性障害者介護派遣事業という制度があります。この介護人派遣事業とは、介護を必要とする「障害者」の24時間介護をめざして、介護人を派遣すると、その介護人の費用を自治体の予算で賄うという制度です。脳性マヒや筋ジスなどの重い「障害」のある人が、施設とか、病院ではなく、地域で生活するための介護保障制度です。
石川県には、このような介護人派遣制度がなかったのですが、ようやく1999年4月金沢市は「全身性障害者介護人派遣制度」をスタートさせました。「1日6時間以内なら、時間帯を問わず介護人をつけることができる」というもので、高さんの裁判の成果だと思われます。
(4)ガイドヘルパー制度
ほかに、ガイドヘルパー制度というのがあり、「障害者」が外出するときに、足がわりにヘルパーを使える制度があります。これは外出を目的にして介護に来るわけですから、時間ではなく、用事を果たして、帰るまでの介護です。いつでも、頼めばすぐ来てくれるわけではなく、3日から1週間前に、行き先と用事を伝えて予約しなければなりません。
公社ヘルパーのサービスでも外出できますが、家に来るのが基本ですから、外出先に来てもらって、帰るということができません。公社ヘルパーに来てもらうためには、家にいて、待っていなければならないので、活動が制限されます。
(5)ボランティアやアルバイト
ボランティアとアルバイト(有料介護)にはたいした違いはなく、行動面では、同じことを頼んでいます。ボランティアはお金がかからないので、長く続けてもらいたいという意識が働き、いろいろ説明したり、気を使っていますが、必ず来てもらえるのかどうか、不安があります。
高さんが自立した当初、今から17~8年前、朝も、昼も、夜も介護者は全部ボランティアでした。しかし時々、風邪をひいたとか、用事ができて行けないとか、緊急に穴が開くことがありました。高さんはボランティアにだけ頼るのにすごい不安を感じています。自立センターを設立したのは、介護をボランティアに頼るのではなく、きちんと有料の介護で、緊急に穴が開くという不安を解消したかったからです。高さんにとっては、介護は絶対に必要な、生きるための条件で、極端な言い方をすれば、ご飯よりも大事なのです。
アルバイトは、だいたい学生で、時給1000円を払っていますが、「1000円儲かるから」というだけでは、なかなか介護はできないと思います。やはり、「障害者」の生活を支えるという心が、意識のなかに半分でもなければ出来ないと思います。
4 高さんの家計簿(1996.11.29『証言』より要約引用)
(1)収入
高さんの収入は生活保護費の受給のほかに、障害基礎年金、介護が必要な「障害者」のための特別障害者手当があります。生活保護を受ける際、介護の必要な者には介護料が支給されるのですが、高さんが生活保護を申請したときに、福祉事務所はそのことを教えませんでした。
その後、介護料が支給されることを知り、申請したとき、「高さんの介護はボランティアに頼っていると家の人に聞いた」という理由で、1年間断わられ、1年後に市役所前で、坐り込みをしてようやく介護料が支給されるようになりました。
高さんの収入の内訳(1996年3月)は、上表のとおりです。このうち、生活保護費については、毎月4日に、障害基礎年金は隔月15日に、特別障害者手当は3か月に1回10日に入金します。したがって、3つとも入金される月もあれば、生活保護費しか入金されない月も出てきます。
そうすると、生活保護費しか入金されない月は、生活費が不足し、家賃を払うことができなくなります。家賃は、持参払いしているので、1~2か月待ってもらったり、光熱費の支払いを遅らせたりして、やり繰りしています。

(2)支出
高さんの支出の大半は介護料に当てられています。毎月、自立センターに11万円、アルバイトに10万円前後支払っています。その他の支出は極力抑えており、衣類や娯楽費などはほとんど削り、食費も1日2食にしたり、栄養のことを考えるよりも、安いものを買うようにしています。
家賃は、5万1000円かかっています。出来れば、家賃が安く、「障害者」でも住みやすい造りになっている公営住宅に入居したいのですが、公営住宅の絶対数の不足と、入居条件による制限のために、高さんは入居できません。例えば、石川県営住宅の場合、1級から4級までの身体「障害者」の単身入居が例外的に認められているのですが、高さんのような、常時介護の必要な者の入居を対象から除外しています。やむをえず、民間のアパートを借りるわけですが、重度「障害者」で、常時車椅子で移動する者にとっては、エレベーターのない2階以上の部屋には住めません。車椅子が通れる玄関、トイレや風呂の広さなど、様々な条件があります。
また、「障害」をもつ者には貸さないという差別が残っているので、現実に借りることができる部屋は限られます。生活保護の住宅扶助費は最高月額が4万2000円であり、実際にはこれを越えるところに住まざるをえず、足りない分は生活費を削って出さなければなりません。
高さんにとって、介護は自らの生命を維持するのに、欠くことのできないものであり、経済的理由で、これ以上介護を減らしたら、本当に生きていくことに支障が生じてしまいます。最優先が介護の確保なのです。食事や住宅よりも、介護の方が優先的に必要なのです。たとえ、そこに食べ物があっても、介護者がいなければ食べられませんから。むしろ、今まで以上に収入を増やして、介護を充実させ、文化的な生活が出来るようすべきなのです。
1か月を30日として、720時間、高さんの介護を完全に保障するためには、時給1000円と計算して、少なくとも、毎月72万円かかります。実際には介護を含めた全生活費のための収入が28万円しかなく、全然足らないのです。

5 あたりまえに地域で生きる(1998.10.15介護費用特別基準申請の『陳述書』より)
私が生活保護を取ったのは、だいぶ前で、私が20歳代の頃です。特別介護料(他人介護料)を厚生大臣に申請したのは、13年ほど前になります。当時、生活保護の基準介護料は3万5000円か4万円ぐらいでした。東京などでは、24時間の介護を請求しても、特別介護料を7万円しか貰えませんでした。私はそれはおかしいと思い、労働者が労働している時間-9時から5時まで、ボランティアが来れない8時間だけを請求し、2年間待って、ようやく決着しました。それ以後、去年まで金沢市に対して、「9時から5時まで、8時間介護してもらっているから、生活保護法にもとづいて、大臣申請をしてくれ」と言い続けてきました。
金沢市が雇っているヘルパーは、公社が代理してやっているのですが、女性が多く、ヘルパーを入れられる時間が限られてきます。僕が女性ならば、1週間に3回とか2回とか女性のヘルパーを入れてもいいと思うんですが、僕は男性なので、ヘルパーを入れられる時間帯が限られ、他法を優先することができないのです。結局、90%近く生活保護の介護に頼らざるをえないのです。その実態に基づいて請求すると、1週間に18万9000円くらいになり、1カ月で70万円くらいにならざるをえないというのが実態です。
わたしが、最初に特別基準を厚生大臣に請求した時代は、私のまわりには、仕事が終って、6時を過ぎてから、自分の時間を割いて介護に来てくれる人が、まだたくさんいました。ボランティアの人が毎晩来ていたし、夜11時頃から翌朝会社に行くまでの時間を提供してくれる人もいました。今よりも楽な生活でした。
それが崩れたのは、他人の生活を支えるボランティアをする余裕が、社会全体からなくなってきたからだと思います。ボランティアの介護が徐々に減ってきて、ひとり減り、ふたり減りしていくなかで、やり繰りしてきたのですが、特に、僕と一緒に生活保護を取り、大臣申請をして暮していた中尾さんが亡くなって、僕一人になってからだと思います。
2~3年前までは、泊りが1~2回はあったのですが、この2年間は泊りが全くなくなりました。1昨年前ぐらいから、ほとんど夜は有料の介護を入れなければならなくなり、それに合わせて請求したので金額が大きくなったのです。わざわざたくさん請求したいわけでもないし、僕としては、もっと簡単な手続きでできる他法の介護サービスの方が、生活保護の中で請求するよりも、気持的には楽です。
オムツではなく、介護が必要
僕は介護がいないと、横になって寝ることができないのです。僕の障害は身体が突っ張ったりして、独りで寝返りをうてません。寝返りをうてない状態で、独りでいたら、車椅子に座っているよりも、苦しくなります。横になって寝ると、何かの時に、電話をかけられず、人を呼べないという不安があります。車椅子に座っていて、足のところにフットスイッチがあって、苦しくてどうにもならないときに、誰かのところに電話することができるようにしています。
僕は夜、独りでいるのですが、オムツをしているわけではなく、おしっこを我慢しているのです。おしっこを漏らして、朝、ベタベタになっていることが多く、これから冬になると、暖房が入っていても非常に寒いのです。「何で、オムツにしないのか」と言う人がいますが、「オムツが必要だ」と考えるよりは、「介護が必要だ」と考えてくれないかな。本を読めないことと、おしっこの問題が、僕にとって1番しんどいところです。
また夜中に、テレビがつけっ放しで、「ザァー」と言っている画面を、朝2時頃から6時半頃まで見ていて、それからまた朝のテレビが始まってくるのを、ズゥーと見ていなければならないのは、本当に精神的に良くありません。こんなことが1週間も続いたら、普通の人は耐えられないと思います。
このように現実に耐えられないという状況があり、社会的なボランティアに期待することもできないので、県にはじめて24時間介護を請求しようと思ったわけです。今の生活の実態から、どうしてこんなにたくさんの介護料が必要な生活をしているのか。実際に介護が入っている時間は、朝9時から夕方5時までと、夕方6時半から9時半までです。日によっては10時半頃まであったりしますが、ガラガラの状況です。夜中は、1回も入っていません。夜中の介護にまわすお金が全然無いからです。
現在の大臣申請で出ている生活保護で、私の介護料は1日につき4時間分しかないと思います。4時間分の介護料で、8時間契約している人がいて、9時から5時までやってもらい、夜は別の人、3~4人が交代でやっていますが、ほとんどお金が払えません。払えても、交通費ぐらいです。夜中は、介護が要らないのではなく、頼めないのです。いてほしいのですが、頼める人がいないのです。それだけ人間的な生活から外れた生活を送ってきて、今に至っているわけです。
僕は、福祉的なサービスとして、生活保護とは別に、介護保障があった方が、僕の気持としては楽なんだけど、現実は、生活保護の大臣申請にかかる比重が、めちゃくちゃ大きくて、こういう異常な要求額になっているのです。
2~3年前に、検診を受けたとき、医者が「脚が浮いている。こんな生活を続けていると、良くない。余病を併発して、今よりしんどくなる」と診断したのですが、自分もそう実感したのですが、この生活を変えられないのです。県や厚生省の人が「金沢でこんな生活をしているのはあなた1人だよ」と言うのですが、わたし1人が傲慢でなかなか施設に行かないという風に聞こえるかもしれませんが、それは間違いです。どんな障害をもった人でも、金沢市民として、石川県民として、日本国民として、居住し、生活する権利があります。それを保障するために、いろいろな福祉制度、ホームヘルパーの制度があり、施設もあるのです。そういうなかの一つの選択として、地域で暮し続けてきたのです。
地域で暮すのが間違いで、施設で生活するのが、さも当然だと前提にして考える人がいると思いますが、それは考え方が古いと思います。国際障害者年以降の完全参加と平等という言葉に対する無理解が厚生省のなかにあるとしたら、今すぐ直していただきたい。
去年、1か月間に70何万、1週間に18万9000円を請求したのは、私の特別な事情で請求したのですから、認めてもらいたいと思います。1日も早く、普通の人がやっているように、毎日ベッドで寝て、朝6時半か7時頃に起きる生活をしたいのです。これは僕にとって、贅沢でも何でもないし、人間として当り前に地域で生きていきたいというだけの話しです。(つづく)
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<高さんの著作>
『風をさがす道のりⅠ』(1990年3月発行)
小説『烈火』(1991年3月発行)
『風をさがす道のりⅡ』(1992年9月発行)
戯曲『春の雪』(1994年2月発行)
『風をさがす道のりⅢ』(1998年3月発行)
<高さんの略歴>
1950年12月 金沢市で生まれる
1977年3月 生活保護を受ながら、自立生活
1988年1月 母親が死亡。石川県心身障害者扶養共済年金、月額2万円を受給
1988年9月 金沢社会福祉事務所は収入と認定し、生活保護費を2万円減額
1994年4月1日 「生保決定通知書」
1994年5月18日 石川県に「生活保護費減額処分審査請求」→7/6棄却
1994年8月3日 厚生省に再審査請求→翌年4/18棄却
1994年7月18日 「生活保護費減額取り消し訴訟」提訴(金沢地裁)
1997年12月18日 他人介護料特別基準として、月額76万円の支給を申請
1998年3月31日 他人介護料特別基準として、月額12万4500円とする生活保護決定
1998年5月29日 右決定に対し、審査請求→7/15棄却決定
1998年8月14日 右決定に対し、再審査請求→まだ結論が出ていない
1999年3月11日 結審
1999年6月11日 金沢地裁判決
1999年10月4日 控訴審第1回口頭弁論(金沢高裁)
2003年7月17日 最高裁決定(勝訴)
2004年8月27日 死亡
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<註1>高真司さんの裁判は、法律的には「収入認定の取消と適正な介護料の支払 いを求める生活保護費決定処分取消請求事件」と呼ばれるのですが、このパンフレットでは、わかりやすくするために、「生活保護費減額取り消し裁判」と呼ぶことにしました。
<註2>高さんの証言や著作からの引用は、「 」で括りましたが、<5>及び<7の(3)>全文引用なので、「 」で括りませんでした。
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目次
はじめに
第1部
1 高真司さんの訴え
(1)ジリジリと頭をもたげる不満、(2)母がかけてくれた気持ち、(3)公的保障があたりまえ
2 介護が不可欠
(1)障害、(2)外出、(3)排泄、(4)食事、(5)睡眠
3 おそまつな公的介護
(1)介護の現状、(2)公的介護サービス、(3)全身性障害者介護派遣事業、(4)ガイドヘルパー制度、(5)ボランティアやアルバイト
4 高さんの家計簿
(1)収入、(2)支出
5 あたりまえに地域で生きる
第2部
6 自立まで
(1)子供のころ、(2)学生との出会い、(3)生きざまをさらして、(4)信念を曲げず、(5)遠慮なく、迷惑をかけて
7 自立後の生活状況
(1)自立…最後の壁、(2)バス闘争…自立宣言、(3)火山のような赤い炎、(4)どん底…発想の転換、(5)自立センター設立へ
あとがき
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はじめに
6月11日、金沢地裁は、石川県心身障害者扶養共済制度に基づき、高真司さんに支給されていた年金月額2万円を収入認定し、生活保護の支給額を減額したことを取り消す判決(勝訴)を下しました。
母親が自分がいなくなり、高さんが1人になったとき、介護が1時間でも多くつけられ、高さんが生きたいと思うだけ生きられるようにと願いながら、石川県扶養共済制度の掛金を払い続けていました。その意味で、高さんにとって、この年金は母親の思いがこもったもので、母親の分身であり、高さんが使うのが当然のお金です。
ところが、社会福祉事務所はこれを「収入」であると認定し、生活保護費の支給を減額しました。これでは、母親が何のために掛金を払い続けたのか、訳が分かりません。しかも高さんにとって、大切な収入が減り、生活が一層厳しくなりました。このような福祉事務所の対応は、高さんのような常時介護を必要とする「障害者」は、生活保護を受けて生活するという選択は間違いで、施設にはいって「保護」されていればいいということになります。
それは、「障害者」をひとりの人間と見るのではなく、単なる保護の対象としか見ない「健常者」中心の社会の固定化です。高さんはこれからも自立して生きていくことを希望しており、それは一人の人間としての当然の選択です。
そこで、高さんは生活保護費を減額した処分を不服として、石川県知事にたいして、審査請求(不服申し立て)を行ないました。それが棄却されたので厚生大臣にたいして再審査請求を行ない、これも棄却されたので、やむを得ず1994年3月、「生活保護費減額取り消し訴訟」に踏み切ったのです。
さらに、高さんは24時間の介護に必要な費用を要求して、1997年「他人介護料特別基準申請」をおこないましたが、「特別基準にも、上限がある」として、要求の6分の1の介護料しか認められませんでした。これについても、審査請求、再審査請求をしていますが、社会保険審査会の結論はまだ出ていません。
訴訟では、「収入認定-生活保護費の減額」の違法性と「特別基準による金額の適否」について争点となりました。判決では、裁判所は特別基準の金額については違法と認めませんでしたが、収入認定が違法であるとして、高さん勝訴の判決を下しました。
今回の裁判は高さん個人や「障害者」だけの問題ではなく、「障害者」を差別 し、排除してきた「健全者」社会の問題であると思い、このパンフレットを作成しました。
---第1部-------------------------------
1 高真司さんの訴え
(1)ジリジリと頭をもたげる不満
「1993年秋頃、年金研究会の勉強会で、『生活保護を受けて生きるしんどさを話してほしい』と言われました。レポートしたのでは面白くないと考え、劇をすることにしました。劇の題名は『生活保護より、年金で暮したい』で、内容は一人暮しを始めた女性障害者が生活保護を受けて、生活しようとするとき、どんな困難にぶつかってしまうかというものです。
この頃から、僕のなかに権利という考え方が前より強くなり、6年前に諦めさせられた扶養共済年金2万円が収入認定され、生活費から差し引かれていることに、不満がジリジリと頭をもたげてきたのです。そして、自分のやり方でまず審査請求を石川県にたいしてすることにしたのです。」(『風をさがす道のりⅢ』より)
(2)母がかけてくれた気持ち
「私の母が、生前に1か月500円の掛金をかけていた扶養共済年金というものがあります。この年金は日本型福祉の典型的なものとしてでてきたのですが、家族が助けあうのが日本型福祉の中心にあり、親は自分が年老いて、死んだ先を考えていくものという風に位置づけられているそうです。でも、私の場合、生活保護を受けなければ、介護というものを保障してくれない今の制度のなかで生きていこうとしているとき、この年金は収入と見なされ、その分は生活保護費というものから引かれていくことになるのです。
これを難かしく言うと、収入認定ということになり、母がせっせと掛けた年金が無駄になるのではないかというのが私の言い分です。私は、本当は親に年金をかけさせるような福祉はどこか社会で保障しようという考え方からずれていて、障害を抱えて生まれてきた私は親がなくなったあとも、面倒を見てもらっているようで、嫌なのですが、こういう私の気持は一旦横に置いといても、母親がかけてくれた気持が有効に生かされていないということではないでしょうか。」(『風をさがす道のりⅢ』より)

(3)公的保障があたりまえ
高さんは、現実に介護が足りず、食費も衣料費も足りず、非常に苦労しています。それでも、この大変な生活をずーっと続けたいと言っている高さんは、
「施設に行って、僕の関わる人間関係を制限されてまで生きていきたいとは思わない。たとえば、僕が奥村先生に会いたいときは、何時でも電話をして、何時でも会いに行くことができます。そういう生活をこの街のなかでしていくのは、普通のことだと思います。しかし、制度的な保障が足らないから、今は、生活保護を受けざるをえないし、特別基準の申請もしなければなりません。本来は、僕の生活は、全部公的に保障されていなければならないのです。僕は今の状態が普通じゃないと考えていますから、早く普通に戻すように努力しているし、その一環として、ここまで来て訴えを起こしているのです」と述べています。(1998.11.20『証言』より)
2 介護が不可欠(1996.11.29『証言』より要約引用)
(1)障害
高さんの日常生活は、身体障害(両下肢機能の全廃、体幹機能障害)のために、身体を自力で動かすことができません。自由に動かせるのは、目、口、首くらいで、話したり、ものを食べたりすることはできます。他に右足の先を少し動かせる程度です。したがって、何をするにも介護者が必要です。
(2)外出
自分で車椅子を動かすことができないので、介護者に押してもらいます。高さんは自立センターの活動として、ほとんど毎日、街頭でカンパを募っていますから、香林坊や武蔵が辻へ行くのにも、介護者の協力が必要です。
高さんが外出するときに利用する交通機関は、介護者が運転する自動車か徒歩、つまり介護者に車椅子を押してもらいます。車椅子用の民営タクシーは金沢市内には数台しか走っていないので、ほとんど使いません。民営バスも、車椅子で乗ることができないので、利用できません。このように、介護者がいなければ、高さんは外出できないのです。
(3)排泄
用便については、小便はし尿器で行なっていますが、大便については、介護者に車椅子から便座まで運んでもらって、行なっていますので、介護者にはかなりの負担がかかります。そのため、介護者が女性だと、力が足りないので、非常に不安で頼むことができません。
公社ヘルパーは早朝の介護をつけることができないので、高さんは午前6時に目覚めてから、自立生活センターの介護者が来る9時までなにもすることができません。高さんは「通常、朝、目が覚め、目覚めた状態で、考え事をしていると、おしっこがしたくなりますが、介護者がいないので、自分に『起きたらダメ』と言い聞かせながら、介護者が来る9時ギリギリまで寝ているようにしています。それでも介護者が来るまでに失禁してしまうことがしばしばあります」と述べています。
(4)食事
食事については、自力で食べることができないので、介護者に食べさせてもらっています。最近、経済的理由から自炊が多くなりました。自分では作れませんので、メニューを決めて、介護者が作ります。介護者によっては、食事作りが上手な人もおれば、苦手な人もいます。切り方や煮加減、調味料まで介護者に指図して作りますので、かなり時間がかかります。
なぜ、介護者に任せず、いちいち指示を出すのかといえば、「いろんな人が介護に来ていますので、介護者に左右されない生活をすることが自立生活です。いろんな人の手を借りるのは普通のことなのですが、介護者一人ひとりの能力に頼っていると、食事を作れる介護者がいなくなると、ご飯が作れなくなります。人に手助けをしてもらうのは、あくまでも自分が本当にできないところだけをやってもらうの が、自立した生活です」と、高さんは語っています。
(5)睡眠
高さんは、いつも車椅子に座ったまま、睡眠をとっています。なぜかというと、布団で横になって寝ると、自力で寝返りを打ったり、姿勢を変えることができず、また布団を動かすこともできませんから、場合によっては窒息などの生命にかかわる危険性があるからです。ですから、布団のうえで眠るときは、介護者にも泊まってもらう必要があります。しかし、経済的に余裕がないので、夜間の介護は週1回程度、ボランティアの人に来てもらい、残りの6日は車椅子に座ったまま眠ります。
週1回の夜間介護も、1997年(平成7年)4月からなくなりました。それ以後、夜間の介護がないままですが、平成8年7月に2回だけ有料の介護サービス(看護婦・家政婦紹介所)に頼んで、布団のうえで寝ました。1日1万円かかりました。
高さんにとって、介護がない場合は、車椅子に座っていた方が、若干でも上体を動かすことができ、その点では安心です。しかしよく眠れるはずもなく、身体に負担がかかり、肉体的・精神的に辛い思いをしています。最近病院で診察を受け、「長時間の座位による両下腿うっ血」と診断され、「布団のうえで、横になって眠るように」と言われました。
夜間の介護は一般に当直勤務と違い、寝返りやおしっこを何回するか分からないし、結構介助がたいへんで、介護者はほとんど寝られません。ですから、昼間の仕事を抱えているボランティアの人には、夜間の介護は頼めません。有料ならば、やってくれると思いますが、高さんにはそれだけの費用がありません。
3 おそまつな公的介護(1996.11.29『証言』より要約引用)
(1)介護の現状
高さんに対する介護の状況は、平日の午前中から日中にかけては、自立センター専属の介護者と公社ヘルパーがおこなっており、夜間や休日はアルバイトの介護者、夜中は週1回ですが94年4月まではボランティアで埋めてきました。
しかし現在の介護の体勢は十分なものではありません。1996年4月から9月にかけて、集計した、高さんへの介護の状況は上表のとおりです。
生活時間帯で、高さんはどの程度の介護を受けているのでしょうか。24時間を通しては、だいたい47%で、朝8時から夜12時までの16時間のうちの64%になります。すなわち全日(24時間)では半分、生活時間(16時間)でも3分の1も介護なしで生活しているのです。「過去に、前日の夕方から、翌々日の朝9時まで30時間介護のないことがありました。その間、飲まず、食わず、たれっぱなしでし た。以前は介護がなくなるということに恐怖感があったが、最近はマヒしてきたのか、あまり恐ろしいと思うと、暮せないから、まあいいやという感じです」と語っているような状態です。

(2)公的介護サービス
高さんは経済上の理由から、なるべく費用のかからない公的介護サービスを求めているのですが、週に6時間(月曜日と木曜日の2回)というお粗末な状態です。しかも、公社ヘルパーは土・日・祭日には頼めません。最初のころはもっと少なくて、木曜日だけで、週4時間でした。2~3年たって、やっと週6時間に増えたのですが、もっと増やしてほしいと要求しています。例えば、時間帯を変えて、朝7時から10時まで、毎日来てほしいと依頼したのですが、公社は人数が足りないとか、直接身体に触れる介護をする人で、早朝からできる人がいないと断わられています。
公社ヘルパーについては、介護者が女性であるために、同性(男性)の介護者と比べて、不都合なところがいろいろ出てきます。男性には男性の介護をつけ、女性には女性の介護をつけないと、「障害者」の人権は守れません。具体的に言えば、気軽に着替えをしたり、おしっこをしたり、大便ができて、過ごしやすい状態が必要です。介護を受ける立場からすれば、異性の介護者には頼みにくいこともあり、同性の介護者による介護が当り前だと思います。
(3)全身性障害者介護派遣事業
現在全国で、20以上の市で全身性障害者介護派遣事業という制度があります。この介護人派遣事業とは、介護を必要とする「障害者」の24時間介護をめざして、介護人を派遣すると、その介護人の費用を自治体の予算で賄うという制度です。脳性マヒや筋ジスなどの重い「障害」のある人が、施設とか、病院ではなく、地域で生活するための介護保障制度です。
石川県には、このような介護人派遣制度がなかったのですが、ようやく1999年4月金沢市は「全身性障害者介護人派遣制度」をスタートさせました。「1日6時間以内なら、時間帯を問わず介護人をつけることができる」というもので、高さんの裁判の成果だと思われます。
(4)ガイドヘルパー制度
ほかに、ガイドヘルパー制度というのがあり、「障害者」が外出するときに、足がわりにヘルパーを使える制度があります。これは外出を目的にして介護に来るわけですから、時間ではなく、用事を果たして、帰るまでの介護です。いつでも、頼めばすぐ来てくれるわけではなく、3日から1週間前に、行き先と用事を伝えて予約しなければなりません。
公社ヘルパーのサービスでも外出できますが、家に来るのが基本ですから、外出先に来てもらって、帰るということができません。公社ヘルパーに来てもらうためには、家にいて、待っていなければならないので、活動が制限されます。
(5)ボランティアやアルバイト
ボランティアとアルバイト(有料介護)にはたいした違いはなく、行動面では、同じことを頼んでいます。ボランティアはお金がかからないので、長く続けてもらいたいという意識が働き、いろいろ説明したり、気を使っていますが、必ず来てもらえるのかどうか、不安があります。
高さんが自立した当初、今から17~8年前、朝も、昼も、夜も介護者は全部ボランティアでした。しかし時々、風邪をひいたとか、用事ができて行けないとか、緊急に穴が開くことがありました。高さんはボランティアにだけ頼るのにすごい不安を感じています。自立センターを設立したのは、介護をボランティアに頼るのではなく、きちんと有料の介護で、緊急に穴が開くという不安を解消したかったからです。高さんにとっては、介護は絶対に必要な、生きるための条件で、極端な言い方をすれば、ご飯よりも大事なのです。
アルバイトは、だいたい学生で、時給1000円を払っていますが、「1000円儲かるから」というだけでは、なかなか介護はできないと思います。やはり、「障害者」の生活を支えるという心が、意識のなかに半分でもなければ出来ないと思います。
4 高さんの家計簿(1996.11.29『証言』より要約引用)
(1)収入
高さんの収入は生活保護費の受給のほかに、障害基礎年金、介護が必要な「障害者」のための特別障害者手当があります。生活保護を受ける際、介護の必要な者には介護料が支給されるのですが、高さんが生活保護を申請したときに、福祉事務所はそのことを教えませんでした。
その後、介護料が支給されることを知り、申請したとき、「高さんの介護はボランティアに頼っていると家の人に聞いた」という理由で、1年間断わられ、1年後に市役所前で、坐り込みをしてようやく介護料が支給されるようになりました。
高さんの収入の内訳(1996年3月)は、上表のとおりです。このうち、生活保護費については、毎月4日に、障害基礎年金は隔月15日に、特別障害者手当は3か月に1回10日に入金します。したがって、3つとも入金される月もあれば、生活保護費しか入金されない月も出てきます。
そうすると、生活保護費しか入金されない月は、生活費が不足し、家賃を払うことができなくなります。家賃は、持参払いしているので、1~2か月待ってもらったり、光熱費の支払いを遅らせたりして、やり繰りしています。

(2)支出
高さんの支出の大半は介護料に当てられています。毎月、自立センターに11万円、アルバイトに10万円前後支払っています。その他の支出は極力抑えており、衣類や娯楽費などはほとんど削り、食費も1日2食にしたり、栄養のことを考えるよりも、安いものを買うようにしています。
家賃は、5万1000円かかっています。出来れば、家賃が安く、「障害者」でも住みやすい造りになっている公営住宅に入居したいのですが、公営住宅の絶対数の不足と、入居条件による制限のために、高さんは入居できません。例えば、石川県営住宅の場合、1級から4級までの身体「障害者」の単身入居が例外的に認められているのですが、高さんのような、常時介護の必要な者の入居を対象から除外しています。やむをえず、民間のアパートを借りるわけですが、重度「障害者」で、常時車椅子で移動する者にとっては、エレベーターのない2階以上の部屋には住めません。車椅子が通れる玄関、トイレや風呂の広さなど、様々な条件があります。
また、「障害」をもつ者には貸さないという差別が残っているので、現実に借りることができる部屋は限られます。生活保護の住宅扶助費は最高月額が4万2000円であり、実際にはこれを越えるところに住まざるをえず、足りない分は生活費を削って出さなければなりません。
高さんにとって、介護は自らの生命を維持するのに、欠くことのできないものであり、経済的理由で、これ以上介護を減らしたら、本当に生きていくことに支障が生じてしまいます。最優先が介護の確保なのです。食事や住宅よりも、介護の方が優先的に必要なのです。たとえ、そこに食べ物があっても、介護者がいなければ食べられませんから。むしろ、今まで以上に収入を増やして、介護を充実させ、文化的な生活が出来るようすべきなのです。
1か月を30日として、720時間、高さんの介護を完全に保障するためには、時給1000円と計算して、少なくとも、毎月72万円かかります。実際には介護を含めた全生活費のための収入が28万円しかなく、全然足らないのです。



5 あたりまえに地域で生きる(1998.10.15介護費用特別基準申請の『陳述書』より)
私が生活保護を取ったのは、だいぶ前で、私が20歳代の頃です。特別介護料(他人介護料)を厚生大臣に申請したのは、13年ほど前になります。当時、生活保護の基準介護料は3万5000円か4万円ぐらいでした。東京などでは、24時間の介護を請求しても、特別介護料を7万円しか貰えませんでした。私はそれはおかしいと思い、労働者が労働している時間-9時から5時まで、ボランティアが来れない8時間だけを請求し、2年間待って、ようやく決着しました。それ以後、去年まで金沢市に対して、「9時から5時まで、8時間介護してもらっているから、生活保護法にもとづいて、大臣申請をしてくれ」と言い続けてきました。
金沢市が雇っているヘルパーは、公社が代理してやっているのですが、女性が多く、ヘルパーを入れられる時間が限られてきます。僕が女性ならば、1週間に3回とか2回とか女性のヘルパーを入れてもいいと思うんですが、僕は男性なので、ヘルパーを入れられる時間帯が限られ、他法を優先することができないのです。結局、90%近く生活保護の介護に頼らざるをえないのです。その実態に基づいて請求すると、1週間に18万9000円くらいになり、1カ月で70万円くらいにならざるをえないというのが実態です。
わたしが、最初に特別基準を厚生大臣に請求した時代は、私のまわりには、仕事が終って、6時を過ぎてから、自分の時間を割いて介護に来てくれる人が、まだたくさんいました。ボランティアの人が毎晩来ていたし、夜11時頃から翌朝会社に行くまでの時間を提供してくれる人もいました。今よりも楽な生活でした。
それが崩れたのは、他人の生活を支えるボランティアをする余裕が、社会全体からなくなってきたからだと思います。ボランティアの介護が徐々に減ってきて、ひとり減り、ふたり減りしていくなかで、やり繰りしてきたのですが、特に、僕と一緒に生活保護を取り、大臣申請をして暮していた中尾さんが亡くなって、僕一人になってからだと思います。
2~3年前までは、泊りが1~2回はあったのですが、この2年間は泊りが全くなくなりました。1昨年前ぐらいから、ほとんど夜は有料の介護を入れなければならなくなり、それに合わせて請求したので金額が大きくなったのです。わざわざたくさん請求したいわけでもないし、僕としては、もっと簡単な手続きでできる他法の介護サービスの方が、生活保護の中で請求するよりも、気持的には楽です。
オムツではなく、介護が必要
僕は介護がいないと、横になって寝ることができないのです。僕の障害は身体が突っ張ったりして、独りで寝返りをうてません。寝返りをうてない状態で、独りでいたら、車椅子に座っているよりも、苦しくなります。横になって寝ると、何かの時に、電話をかけられず、人を呼べないという不安があります。車椅子に座っていて、足のところにフットスイッチがあって、苦しくてどうにもならないときに、誰かのところに電話することができるようにしています。
僕は夜、独りでいるのですが、オムツをしているわけではなく、おしっこを我慢しているのです。おしっこを漏らして、朝、ベタベタになっていることが多く、これから冬になると、暖房が入っていても非常に寒いのです。「何で、オムツにしないのか」と言う人がいますが、「オムツが必要だ」と考えるよりは、「介護が必要だ」と考えてくれないかな。本を読めないことと、おしっこの問題が、僕にとって1番しんどいところです。
また夜中に、テレビがつけっ放しで、「ザァー」と言っている画面を、朝2時頃から6時半頃まで見ていて、それからまた朝のテレビが始まってくるのを、ズゥーと見ていなければならないのは、本当に精神的に良くありません。こんなことが1週間も続いたら、普通の人は耐えられないと思います。
このように現実に耐えられないという状況があり、社会的なボランティアに期待することもできないので、県にはじめて24時間介護を請求しようと思ったわけです。今の生活の実態から、どうしてこんなにたくさんの介護料が必要な生活をしているのか。実際に介護が入っている時間は、朝9時から夕方5時までと、夕方6時半から9時半までです。日によっては10時半頃まであったりしますが、ガラガラの状況です。夜中は、1回も入っていません。夜中の介護にまわすお金が全然無いからです。
現在の大臣申請で出ている生活保護で、私の介護料は1日につき4時間分しかないと思います。4時間分の介護料で、8時間契約している人がいて、9時から5時までやってもらい、夜は別の人、3~4人が交代でやっていますが、ほとんどお金が払えません。払えても、交通費ぐらいです。夜中は、介護が要らないのではなく、頼めないのです。いてほしいのですが、頼める人がいないのです。それだけ人間的な生活から外れた生活を送ってきて、今に至っているわけです。
僕は、福祉的なサービスとして、生活保護とは別に、介護保障があった方が、僕の気持としては楽なんだけど、現実は、生活保護の大臣申請にかかる比重が、めちゃくちゃ大きくて、こういう異常な要求額になっているのです。
2~3年前に、検診を受けたとき、医者が「脚が浮いている。こんな生活を続けていると、良くない。余病を併発して、今よりしんどくなる」と診断したのですが、自分もそう実感したのですが、この生活を変えられないのです。県や厚生省の人が「金沢でこんな生活をしているのはあなた1人だよ」と言うのですが、わたし1人が傲慢でなかなか施設に行かないという風に聞こえるかもしれませんが、それは間違いです。どんな障害をもった人でも、金沢市民として、石川県民として、日本国民として、居住し、生活する権利があります。それを保障するために、いろいろな福祉制度、ホームヘルパーの制度があり、施設もあるのです。そういうなかの一つの選択として、地域で暮し続けてきたのです。
地域で暮すのが間違いで、施設で生活するのが、さも当然だと前提にして考える人がいると思いますが、それは考え方が古いと思います。国際障害者年以降の完全参加と平等という言葉に対する無理解が厚生省のなかにあるとしたら、今すぐ直していただきたい。
去年、1か月間に70何万、1週間に18万9000円を請求したのは、私の特別な事情で請求したのですから、認めてもらいたいと思います。1日も早く、普通の人がやっているように、毎日ベッドで寝て、朝6時半か7時頃に起きる生活をしたいのです。これは僕にとって、贅沢でも何でもないし、人間として当り前に地域で生きていきたいというだけの話しです。(つづく)