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アジアと小松

アジアの人々との友好関係を築くために、日本の戦争責任と小松基地の問題について発信します。
小松基地問題研究会

高真司さんの「生活保護費減額取り消し訴訟」 第2部

2015年02月15日 | 社会的差別
高真司さんの「生活保護費減額取り消し訴訟」  第2部

<註1>高真司さんの裁判は、法律的には「収入認定の取消と適正な介護料の支払いを求める生活保護費決定処分取消請求事件」と呼ばれるのですが、このパンフレットでは、わかりやすくするために、「生活保護費減額取り消し裁判」と呼ぶことにしました。

<註2>高さんの証言や著作からの引用は、「 」で括りましたが、<5>及び<7の(3)>全文引用なので、「 」で括りませんでした。
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目次
はじめに
第1部
 1 高真司さんの訴え
 (1)ジリジリと頭をもたげる不満、(2)母がかけてくれた気持ち、(3)公的保障があたりまえ
 2 介護が不可欠
 (1)障害、(2)外出、(3)排泄、(4)食事、(5)睡眠
 3 おそまつな公的介護
 (1)介護の現状、(2)公的介護サービス、(3)全身性障害者介護派遣事業、(4)ガイドヘルパー制度、(5)ボランティアやアルバイト
 4 高さんの家計簿
 (1)収入、(2)支出
 5 あたりまえに地域で生きる
第2部
 6 自立まで
 (1)子供のころ、(2)学生との出会い、(3)生きざまをさらして、(4)信念を曲げず、(5)遠慮なく、迷惑をかけて
 7 自立後の生活状況
 (1)自立…最後の壁、(2)バス闘争…自立宣言、(3)火山のような赤い炎、(4)どん底…発想の転換、(5)自立センター設立へ
あとがき


---第2部-------------------------------

6 自立まで
(1)子供のころ
 高さんは1949年12月1日、金沢市寺町で生まれました。5人兄弟の2番目で、上が兄、下の3人が妹です。父は菓子屋の職人で、母はその手伝いをしていましたが、今はふたりとも死亡しています。
 高さんは脳性小児マヒによる後遺症のため、完全四肢マヒで、身体を自力でほとんど動かすことのできない状態です。障害名は両上肢機能の全廃、体幹機能障害ということで、現在、身体障害者手帳第1種・第1級の交付を受けています。
 高さんが最初に差別に出会ったのは、2~3歳のとき、脳性マヒと診断されたときと『さべつ』第1号に書いています。
 「『この子は絶対に歩けないでしょう』という医者の差別的判断から発した1言で、私は、歩きたいという要求を持ってはならぬものとされました。また、親も期待できない子をもったことを責任とし、自分がその子の面倒を見ることを1人で引き受けることにより、『邪魔者』を生んだ責任を取ろうとしていく。ここで、もはや別の人間というふうに分断されて、歪んだ親子関係と、自分はなぜこうなんだろうという自己否定を無意識のうちに作りあげていく。」(『さべつ』第1号より)
 この「障害」のために、学校へ行くかどうかが問題になりました。特に、すぐ下の妹が小学校に入学した年には、高さんも小学校に入学するつもりで、平仮名などを勉強していました。最終的には毎日通学させることは家庭の事情から大変であり、また教育委員会からの働きかけもあって、親が就学免除の申請をしてしまい、小学校に行くことになりませんでした。
 その後のことを高さんは、
 「小学校へ行くことを諦めさせられた私は、近所の子供たちが小学校から帰ってくるまで、ほとんどぼんやりと空を眺めていたり、金魚とか小鳥を眺めていた。そして、みんなが帰るころ、乳母車を路地に置いてもらい、遊んでいた。
 10歳のとき、全身硬直で、半年以上床で寝たきりの病気をして、『この子はあまり生きられない』と言われた。それ以来、風呂に行くというあたり前のことがなくなった。それまでは父と一緒に銭湯へ行っていたのだが、湯をわかして、身体を拭くということが日常化した。いつのまにか風呂に行かなくてもいいという考えが、親にも自分にもしみついた。以後15年間、私が風呂に入りたいと自己主張するようになるまで、風呂とは縁のない生活を続けるのだ。
 12~3歳の頃、それまで乗っていた乳母車がこわれ、外に出ない生活になっていき、街のなかを歩くことがほとんどなくなった。あるとき、知り合いの人が身障者手帳のあることを教えてくれたが、手帳をもらう気はしなかった。何故かというと、特に1級とか2級とか、障害の程度で人を分けるようなことは気に入らないと言って、車椅子をもらうことを拒否した。そのため、5年間は家のなかをわずかに移動するだけという生活が続いた。」と書いています。(『ゆがんでゆく生活記録』より)



(2)学生との出会い
 「18歳の頃、ふたりの大学生(「精薄問題を考える会」)が訪ねてきた。サークル活動で福祉のことをやるために今年から自宅訪問を始めたというのである。このふたりが運んできた情報で、「身障者手帳」をもらうと、いろいろ優遇されることがあることを知った。それでもなかなか自分から進んでもらおうとしなかった。外に出たいが、自分を障害者にしたくないという気持がすぐ湧いてくる。学生から『季節が良くなったら、外に出て、いろんなものを見た方が楽しい。車椅子があった方が生活が広がる』と言われ、話しがとんとん進み、ふたりは診察に行くときの付き添いを引き受けてくれた。」(『風をさがす道のりⅡ』より)
 このようにして、高さんは金沢大学の「精薄問題を考える会」と出会い、1976年彼らと共に、「介護人派遣協会」を結成し、「障害者」に街に出ようと働きかける活動を始めたのです。

(3)生きざまをさらして
 高さんは27歳になった3月に、家族から離れ、自立生活を始めました。高さんは家を出ようと思ったきっかけを、「母親が体力的に弱ってきており、母親が倒れたあと、僕の面倒を見てくれる人がいなくなるのではないかという不安がありました。家のなかには母親のかわりをしてくれる人がいませんから、外に出て、他人の手を借りてでも、自立したいと思うようになりました」と語っています。(1996.11.29『証言』及び『陳述書』より)
 また、大阪で重度の障害者が生活保護を受けて、自立しているという情報があり、高さんは大阪まで出かけていきました。その時のことを高さんは、
 「自分が自立することが、障害者でも普通に暮していける社会を作っていくという意味で、自分だけのためではなく、他の障害者のためにもなる。施設に入ったら、自由がないかもしれない」「大阪の自立障害者に会って、自分にできるのかという不安がありましたが、最終的に自立しようと思ったのは、周りにいる人達が援助すると申し出たり、約束した人がいましたので、その人たちを基盤にして、広げていけば自立できるのではないかと思って、踏み切りました」と述べています。
 さらに、高さんは『おと』号外で、
 「金沢に帰ってから、あることに気づいたのである。あの参加した情宣活動は、あの人らの生活を支える金になるのではないだろうか。さすれば、あの体験が『身をさらす活動』ではないだろうか。そして『生き様をさらせ』という意味が分かりかけてきた。行政に要求書をつきつけていくだけでは、確かに犬塚さんが言ったように、明日は食っていけないだろう。例えば、僕が自立生活をはじめたとしても、行政はアパートはおろか生活保護も認めてくれないだろう。さすれば僕はこの行政差別を街の人に訴え、カンパをしてもらいながら、要求運動を続ける。これが動かない手足を武器にして、関西青い芝の人が言っていた『生き様をさらす運動』であることが分かった。こう考えると、自分でも確信をもって、自立への活動ができると思った」と書き、大阪訪問で、自立への確信をつかんだのです。



(4)信念を曲げず
 高さんは自立のことを真剣に考え始めるのですが、親や兄妹に強く反対されました。経済面では何とかなるとしても、重度の障害者にたいして、介護をしてくれる人がいるのかどうかに強い不安を感じていたからです。
 高さんは次のように書いています。
 「斉藤さんが住んでいたアパートを1万5000円払って借りた。古いアパートも、その頃は自分の部屋だと思うだけで、すごく新鮮に見えたことを、今考えてみるとおかしく思えるくらいです。それまでの僕の歩んできた道は家族とだけしか本当に話したことがないような暮しだったから。
 暮し始めることもまだできないのに、アパートを借りて、電話をつけて、意気揚々と実家に戻りました。あとは介護をやってくれる人が何人いるかが一番心配でした。けれども、心配は介護してくれる人のことだけではない。暮しには生活費がかかる。もう1つ、今まで暮してきた家族がどう理解してくれるか。頭のなかは難問と奇問ではちきれそうだった。
 アパートに電話を引いて、1週間ほどたった頃、夕食を食べながら、1つ上の兄がポツリとこう言った、
『しんじ、わしら兄弟で面倒見れんようになったら・・・、他人に面倒かけても仕方ないと思うけど、今は母ちゃんもまだ元気やし、今出ていくのは早すぎると、わしは思うけど』
 すると母は、
 『母ちゃんは、しんじが思ったときしかできんと思うよ。そのかわり自分で暮してから、その暮しが出来んようになったからいうて、帰ってはこれんよ。ほんときは施設にでもいけるように、自分で手続きしていくんやで。その覚悟があるんやったら、たとえ3日でも、1週間でも、自分で生きたんやと思うことができたら、母ちゃんはそれでいいと思うよ』
 この一言が終らぬうちに、2番目の妹が、
 『母ちゃんは甘いわいね。他の兄弟がどう思われるか考えて、そんなこというとるんかいね。本人がかまわんかって、街のなかでカンパしてたら、私らはずかしいて、街歩けんよ。少しは人のことも、考えまっしや』
 こんなふうにして、兄弟が恥ずかしいと思うことを実行しないと、生活ができないのかと途方に暮れた。特に、2番目の妹からのこの反対は今まで1番よい、身近な理解者だっただけに、きつい思いをしてしまった。『こんなしんどい思いをしんなんがなら、やめて、親がかりの生活をしとったほうが』と何度か思ったが、僕の行動は、みじんも迷いがないように行動していた。
 そして、それまで、いろいろ手を貸してくれた人たちに、ひとり暮しを始める生活の中身を説明する説明会をもった。集まったのは5~6人で、とりあえず暮し始めねばならなかった。その3日後くらいに布団だけの引越しが終り、待ちに待ったひとり暮しが始まった。今考えると、その時はひとり思い上がっていたと思いますが、その裏側では、さみしく、心細く、ぎこちない思いで、新しい生活を始めていました。」(『風をさがす道のりⅠ』より)

(5)遠慮なく、迷惑をかけて(1996.12.20『証言』より)
 高さんは裁判のなかで、次のようにも述べています。
 「施設入所のことを考えたこともありますが、施設は団体生活を基本的にやっていますから、いろいろ制約があり、自由ではないので、そのような暮しはしたくないと思っています」
 「いろんなハンディを持っていて、少しは不自由でも仕方がないのではないかと言うけれども、身体が不自由なのは持って生れた身体だから仕方ありませんが、身体が原因で、人々と同じことができないとしても、やっぱり同じようにやりたいという気持があります」
 「生活保護、障害年金などいろいろもらって、さらに介護者に来てもらって、生活していますが、それでも今の自立した生活のほうがいい。施設から自立してきた人が『3回のご飯を2回にしても、地域で暮すほうが楽しい』と言っていました」
 「基本的にどんなに障害が重くても、僕みたいな自立生活にチャレンジしてくる気持があると思います。人の手を借りるのは社会全体に迷惑をかけているという考え方があるかもしれませんが、僕はかけてはいけない迷惑とかけて当然な迷惑があると思っています。僕は介護をしてもらったり、いろいろな制度を利用して、福祉の恩恵に与かっているという意味では、確かに僕は社会的に迷惑をかけています。でも、僕はもっと迷惑をかけたいと思っています。僕が人間として、金沢で暮していきたいと願うとき、そういう迷惑は遠慮なくかけ、人としてはしてはいけないこと、嘘をついたり、人を騙したり、そういう迷惑はかけないで生きていこうと考えています。それが僕の自立であり、障害者の自立を切り開いていく道だと思っています」
 さらに高さんは、
 「施設では、生活そのものを人に任せてあるので、自分の努力で、自分の生活を変えていくことはむづかしい訳です。施設での生活は、自分がこうしたいと主体的に選択した生活ではなくて、個人的な事情-親が亡くなったとか、兄弟が面倒を見ないとか、周りに流されて、『選択』を余儀なくされた生活だ」と言っています。
 自立をめざす生活は、高さんだけの特別な欲求ではなく、すべての「障害者」が1人の人間として、尊重され、街で生活をしたいという思いから発する普遍的な欲求なのです。

7 自立後の生活状況
(1)自立…最初の壁
 ようやく、高さんの念願がかなって、本格的な自立生活が始まります。高さんは、石川県の公営住宅に入りたいと、住宅供給公社に相談に行きましたが、断わられています。理由は、自分で何もできないことと、単身者であることでした。住宅供給公社の対応があまりにも冷たく、高さんにとって予想外でした。『重度の障害者が県営住宅に入居する権利がないのか』と訴えるチラシを作り、街頭に立って、カンパを募り、民間のアパートを借りる資金を作りました。
 その後、高さんは何回か引っ越したのですが、24時間の介護がないという理由で、アパートを貸してくれません。今、住んでいるアパートも、介護が十分にあると誇張して、やっと借りることができました。

(2)バス闘争…自立宣言
 金沢で、車椅子「障害者」にたいするバス乗車拒否が起きたのは、1976年10月5日のことでした。それは、その年の8月、「障害者」自らが「介護人派遣協会」を結成し、家のなかに押し込められてきた「障害者」に、「街に出よう」と呼びかけて3か月目に当たります。「街に出よう」という運動にたいして、「バス乗車拒否」が大きなカベとしてたちふさがったのです。
 翌年5月7日、午後2時半頃、金沢でひらかれた「ひまわりのつどい」に参加するために、富山からきた「障害者」が金沢駅前でバスに乗ろうとしたところ、次々と乗車を拒否され、やっと乗れたバスは停車したまま動こうとしませんでした。北鉄は、重度「障害者」がバスに乗ったら、ほかの乗客を別のバスに乗り換えさせ、バスを止めてしまうという差別的な対応を行ないました。それまでにも「障害者」に対する乗車拒否が度々おきており、行政やバス会社と交渉しても、具体的な進展がなく、ついにガマンの緒が切れて、実力抗議闘争に発展したのです。
 「障害者」を乗せたまま、動かなくなったバスに、支援の「健全者」も含めて、42人が乗り込み、27時間の「バスろう城闘争」が闘いぬかれました。「障害者」自身によるバス乗車拒否にたいするたたかいは、1年前(76年12月)に川崎で始まり、金沢でたたかわれ、全国に波及しました。高さんは「障害者」の代表として、先頭にたって、どんな脅しにも屈せず、「どんなに重度の障害者もバスに乗せること」を北鉄に要求しつづけました。中尾さんはバスの前に、身を横たえ、実力で抗議を貫きました。
 高さんは、直後に「自分に起こった問題より、他人がやられていると聞くと、ものすごく勇気が出るという、変な性分を発揮して、どうしてもやってやると、心に言い聞かせて、頑張った」と書いています。この27時間の「バスろう城闘争」以後、4年間、北鉄を糾弾し、ねばりり強く交渉しつづけました。1980年3月には、「車椅子障害者のバス乗車」を要求する2000名分の署名を北鉄に突きつけましたが、一方的に交渉を打ち切ったのです。頑強に車椅子「障害者」排除の姿勢を崩そうとしない北鉄の態度を打ち砕くために、「車椅子障害者をバスに乗せろ! 連続行動実行委員会」を結成し、情宣・署名活動を継続し、11月末にはついに署名数が5千を越えて広がっていきました。
 12月5日、石川バス協会は、障害者による北鉄弾劾闘争の広がりを恐れて、 「条件付き乗車を認める」と発表しました。それは1981年から始まる、「国際障害者年」を意識し、世論の批判をかわすためであり、付けられた条件はまさに「乗せないための条件」でした。この日は、石川県との交渉の日であり、5139名の署名をつきつけ、条件付きではなく、全面解放を要求してたたかいました。

(3)火山のような赤い炎(『風をさがす道のりⅠ』より)
 5月の初め、あの事件が起こった。それまで何度か「介護人派遣協会」として、話をしていたバスの車椅子乗車拒否の表面化でした。組合・会社は乗車条件の整備ができるまでということで、一方的に拒否(76年12月)を通告してきていたのです。
 5月7日の午後、突然電話が入り、金沢駅まで着いたけれど、バスが動いてくれない。なんとかしてくれという内容でした。とりあえず、駅に行ってみようと、ぼくは集まりをそっちのけにして、金沢駅へ向かったのです。車イスに乗った人がバスターミナルの前で、停まったバスの中にポツンととりのこされて、まわりを職員の人が立ちはだかるようにとり囲んでいました。
 バスの外にいる介護の人に聞くと、「乗るときは、乗客がいっしょに手伝ってくれて乗れたのです。だけど、運転者がバスを止めてしまい、外に乗客を降ろしてしまい、車イスだけがポツンと残されてしまった」ということでした。
 僕は中にポツンとひとりいる人の心細さを考えると、どうしようもなく自分がバスの中に入いって事情を聞こうと思い、「その人のかわりに僕を中に入れてください」と話してみたが、全く受け入れられず、時間だけがどんどん過ぎていったのです。
 しかたなく、こうなったら、覚悟を決めて、バスの中にはいるんだと思いを決め、3人ぐらいで車イスを持ちあげて、職員の制止を振り切ってはいったのです。これから先は当時の新聞に書いてある「あの事件」のまっただ中です。
 よくいう言葉ですが、身体中に怒りが満ち満ちているという言葉が一番適切だったと思えるように、僕自身はそれまでいろんなことにガマンをし、抑えていた不満や怒りがこの時を機に、火山のように赤い炎をあげて、あふれでてきていたように思うのです。
 この時、僕が学んだことは自分の意見があたりまえの要求ならば、それをつき通す強い信念がなければいけないということで、それを持ちたいと、幾度思って努力したことか。でも、持とうと思って、持てるものではなくて、いやがおうでも持たなければならないところに立たされて初めて持てるものだとわかったのです。僕がこうと決めたら、最後まで粘ってものにするという性格は、そのとき初めて個人のわがままとしてではなく、だせることができたように思ったのでした。
 問題はまだたくさんあったのですが、とにかく気持としては、春そのものでし た。自分の立場を主張するということを身につけた春だったのです。このときか ら、自分が障害者の立場、まさにこの時 流に言えば「いらない存在」としてしか 扱われていない-それが分かったと主張するだけで、少数であっても支持してくれる人がいて、やっていけるという自信が満々と湧いてきたのです。
 それからほどなく、障害者の集まりを自立をめざす集団へと形をかえ、「介護人派遣協会」のもと会員だった人達とも離れ、日本脳性マヒ者協会「青い芝の会」準備会へと形を整え、全国的な動きのまっただ中へと、勢いよく流れ出していくのです。そのとき、ぼくはまさに水を得た魚のように、生き生きとし、あちこちの集会へ出たり、自分の運動のアピールをしたり、自分のアパートにいる時は会議をしているか、原稿を書いていました。



(4)どん底…発想の転換
 その頃、高さんは他の障害者にも声をかけ、自立をめざす障害者が出てきまし た。バス闘争を闘いぬき、青い芝(準)結成の過程で、1978年には犬塚勝二、犬塚和子、中尾守さんがそれぞれ、生活保護を受けて自立しました。
 最初の5年間ほどは多数の学生の協力があり、切れ目がほとんどないくらいの介護がありました。しかし、学生ボランティアであり、いつまで続くのか、不確実な状況でした。学生が卒業したりして、介護の量が変化しましたが、それでも3人が辞めても2人が入ってきたり、4人が辞めても5人が入ってくるとか、ある時は10人まとめて増えたりして、かなりいい状態が続いていました。そのためには、高さんは大学祭で呼びかけたり、労働組合に働きかけたり、それ相当の努力をしていました。
 80年代の中ごろになると、ボランティアの介護がだんだん減って行き、高さんは非常に不安に陥ります。介護が来てくれなければ、食事もできないし、生きていくこともできないのですが、それでも最初のうちはボランティア介護に頼っていました。その頃の高さんは「どうかしなければならないと考えても、なかなか対策がなくて、どうしたらいいんだろう、どうしたらいいんだろう」と思い悩み、いつ来るかわからないボランティアを待ち、十分な介護を受けられない状態で生活していました。
 この状態を解決するために、発想を変え、考えを変え、それで現在のような有料の介護体制を作ろうと決断するまでに、数年かかりました。

(5)自立センター設立へ
 高さんが自立を始めた頃は、ボランティア活動が盛り上がっていましたが、それがだんだんくたびれてきて、介護が減り、そのままでは生きていけないので、障害者自立センター準備会を作りました。特に、深夜から早朝にかけて、介護がないので、介護を保障してくれる機関を作りたいというのが自立センター設立時の考えでした。
 1986年に、石川県に自立センターを設立する準備が始まり、1990年に正式に設立されました。所長は中尾守さん(後に日吉敏子さん)で、運営委員が5名で、そのうち「障害者」が2名で組織されています。自立センターとは、「障害 者」こそが「障害者」福祉の当事者であるという視点にたって、「障害者」が自らの意志と責任で、「障害者」の権利を擁護し、そのための情報を提供するという組織であり、全国に40ほどの団体があり、中央には全国自立生活センター協議会という組織があります。自立センターの仕事は主に、「障害者」に対する有料介護と送迎のサービスを行なっています。
 初代所長の中尾さんは1991年2月24日に亡くなりました。38歳でした。そのころ、中尾さんの介護も不足し、70歳の老母が病をおして、夜も介護を行なっていました。母親の持病が悪化して、ついに介護ができなくなり、医者が入院を勧めましたが、「自分が入院すれば、息子が死んでしまう」とかたくなに拒否していました。母親の身体を心配した中尾さんが強制的に入院させ、その結果、中尾さんの泊りの介護がなくなり、車椅子に座ったまま、独り睡眠をとっていました。
 そして、2月24日の朝、最初の介護者が行ったとき、中尾さんはすでに意識不明の状態となっており、救急車で病院に運ばれましたが、息をひきとられました。その冬、一番の冷え込みを記録した日でした。その後、和子さん、山口さんが亡くなり、勝二さんは東京で活動し、金沢では高さんと日吉さんが中心となって、自立センターを運営しています。
 現在、介護のサービスは主に高さんにたいして行なわれ、送迎サービスは自宅や施設から外出する障害者のために行なわれています。自立センターの活動経費は、会費などを徴収していませんので、有料のサービスを中心に通信販売事業への協力金やバザーなどの行事からの収入、そして香林坊や武蔵が辻で行なっているカンパで賄っています。



あとがき
 「生活保護費減額取り消し訴訟」の勝訴を契機に、私たちは高さんのたたかいから何を学び、何を決意しなければならないのでしょうか。まずは、高さんとその仲間が20余年間かけて、積み上げてきた自立闘争の道のりを振り返り、そのたたかいの持っているラジカルな内容を確認することから始めねばなりません。
 高さんのたたかいは70年安保・沖縄闘争、三里塚、狭山闘争の高揚期の真っただ中で始まりました。石川県内では、内灘火電、七尾火電、能登原発、小松基地、解放などの諸闘争が織りなしてたたかわれており、その息吹の中で、1977年5月バスろう城闘争がたたかわれ、自立を勝ち取りました。「障害者」を家庭と施設に閉じ込め、人間として扱わない社会に対して、「障害者」の怒りが爆発したのです。
 1980年代に入って、総評解散=連合結成という労働運動の後退の中で、「障害者」解放闘争も、後退を余儀なくされました。しかし、高さんも、中尾さんも、どんなに介護がとぎれ、どんなに苦しくても、「施設」という管理下に入ることを拒否し、自立生活を手放しませんでした。
 高さんは仲間と共に、自立を貫くために、「障害者自立センター」の設立を準備していたころに、母親が亡くなりました。高さんに「障害者扶養共済年金」が支給され始めたのですが、社会福祉事務所と厚生省は母が遺した年金を「収入認定」という形で奪い、その結果そこに込められた高さんたちの自立の願いを封じ込めてしまったのです。
 しかし、高さんは屈服しませんでした。1994年、高さんは母の遺した年金を奪い返すために、石川県に「生活保護費減額取り消し」の審査請求をつきつけ、裁判を起こし、1999年6月に勝訴をもぎ取ったのです。
 ところで、来年4月から、介護保険制度が導入されようとしています。この制度は「国の責任としての福祉」から、「自己責任=自助努力」へと大転換させることを目的に導入されました。当面は高齢者のみを対象としていますが、将来は「障害者」にも広げることをもくろんでいます。
 そもそも、介護が必要な人を支援したり、介助するのは社会の責務ですが、今日は、国はその責任を放棄し、国民に転嫁する極めて危険な時代です。「健全者」も、いつかは高齢者となり、福祉を必要とする時が訪れることを考えると、高さんの問題は普遍的な問題ではないでしょうか。すべての「障害者」の生活と権利を守るために、「生活保護費減額取り消し訴訟」控訴審を、皆さんと共に、勝利させたいと考えています。
 1999年9月



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