フクロウは夕暮れに

接触場面研究の個人備忘録です

山を下りる(落山)

2008-01-30 23:53:14 | Weblog
今日で今年の講義が終わりました。久しぶりに寒気も弛んでいます。

後期に2コマ連続で講義をしていましたが、やはりそんな不規則なことはすべきではないですね。こういうことをすると学生は集まらないのだということがよくわかりました。毎回、3時間の修行をしていると思いながら講義を続けていましたが、修行も今日で終わりです。

北京語ではそれを下山と言い、広東語では落山と言うそうです。落山と書いても、意味は「山を下りる」と同じです。車を降りるのも、北京語では下車ですが、広東語では落車になります。

日本語では何と言うのかなあ?修行が明けた、ですかね。山を下りたのほうがずっと感じがでる気がします。
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第14回言語管理研究会定例研究会の開催

2008-01-29 21:32:29 | research
先週土曜日は12月の桜美林に引き続いて上智大学に場所を借りて、第14回の研究会を行いました。上智のリサさんと木村先生に権力研究の重要さと多言語の関係を話してもらいました。

「多言語使用者の言語管理とパワー/権力」
・リサ・フェアブラザー(上智大学)「多言語使用者のインターアクション管理とパワーについて」
・ 木村護郎クリストフ (上智大学)「イデオロギーと権力作用について」

多言語使用者については、これまでの議論を確認したことに意義があったと思いますが、木村さんのマクロとミクロの話はとても興味深かったと思います。彼はもともとマクロな言語政策から始めた人で、ポーランドに国境を接する東ドイツのソルブ人の住む地域をフィールドに、言語的少数派の人々の言語政策と言語使用を調査しているそうです。

そこの教会による教育現場で、神父がドイツ人の子供にすら経験をソルブ語で言い直させるという何度も繰り返される相互作用があり、それを単に言い直し要求というだけでなく、そこに同意に向かわせる権力作用があるだろうと指摘します。そして、言い直しをそうした権力作用として見るとすれば、そこからマクロのソルブ人社会の言語政策とつなげられると指摘するわけです。言い換えると、ミクロとマクロとを結びつけるためには、どちらでも適用できる概念がなければならないのだと思います。

もう1つ彼が言うのは、言語管理理論が有標性をもとにした言語現象の理解である点で、無標性についても取り扱う必要がないかどうかということです。つまり言語使用の生成面あるいは慣習化された用法についても扱う必要があるだろう。なぜなら権力という視点を取ると、その権力が生成される相互行為からまずは観察しなければならないからというわけです。彼はそうした無標性をエスノグラフィーの「分厚い記述」の方法で出来ないだろうかと述べていました。私はネクバピルさんの言語バイオグラフィーはどうだろうと言いましたが、私自身はまだ自信がないのです。

しかし、木村さんとのencounterは今年最初の「事件」でした。
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藤村信「歴史の地殻変動を求めて」訂正

2008-01-26 23:00:49 | my library
アマゾンから先に紹介した書籍が届きました。
ざっと目を通していたら、藤村信の日本人の奥さんの名前が出ていました。後書きはジャーナリストの娘さんが書かれています。

というわけで、私がウィーンで教えていたクマダさんは藤村信とは無関係ということがほぼ確認できたと思います。当時から考えると実に20年ぶりの修正となったのですが、しかしそれでもクマダさんとの経験は藤村信と結びついて離れそうもないのが面白いです。当時は私もお金がなかったこともあってしきりに東欧やバルカンに足を延ばしていたこともあり、藤村信の書き物がその道案内になっていたということなのかもしれません。
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藤村信「歴史の地殻変動を見すえて」岩波書店

2008-01-22 23:19:55 | my library
私の家でとっている「東京新聞」の書評に載っていたもの。じつはまだ読んでいませんが、アマゾンで今日頼んだので数日で手に入るはずです。

発行年は2007年11月の新刊です。著者の藤村信は2006年に享年82歳で亡くなりました。藤村信と言えば私の学生時代にはだれもが読んでいた「世界」に、同時代のヨーロッパ政治について寄稿がよく載っていました。『プラハの春 モスクワの冬』(1975)は毎日出版文化賞を受けています。高校生のときから大学生まで、藤村信のヨーロッパ通信と、TK生の「韓国からの通信」を読むことが1つの厳粛な楽しみだったと思います。

本名は熊田亨と言うようで、間違いかもしれませんが、実は最初にウィーンに行った時に、そのギリシャ人の奥さんとご子息が私の授業に出ていたのです。クマダと言い、日本にも住んだことがあると言っていました。奥さんはオリンピアの出身で、日本では息子の学校でたいへんな目にあったそうで、プレッシャーで病気になりかけたなんて話をしてくれたのです。当時、藤村信はたぶんパリに居たのでしょうから、赤の他人なのかもしれません。

覚えているのは、最初のテストをみんなにやらせた後で、学生達が殺到して私を取り囲んだことです。ウィーンでは、筆記試験はじっくりと少ない問題を解くことが普通なのに、日本語の試験の問題の多さは何だ!というわけです。そのとき、初めて私はテストにも文化があることに気がついたのですが、「このぐらい出来ないでどうするんですか」なんてとにかくその場をつくろってごまかしたんですね。

何ヶ月か経って学生達とウィーンの森の山歩きに出かけて、奥さんのクマダさんといろんな話をしたのでしたが、ふっと「先生、やっぱりあのテストはやりすぎですよ」と優しく言ってくれた言葉がまだ胸に残っています。「先生、いつかオリンピアを案内しますよ」と言ってくれましたが、まだその約束は果たせていません...
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冬の底

2008-01-17 23:26:34 | old stories
千葉では朝起きると、うっすらと雪がひろがっていました。初雪です。
会議をしていても部屋はなかなか暖まらず、寒い1日でした。もちろん、千葉では、という限定がつきますが、それでも寒いことは寒いです。

冬の底から眺める、という経験がないわけでもないなあと遠い記憶をたどると、それはなぜかアマーストの大学の寮から眺めた朝の景色が思い出されました。

というわけで、久しぶりの思い出話です。

それは秋学期の終わりに寮を出ると決めた日の朝で、遅い朝日が雪原となってまぶしいグラウンドを照らして、空は驚くほどに青黒く高い、そんな景色です。私は冬の底に自分の足ですくっと立って、寮生活に別れを告げたのだったと思います。

冬の底とは何かの出発の場所でもあるのかもしれません。
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日本語教育学を異文化接触の社会言語学をもとに構想する

2008-01-16 23:31:59 | today's seminar
昨年の10月から千葉大の日本語教育学の将来について考えを温めていました。とりあえず、自分の中ではある程度までまとまった気がするので、忘れないように書いておきます。さて、うまく書けるかな...

日本語教育学という分野はまさに学際の極みで、教育学、日本語学、応用言語学、そして実践的教育指導、などのさまざまなアプローチからの研究や実践が行われてきました。逆に言うと、ほとんどのアプローチは日本語教育学に固有の学問領域というよりも、それぞれの寄って立つ分野の応用といった面が強いように思います。

それでは、固有の領域はないのか?ま、ないのかもしれないのですが、私が思っているのは、接触場面に端を発する異文化接触研究こそその領域の有力な候補ではないかということです。それは、ネウストプニー先生がかつて言ったように、日本語教育は、接触場面で外国人と日本人がどのようにどのように日本語を使い、どのようなインターアクションをしているか、というその現場から出発すべきだという考えに立っています。

つまり、どのように教育すべきか、日本語とはどのような言語か、というのも大切だけれども、日本語教育学の中心に置くべきなのはこの異文化接触の場面なのだと思うのです。

千葉大の日本語教育学において、私は、こうした異文化接触の理解と研究を土台にして、日本語教育について学んだり、研究を進めたりする学生を育てたいと思っています。ですから、学生さんには外国人の生き方や外国語によるコミュニケーションに強い関心をもってほしいと考えています。

そんな安易な考えで日本語教育が出来るか、なんて叱られるかもしれないのですが、だんだん育ってきて海外で教え始めている若き日本語教師の皆さんを見ると、私の考えは間違っていないと少しだけ自信のようなものが持てる気がしています。日本語を教えることの前に、相手ときちんと向き合うことを前提にして(これ以外に異文化接触の基本はないでしょうし)、日本語を教え始めている姿が何とも嬉しいのです。

異文化接触は、しかし課題が山積しています。たんに外国人とコミュニケーションをする場面を理解すればよいというわけではないと思います。たとえば、その外国人とはどんな人なのでしょうか。もしかしたら出身国ではマイノリティかもしれません。あるいは多言語使用者かもしれません。中国帰国者だっているのです。だから、異文化接触の研究は、社会言語学の基礎の上に、言語使用、コミュニケーション、インターアクションについて考えていきますが、他方では多くの社会研究や文化批判ともつながる可能性を持っているわけです。

私はそうした異文化接触の社会言語学をコアにしながら、さまざまな開かれた学問とのネットワークの中に、千葉大の日本語教育学を構想したいと思います。
(あ、なんか青年の主張っぽくなってしまったので、これにて終了!)
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薄井さんとの再会

2008-01-14 23:12:36 | Weblog
連休です。

日曜日は湖南大から一時帰国した薄井さんが家の近くまで訪ねてきてくれました。先週の今さんのときとは打って変わって冷たい冬の北風が吹き付けるあいにくの天気でしたけど、再会はいいものです。昨年の7月に一時帰国したときは、研究会ですれちがって声をかけただけだったので。

少し細くなったように思ったんですが、そんなことはないそうです。中国で教え始めて1年半、あと半年で終わりだそうです。教師経験、異文化経験を積んで、まだ若いのにたいしたものだなと感心しきりでした。中国語も習っていてその経験も学生の考えを理解するのに役立っているんです。<<中国に住んでいる日本人は会うと中国の不満を言い合ったりするんですけど、中国を知らない日本人が最近、中国批判をしているのには腹を立てていたりするんです>>、なんて言えるのは、やっぱり中国人との付き合いがホンモノだからじゃないのかなと思うんですね。いくつか、仕事もお願いして、お別れしたのでした。
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1国家=1民族=1言語

2008-01-11 23:02:14 | today's focus
このところ、投稿のテーマがあっちこっちにいって、接触場面研究とは関係なくなっているかもしれませんが、お許しを。

ここしばらく、NHK BSで放映している、100年前からの画像や映像をもとにヨーロッパを中心とした近代史を考えるBBC4のドキュメンタリー、「BS世界のドキュメンタリー 奇跡の映像 よみがえる100年前の世界」を観ています。今日は、「第7回 中東:分裂の悲劇」ということで、第1次世界大戦後の1920年代、パレスチナ、イェルサレム、トルコ、ギリシャが国家建設を始めた前後の事情を扱っていました。

中東には第1次大戦で勝利したイギリスやフランスがドイツが持っていた植民地を分配するために進駐していました。それまで、パレスチナにはユダヤ人もパレスチナ人も共存していた姿が見えますし、トルコには先祖代々暮らしていたギリシャ人がいましたし、クルド人に代表される少数民族も暮らしていました。民族の違いだけでなく、宗教の違いもまた、単なる違いとして認められていたのです。

当時、ヨーロッパから国家建設を夢見て移住してきたシオニスト(カフカもまたそうしたシオニスト達に影響をうけていましたっけ)が相当数、パレスチナにはいましたが、彼らにお墨付きを与えたのはイギリス人でした。また、トルコでは進駐軍の影響下で、「トルコ人」のための「トルコ」が建設されようとしていました。

すべては1国家=1民族=1言語という国民国家のフィクションが始まりだったのです。民族間の紛争も、宗教間の不寛容も、この純化プロセスとともに生じたことは覚えておいていいでしょう。純化とは排除の別名です。(この純化思想は当然のことながら、ナチスにもスターリンにも及んでいるわけです。だから先日の、ソクラテスの思想がナチスやスターリンまで進むという話には頷けないのです)

以前に触れたように、初期言語管理理論に見られた「逸脱」の概念もまた、母語話者の言語共同体を前提にしています。きっと100年前のパレスチナ人には、我々が非母語話者や外国人を区別する「逸脱」の多くを逸脱として留意することはなかったのです。

ポストモダンに必要なのは、純化ではさらさらなく、多様化と重層化の世界でしょう。そこで言語を管理する出発点は何なのでしょうか?

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「動物と向き合って生きる」

2008-01-09 00:30:03 | my library
年末の帰省中に見つけた好著です。板東元著・あべ弘士絵で、2006年初版が角川書店から出ています。手に入れたのは2007年4月の再版です。

娘のために買ったのですが、家族3人で夢中になって読みました。小中校生の推薦図書ともなっています。

著者はあの有名な旭山動物園獣医・副園長で、旭川の旭山動物園を全国一の入場者数にした立役者です。小さい頃からの生き物に対する感動と人間に対する不信感から話は始まるのですが、その後は、旭山動物園に入ってからの野生種を目の前にしての驚き、そこから始まった動物園の改革、日本人の動物好みの偏向、動物園の社会的意義へと、話は次第に社会性を帯びてきます。

著者は、旭山動物園の特徴となった「行動展示」が、ペットと野生動物はまったく異なるという主張から始まっていることを強い調子で語っています。とくに著者が主張するのは野生種の動物が持っている尊厳(dignity)という問題です。著者は、死んでも他種の動物である人間から餌をもらおうとしない小熊の生き方に小熊の尊厳を感じ取っているのです。動物世界の共生とは、仲良く生きることではなく、一種緊張しながら調和していくことではないかと言います。動物と人間もまた、相手を理解不可能な存在として、その存在の尊厳性を認めながら共存していくことを目指すべきだと言います。著者の言葉は、動物の生とも、動物の死とも向き合う人だけに、説得力があります。

共生といい、尊厳といい、これはしばしばこのブログで取り上げてきたキーワードです。著者は動物について語っていますが、私には人間についての哲学を語っているように感じたのでした。
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年頭の挨拶もなく

2008-01-07 23:19:30 | Weblog
備忘録です。

日曜日は、韓国で教えている今さんが自宅近くまで来てくれたので、いっしょにイタリア料理のお店でお昼ご飯を食べました。外のテーブルに座ると、真っ青な高気圧の空に太陽が熱いほど射してきます。おう、まるで北欧の冬の日向ぼっこだねと言いながらおしゃべりをしました。今さんによると、外国人に対して始まった指紋押捺で空港の税関は長蛇の列だったそうです。意味ないですよね。5年も外国にいる私みたいな日本人のほうがよっぽど怪しいと思うんですけど、と言います。そうだよね、それはゼッタイ、アルカイダだよ、なんて私も調子に乗って話しておりました。

今日は授業準備を大学でしていましたが、12月はシラバスデザインの話を学部でしていて、1月は現実の教室の話をしようと思っています。そこでまずは授業の検証をしている論文を探して読もうとしましたが、『日本語教育』1つ取ってみても、検証的な論文はほとんどないのですね。で、じつはここ30年でもっとも面白いと思ったのは、81年に蘇舛見さんが書かれたモナシュ大の特集の1論文だったのです。

78年にヴィクトリア州の高校日本語授業について、大学での教職課程を担当する教員、高校の管理職教員へのインタビュー、実際の授業の観察と録画という、大がかりな調査をしたそのごく一部をまとめています。90年頃に少し試みられていたCOLTによる「コミュニカティブ度」の授業評価などと比べて、本当にその授業のインターアクションが見えてくるホンモノの検証調査なのです。

27年前の論文がこの領域で一番良いなんてありうるのかと自問したくなりますが、良いものは良いのですね(もちろん、時代的な制約や検証の厳密さの限界などはありますが、そんな重箱の隅をつつくようなことには興味がないんです。査読委員でもないので)。
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