夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

山水画双幅 田崎草雲筆 その4

2012-12-23 07:26:49 | 掛け軸
妻が入院したので久しぶりに独身生活をしました・・、炊事、洗濯、掃除と忙しい。慣れているのでそれほど苦にならないですが、久しぶりに独身生活はなんとなく愉しくもありました。

ところで最近の若い人は結婚せず、親と同居している人が多いようだが、とんでもない話である。子供は社会生活に入ったら自立した生活をすべきである。炊事、洗濯、掃除も親任せで、車だ、ゴルフだとお金までもすねをかじるからなにも覚えない。覚えたつもりでいるからよけいにたちが悪いし、ときには親の威光をかりてプライド?だけ高い奴がいる。


家庭電化製品も便利になる、銀行振り込みなどもインターネットで全てできるこの時代は自立生活するには非常に楽なはずです。健康を害しない限り喰えないことはない。大人になったら自立生活をする、動物でもなんでも当たり前のことである。

さて本日はもし現代に生きていたら、ほぼ私と同意見と思われる画家の作品です。



山水画双幅 田崎草雲筆
紙本着色軸装 軸先木製 鳥谷幡山鑑定箱入
全体サイズ:縦1965*横505 画サイズ:縦1230*横363

賛は何て読むのでしょうか? 賛は左幅には「寒林雁影」とあり右幅には「緑如□湖□□□磨」とあり、共通して「草雲道人叟於白石山房」と記されています。印章は「田崎芸印」と「草雲氏」の白文朱方印の累印が押印されています。

保存状態が非常に良好であり、出来も良い作品です。



二つ対の軸を双幅といいます。双幅の飾れるところがあることすら珍しいでしょう。小生もマンションだろ写真をとることすらままなりません。



良く描けていますし、状態が非常にいいです。



箱の表には「草雲畫 春風満帆 秋崖雁字 圖絹本双幅」と記され、裏には「時在大正六巳年八月中俒 於田□家題表 畊□□□人印」とあり、さらに「播山道人叟 印」と記されていますので、大正6年(1917年)の鑑定箱書きですが、詳細は不明です。

その箱書きにさらに播山道人が84歳のときに鑑定しています。。



田崎草雲:治以降の南画家中最も覇気に富んだ画家(文化12年~明治31年:1815~98)。下野足利の生まれで、名は芸といい、梅渓・白石生・硯田農夫・七里香草堂・蓮岱山人等と号した。その画法は沈周、徐熙を宗とし、山水花鳥ことごとく得意であった。文献によると谷文晃門下となっている。室翠雲は門下生となる。

鳥谷幡山(とや-ばんざん):(1876-1966)青森県出身。明治-昭和時代の日本画家。明治9年1月18日生まれ。名は又蔵、別号に宗山。寺崎広業の下で野田九浦と学び、また橋本雅邦の指導を受ける。広業門下の青年画家を中心に美術研精会を結成し、主任幹事として活躍。東美校中退。明治35年美術研精会の創立にくわわり、のち独立絵画会主幹をつとめる。十和田湖をこのんでかいた。作品に「十和田湖大観」など。昭和41年(1966)歿、90才。

田崎草雲補足説明
田崎草雲:文化12(1815)年10月15日に、江戸神田小川町足利藩邸内にて生まれる。幼い頃から親戚の金井烏洲に絵画の手ほどきを受け、20歳のときに藩士をやめて谷文晁・渡辺崋山らの画風を学んだ。嘉永6(1853)年には、足利藩の絵師になっています。一方で、草雲は志士たちと交友を深め、尊王の志を強くし、幕末・維新の動乱期には誠心隊という民兵組織を結成し治安維持にあたり、足利を戦火から守った。明治11(1878)年には、蓮岱寺山〔現:足利公園内〕に白石山房を建て、山水・花鳥・人物など様々な作品を描いた。草雲の描く作品は、国内外で高い評価を受け、数々の賞を受賞。また、明治23(1890)年には、芸術家にとって最も名誉ある帝室技芸員に、橋本雅邦らとともに選ばれた。明治31(1898)年、84歳没。司馬遼太郎の短編「喧嘩草雲」のモデル。
前半生においては、南画の師である谷文晁や先輩の渡辺崋山亡き後、書画会における草雲の評価は低かったとされる。草雲は文晁を畏敬はしたが、真似る事を恐れておりこれが巨星なきあとの画壇の風潮と合わなかったと見る事ができる。しかし、この時期に写実のため本草学も学ぶという熱心さが彼のプロ意識の高さを物語っている。本分においては己の節は曲げないという江戸っ子としての「意地」の部分が草雲を大成させたと言える。

大島萬世によれば、草雲が出品した展覧会で、金牌なしで銀牌2名(うち1名が草雲)となることが立て続けに起き、これを、地方在住者である自身へのあてつけと考え、以後、中央画壇と断絶した。しかし、白石山房を訪れる人物を、会わずに追い返すことは決してしなかった。もっとも、白石山房には、常に「草雲は不在」という札が掲げられていたため、事情を知る知人や出入りの商人以外はあまり出入りしなかった。帝室技芸員を拝命する際も、当初、地方在住者であるという理由で固辞し、担当者が必死に説得したという。これについては、帝室技芸員になると、東京に通勤しなければならないと草雲が勘違いしていたためという説もある。

草雲という字名は、本名の芸(うん)を二字に分けたものといわれる。幼少より絵と同様に武術も好み、6尺(約180cm)近い草雲は剣術や柔術に巧みであったという。書画会においては、己の絵を貶す相手には拳骨で殴りつけて「あばれ梅渓(梅渓は初号)」のあだ名をもらったとされる。
郡司信夫の「ボクシング100年」や加来耕三「日本格闘技おもしろ史話」の記述によれば1854年、横浜に遊んだときにボクシングを使うアメリカ軍水兵と喧嘩になり体落としで相手を倒しているが、記録に残っている限りで、これが近代日本における異種格闘技戦の第1号とされる。この事件は富田常雄の「姿三四郎」における柔道とボクシングの格闘場面のモデルとされているが、原典の記述は草雲の通称や柔術の流派が通説と大きく食い違うとされ、疑問を呈する研究者もいる。また、山水画の研究のために旅行を繰り返した。
国定忠治と会ったことのある人物による唯一の肖像画は、草雲のものである。ただし、この肖像画は、忠治の没後に草雲が思い出しながら描いたものであるとされる。剣客・博徒との交際も深く中山道の大親分の信濃屋喜兵衛留書によると、甲州では博徒の竹居安五郎宅に宿泊するなど「亦諸国貸元親分衆に詳しきもの」とされる。

自立しない人間が日本の多くなるから、国家情勢が変化し他国に攻められても憲法改正反対などという寝言を言っている人間が多い。本気で検討すべき課題です。中国や韓国を信用してはいけません。韓国が対中国政策において日本側に立つことはありえません。

少なくても経済では日本を攻めてきます。いつまでもアメリカに頼らない自立した国家の判断が必要です。田崎草雲のような骨の有る人物が日本には必要です。


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