マイナーな作品が続きますが、とても大切なことだと思っています。世の常として、著名になったり、地位や名誉を得る者はほんの僅かです。しかし、努力して人、世に埋もれた天才、人材を育成した人など世に功を成した人は数多くいます。そのような人に脚光を浴びせてた日本画の見方も大切かと思います。その趣旨には必ずしも合致した掲載とは言えない画家たちですが、たまに思い出してもらいた人達です。
昨日読んだ「鬼平犯科帳」(十一)の最終ページの文章がなるほどと思ったので記して置きます。「物事にはいちいち理屈をつけるものではない。人間という生き物は理屈とは無縁のものなのに・・・、どうも得てして理づめに生きたがるのがおかしい。」
とかく人間窮屈に生きるよりのびのびと生きたいもの、人の恩は素直に受け、人にはしてあげられることはしてあげたほうがいい。人がどう思うかは二の次であろう。
さて、鈴木松年の作品は所蔵したのは実四作品目です。一作品は資金調達のため売却しました。その後その画力を見直し、二作品入手しましたが、まだブログには投稿していかったようです。本作は好きなひとつになりそうな作品です。
群達磨図 鈴木松年筆 その3
紙本水墨淡彩軸装軸先象牙 合箱入
全体サイズ:縦2040*横563 画サイズ:縦1180*横440
鈴木松年の評価は意外に高く、大正年間の画家でも上位に値します。先日の竹内栖鳳とは一極を成す京都画壇の画家です。この画家を念頭に置きながら山種美術館の竹内栖鳳や上村松園を観るのも一興でしょう。日本画は子弟の関係、ライバル関係が入り乱れています。知っていると面白いものです。
なお上村松園の長男松篁の父親は本作品の作者である鈴木松年です。松園(本名:津禰=ツネ)は日本最初の画学校に12歳で入学しますが、内弟子で修行する道を選び、翌年画学校を退学して、鈴木松年に師事し、彼女は腕をあげ「松園」の号を与えらます。その後、松園は幾度となく師匠を変えていっています。
20歳からは、確かに竹内栖鳳に師事をしています。しかし、松年との繋がりは保たれていました。27歳の時、妊娠しましたが、先方に家庭があるため松園は多くを語っていません。彼女は未婚の母の道を選び、世間の冷たい視線に耐えながら長男松篁(しょうこう)を出産し、松篁も長じて、日本画家になり文化勲章を受章しています。
このようは背景を知っている上で上村松園の作品を観るとあの女の情念を昇華したような作品の奥深いところを垣間見るような気がします。
落款は「松年儒史筆」とあり、印章は朱文白変則?楕円印が押印されています。真作と断定して相違ないようです。箱のない状態で少し軸装が痛んでいるが、改装する必要のある直前といえます。
非常に愉快な図で特に上部に描かれた小さな達磨とにこやかな達磨が愛らしい。右のにこやかな達磨は「白雪姫と7人の小人」の一人??
達磨図というと七転八起などが一般的であるが、14人?の達磨が描かれ、鉢巻を巻き、小さな達磨、転がった達磨など表情豊かに描かれている。
鈴木松年の画力が並々ならぬものでるということを証明している快作です。表具を直すといい作品になります。
このような「思わずにやりとする達磨図」はそうそうはありませんね。
他にも鈴木松年の達磨の作品は多く存在するようです。インターネットから検索すると下記の作品がありました。
落款などから同時期の作品かも思われます。
鈴木松年:嘉永元年(1848)、鈴木百年(すずきひゃくねん)の長男として京都で出生をした。名は賢、字は百僊。
鈴木家の先祖は、播州赤穂大石家に通じると云われている。父百年は、南宋画風の山水花鳥画を得意とする画家であり、当時主流であった四条派と並ぶほどにその画風が流行したことから、鈴木派を唱えたほどである。松年は、この父の影響を受け画家となったが、気性が激しく、周囲の者とたびたび対立を起こした。
弟子の中には上村松園や土田麦僊等がいたが、竹内栖鳳のもとへと去っていった。松年も父同様、山水画や他に人物画をも得意とし、国内外の博覧会、絵画共進会で活躍、京都画壇に重きを成す。
豪放剛健な作風による山水・花鳥・人物画を能くした。江戸時代の異相の画家である曽我蕭白の再来とも云われ、激しい気性そのままに天竜寺天井画の龍などを描いている。代表作として、海外の博覧会に出品した「雪景山水図」「嵐山春景」「松燗水聲」等の作品がある。松年は大正7年(1918)1月29日、京都において69歳の生涯を閉じた。
昨日読んだ「鬼平犯科帳」(十一)の最終ページの文章がなるほどと思ったので記して置きます。「物事にはいちいち理屈をつけるものではない。人間という生き物は理屈とは無縁のものなのに・・・、どうも得てして理づめに生きたがるのがおかしい。」
とかく人間窮屈に生きるよりのびのびと生きたいもの、人の恩は素直に受け、人にはしてあげられることはしてあげたほうがいい。人がどう思うかは二の次であろう。
さて、鈴木松年の作品は所蔵したのは実四作品目です。一作品は資金調達のため売却しました。その後その画力を見直し、二作品入手しましたが、まだブログには投稿していかったようです。本作は好きなひとつになりそうな作品です。
群達磨図 鈴木松年筆 その3
紙本水墨淡彩軸装軸先象牙 合箱入
全体サイズ:縦2040*横563 画サイズ:縦1180*横440
鈴木松年の評価は意外に高く、大正年間の画家でも上位に値します。先日の竹内栖鳳とは一極を成す京都画壇の画家です。この画家を念頭に置きながら山種美術館の竹内栖鳳や上村松園を観るのも一興でしょう。日本画は子弟の関係、ライバル関係が入り乱れています。知っていると面白いものです。
なお上村松園の長男松篁の父親は本作品の作者である鈴木松年です。松園(本名:津禰=ツネ)は日本最初の画学校に12歳で入学しますが、内弟子で修行する道を選び、翌年画学校を退学して、鈴木松年に師事し、彼女は腕をあげ「松園」の号を与えらます。その後、松園は幾度となく師匠を変えていっています。
20歳からは、確かに竹内栖鳳に師事をしています。しかし、松年との繋がりは保たれていました。27歳の時、妊娠しましたが、先方に家庭があるため松園は多くを語っていません。彼女は未婚の母の道を選び、世間の冷たい視線に耐えながら長男松篁(しょうこう)を出産し、松篁も長じて、日本画家になり文化勲章を受章しています。
このようは背景を知っている上で上村松園の作品を観るとあの女の情念を昇華したような作品の奥深いところを垣間見るような気がします。
落款は「松年儒史筆」とあり、印章は朱文白変則?楕円印が押印されています。真作と断定して相違ないようです。箱のない状態で少し軸装が痛んでいるが、改装する必要のある直前といえます。
非常に愉快な図で特に上部に描かれた小さな達磨とにこやかな達磨が愛らしい。右のにこやかな達磨は「白雪姫と7人の小人」の一人??
達磨図というと七転八起などが一般的であるが、14人?の達磨が描かれ、鉢巻を巻き、小さな達磨、転がった達磨など表情豊かに描かれている。
鈴木松年の画力が並々ならぬものでるということを証明している快作です。表具を直すといい作品になります。
このような「思わずにやりとする達磨図」はそうそうはありませんね。
他にも鈴木松年の達磨の作品は多く存在するようです。インターネットから検索すると下記の作品がありました。
落款などから同時期の作品かも思われます。
鈴木松年:嘉永元年(1848)、鈴木百年(すずきひゃくねん)の長男として京都で出生をした。名は賢、字は百僊。
鈴木家の先祖は、播州赤穂大石家に通じると云われている。父百年は、南宋画風の山水花鳥画を得意とする画家であり、当時主流であった四条派と並ぶほどにその画風が流行したことから、鈴木派を唱えたほどである。松年は、この父の影響を受け画家となったが、気性が激しく、周囲の者とたびたび対立を起こした。
弟子の中には上村松園や土田麦僊等がいたが、竹内栖鳳のもとへと去っていった。松年も父同様、山水画や他に人物画をも得意とし、国内外の博覧会、絵画共進会で活躍、京都画壇に重きを成す。
豪放剛健な作風による山水・花鳥・人物画を能くした。江戸時代の異相の画家である曽我蕭白の再来とも云われ、激しい気性そのままに天竜寺天井画の龍などを描いている。代表作として、海外の博覧会に出品した「雪景山水図」「嵐山春景」「松燗水聲」等の作品がある。松年は大正7年(1918)1月29日、京都において69歳の生涯を閉じた。
松年、実人物も豪快な自由人だったらしいですね。
私もいつか、所属してみたいです。
ふところに優しいところもいいですね。