尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

「一般教育(教養)」における核心の把握

2016-12-03 15:08:09 | 

 前回(11/26)は、中島文雄「文学部の問題」を紹介しました。中島の意見に意を強くした福原麟太郎は「文学部組替え論」(『中央公論』昭和三七年三月)を書きます。今回はこれを紹介します。要点は二つです。一般教育(学部教育)はどうあるべきか。もう一つは語学教育をどこに位置づけるか、です。

 

≪学部(アンダーグラデュエイツ)では、哲学、史学、文学その他には心理学、言語学、社会学くらいの大分けで共通に講義を聞き、そこで学者や教師になろうと決心した人が修士課程へ進んでゆく。大学学部だけで世間へ出てゆく人は、主な興味を中心として、良識を養うに適当な他の講義を聞き、論文を書いたり書かなかったりして、文学部的教養を身につけて出る、というのがよくないであろうか。法学部とか、経済学部とかいうところも同じように広汎な教養を身につけた卒業生を出しているのである。文学部だけが、非常に細かな狭い区分の学科分けに従って専門教育を受けなければならないというのは、必然的な規則だとはいえない。(中略)

ただ心配なのは、それだけの学問の後継者を残すだけの吸引力が、学部の講義、平井さんの場合には英語英文学の一般講義の中で存在しなければならないことだ。それは中島先生もその小論中で言っているごとく、老練な教授が、平易な講義の間にも、その学問の心核に徹するような話を聞かせるということが望ましい。それによって「広い教養を身につけると同時に、専門的研究にも進みうる能力を養われるであろう」ような講義である。(中略)本当の碩学の講義というものは、平易で安楽で、面白くて、そして、非常に学問的な興味をひくものである。そのような講義が日本の大学でもあることを望む。

文学部における語学の位置である。私は語学部は独立して、語学校というものを設置すべきであるという考えであった。慶應義塾大学に語学研究所ができ、附設の外国語学校が発足したとき、その初代校長が友人、西脇順三郎であったせいもあるが、私はそこの教師に招かれて喜んで馳せ参じた。それは、私の理想とする大学附属語学校なるものが実現したからであった。それはおそらく昭和十七年秋であったであろう。私は西脇校長が校長をやめるまでそこに勤めていた。

私が喜んだことの一つは、その外国語学校で得た単位が大学の語学単位として通用するということであった。それはわたしの理想の主なるものであった。大学が語学部あるいは語学校を持っており、あらゆる語学に練達の教師がそこに附属している。そしてそこで何単位かの訓練を経たものが大学の過程のある講義に出席することを許される。私はそれが語学の正しい位置であると思う。言語学的な組織を持った英語学などいう、今日の進んだ科学的語学のことではない。そういうものは学問として大学の課程の中に入れておいてよい。そういうものでなく、ただ読み書き話す、いわゆる語学は、大学の中の孤立した組織、語学部あるいは語学校において修得さるべきである。(中略)

いまは私はそう思っているのである。もう今の大学の文学部はそういう解体再編成を必要としているのではなかろうか。むしろ文学部は、実用的目的に忠実に組み替えられて、その修業の中から学問的接近が試みられ、それに応じる学生が発見され、その人たちに大学院が訓練を施して、昔ながらの大学の学問の法燈が受けつがれてゆくという、そういう新時代にわれわれは到達しているらしいのである。≫(川澄哲夫編『資料 日本英学史2 英語教育論争史』大修館書店 一九七八 八六九~七二頁

 

 制度改革論としても分かりやすい議論だと思います。私が1970年代に受けた大学教育がこのような一般教育(語学単位も含む)を経たあとの専門科目の履修だったからです。しかし、これを内容の問題として捉え直した場合、一般教育の中に、専門分野に繋がる「その学問の心核(ママ)に徹するような話」に出会うことができるかどうかが重要になります。言い換えれば「平易で安楽で、面白くて、そして、非常に学問的な興味をひくもの」を提供できるか、です。専門分野に進まない学生に対する一般教育の核心としても重要でしょう。なぜならば、その「学問の心核(ママ)」とは、専門にも一般教育にも共通するものだからです。

 この考え方を異文化受容の問題に重ねますと、ひとまず異文化も専門と一般教育(教養)に二分できることがわかります。たとえば、お隣の韓国文化や中国文化を深いところまで学ぶか、一般教育レベルまで学ぶかは別にしてその「学問の心核(ママ)」に相当するものを学べばいいということになるからです。一般教育レベルでは、仮に人文系ならば異国の文学を通して感じ方考え方を、社会学系ならばあちらの異国の社会的なルールを、自然系ならば何でしょう、科学史でしょうか。一般教養の各分野を通して自文化と比較しながら異文化の核心になるものをつかめばいい、ということがわかります。もうひとつ、語学の位置づけがあります。異文化理解に語学は必須でしょうから、これは異文化教育の最初期にあたります。すなわち入門段階です。整理してみれば、「①語学教育 ・ ②一般教育・ ③専門教育」の三段階となります。この繋がりを見ていると、②一般教育における「核心把握」の重要性が際立ってくるようです。語学教育段階においても「核心」につながる表現を学べる可能性があるからです。