尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

テキスト第三部「わたしたちのコトバを見直そう」の編集意図

2017-09-13 14:09:30 | 

 前回(昨日)は、庄司が言語教育の「体系化への構想おぼえがき」で書いていた第一次テキストの目次(排列)からその意味を考えました。このテキストは第一部「方言のゆたかさとおもしろさ」、第二部「ことわざのいろいろ」、第三部「わたしたちのコトバを見直そう」からなります。第一部には①~⑧の資料が採用されています。昨日はこの第一部の編集の意図を考えたわけです。それは珍しい方言(物の名)とそこに込められた認識(心持・心づかい)の<あいだ>をジックリ味わうことに力を入れて聴くという体験を重視したものであることが分かりました。これによって、第二部「ことわざのいろいろ」をそのような視角で眺めると、コトワザのどのような性格が浮き彫りになるか、という問いを手にすることができます。今回は、第一次テキストの第三部「わたしたちのコトバを見直そう」における編集の意図を考えてみます。

 小見出しは庄司によるものですが、このテキストは教室の六年生に読ませたいと思って作られたものです。だから「わたしたちのコトバを見直す」主体は六年生の子供たちです。第三部ではどんなコトバを見直すのか。「見直す」というのですから、全く初めてのコトバではありえません。それは庄司が「遊びコトバ」と呼んでいる、この時点(一九六五年)でふりかえると十年以上にわたって採集されてきた小学生のおしゃべりコトバの一群を指しています。そしてテキストの第三部はこれを分類し分析した庄司自身による研究資料を編集したものです。その研究資料は本書の第Ⅵ部「小学生の言語生活とその考察」として収録されています。そこから選ばれた資料名を紹介しますと、①子どもの遊びコトバ、②歌遊びコトバ、③メンコ遊びのコトバ、④遊びコトバは変化する、⑤コトバの研究の五つです。

 子供の「遊びコトバ」とはどんなものをいうのか。まず「手遊び」があります。これは学校の音楽会や学芸会の出し物と出し物の隙間になるとたちまち始まる遊びです。たとえば二年生の手遊びの採集ではこんな例があります。中心になる子供が「アンタ→チョイト→ミカケニ→ヨラナイ→クルクルパー」の五つのコトバに合わせて指を一本二本と順に立てて最後は片手をパッとひらいていく。これを任意に選んだ五人にさせていく(もちろん自分が一番手になってもよい)。最後の五人目がドッと笑われるわけですが、これを見ていた子供たちにもドンドン波及していきます。。また「ウントダシテ チョットダシテ ウンバラチョキ」に合わせてじゃんけんをしていく手遊びなどもあります。子供たちはこの世界に没入して夢中になって遊びます。庄司は、夢中になって遊ぶことが「子供のある感覚を助長するチャンスになっている」と述べて説明を加えています。≪手さばき、指さばき、そして、まちがいのない頭のはたらき、その回転のすばらしさを誇る。自分にできないものは、他から強いられることもなく、みずから幾度も幾度も繰返してマスターせんとして、これつとめている≫、そういう意義をもった遊びだというのです。

 つぎの「遊びコトバ」は、「歌遊びコトバ」です。二、三年生の遊びに見られる「かえうた、しりとりうた、はめこみうた、かぞえうた」における「おかしみ」を誘うものを、そう呼んでいます。たとえば、遠足に行くとき電車の中で、「今は山中今は浜・・・」ではじまる「きしゃ」のかえうたがあります。「いまは よなかの さんじごろ でこぼこ おやじが ゆめをみた ゆめの ねどこと まちがえて あっと いうまに ねしょうべん」など、歌い終わると子供たちは笑い転げています。「しりとりうた」でよく知られているものは、「いろはにこんぺいとう」で始まり、長々と続いて最後の「ひかるは おやじの はげあたま」で笑いが爆発します。「はげあたま」というコトバは、子供らに常と異なる興奮をもたらすようです。続いて、こんな「はめこみうた」があります。尾﨑という子供を笑いの対象にするときには「お」がはめ込まれ、「おっちゃん おがつく おんざえもん おんこーの おんぶくれ おりきんたまの おーりおり」というぐあいです。さらに「かぞえうた」にもよく知られたものがあります。おだやかに歌うとなんだかハゲの悲しさが静かにただよってきます。「1つ2つはいいけれど 3つ みんなにハゲがある 4つ よこちょに はげがある 5つ いっぱいハゲがある 6つ むこうにハゲがある 7つ ななめにハゲがある 8つ やっぱりハゲがある 9つ ここにもハゲがある 10で とうとうジャリッパゲ」など。これらの「歌遊びコトバ」について庄司はどう受けとめているでしょうか。

 

3年生頃の時期には、こういう歌コトバを早く覚え、自分でつくりかえ、「知っているぞ」という面持を示してくるときである。わたしたちは、このありさまを、精神分析学的手法でうけとるまえに、かれらがコトバというものを客観的に手玉にとれるようになってきたのだ、と受けとめている。彼らの口にするのは品のなさそうなコトバかもしれないが、心の底には、「創造の芽」が活気を帯びてぐんぐん伸びはじめているのであろう。≫(本書 二八〇頁)

 

 三つ目にとりあげる遊びコトバは、「メンコ遊びのコトバ」です。子供の数ある遊びの中にはその遊びの中でのみ使われている特有のコトバ群があります。その遊びコトバは子供たちがつくり出し、あるいは大人のコトバを流用して、自分たちの利害に動機づけられて生み出されたものです。庄司は、そのような特有の遊びコトバをもっている遊びを、①ビー玉コトバ(二、三年生)、②けん玉コトバ(二、四年生)、③こまコトバ(二、三年生)、④てんか落しコトバ(二年生)、⑤ハンケチ落し(二年生)、⑥(みんなで)ゴムとびコトバ(二年生)、⑦(ふたりで)ゴムとびコトバ(二年生)、⑧しのびあしコトバ(二年生)、⑨ごとぶつけコトバ(二年生)、⑩チョコレート遊びコトバ、⑪かんけり・ボールけりコトバ(四年生)⑫メンコ遊びコトバ、の十二種類に分類しラベルをつけています。( )の中は採集学年です。これら分類項目を眺めるだけで、「ああいうコトバのことか」と思い出してもらえるかもしれません。ここでは「メンコ遊びコトバ」をとりあげます。

 庄司が勤務校で採集したメンコ遊びは、年に数回流行し、いったんはやり出すとどこもかしこもメンコ遊びのグループで埋め尽くされるような活況を呈する遊びでした。私にも当然夢中になって遊んだ経験がありますが、メンコ遊びにはなにか子供の心の底にタッチする刺戟があるものと思われます。庄司のメンコ遊びコトバの分類は精緻なもので、①メンコの名称(これを十二種類に分類)、②メンコの置きかた(二分類)、③メンコの遊びかた(三分類)、④メンコ遊びの中のかけ声(二分類)、の四群に整理し、それぞれに卓見がいくつも含まれるコメントが追記されています。①メンコの名称には子供たちのメンコ感覚の「多様さ」を見てとり、②メンコの置きかたについては、子供たちのアタマペッチャン(メンコを頭にのっけて落とす)やカタペッチャン(肩にのっけておとす)などカラダをの部位を使った名称やペッチャンという、実際にはそのように音するわけではないが、心の耳で聴き表現するところのリズム感・言語感覚が見て取れるというコメントが追記されています。ここで私が注目したいのは③メンコの遊び方に関する庄司のコメントです。

 ③メンコの遊び方に見られる子供の造語は、A「方法」を表すガマ(全部裏にして出し、最後に裏を一枚だけ残した者がもらえる)、サバ(メンコを売ったとき、相手のメンコにもぐること、そうすればもらえる)など多数あり。B「申しあわせ」を表すスナドケ(砂をどけてやり易くすること、スナドケ有り、無しの形をとる)、アシカケ(足をそばに置いて有利にしてやること)の約束事の呼称など多数あり。C「負けことば」を表すタイラ(自分のメンコが全部なくなること)、カチニゲ(勝ったとき、この辺でやめておこうといってにげること)などを列挙したあとに、こうコメントしています。

 

第一に気のつくことは、メンコ遊びの方法その他のゆたかさであり、その複雑さである。3年生の子どもたちでも、この複雑さをいとわずよくおぼえて、おたがいに火花をちらして夢中になる。こういうばあい「単純から複雑へ」という教育理論はいささかぐらつき気味になろう。自分の有利不利を強く考慮にいれるから複雑になっていくのではないかと思う。・・・以下なる手段を用いて、自分の利にするか、しかもいかにして一時にごっそりともうけるか。そこにはスリルもある。ここに方法案出・規約の発生があり、子どもの受けいれとなって、しだいに流布されていく。≫(本書 二九二頁)

 

 「方法案出・規約の発生」には必ず命名が伴います。つまりここには、コトバとその心づかいの<あいだ>で味わうべき世界があります。コトバが生み出されるときの切実な心持が発生し渦巻いていることがわかります。とすると、ここには、前回テキストの第一部に見てとれた庄司の編集意図と同じものが見られます。このてんで第一部の編集意図と、第三部は共通性をもちますが、異なるのは第三部においては、コトバとその心づかいの<あいだ>を味わうのはメンコ遊びに熱中している子供たち自身であるという点なのです。だれか、昔の幼い子供が生み出したアリジゴクの方言とその心づかいの<あいだ>を味わうことに力をいれて聴くのではなく、自分が命名の当事者となってその<あいだ>を味わうことなのです。ここに「わたしたちのコトバを見直す」ための一つの契機があります。

 しかし、ここで紹介できなかった多くのメンコ遊びコトバは、次(翌年か数年後か)に流行する頃には、すっかりといってよいほど消えてしまったり、しぶとく残っているものがあったりすることが庄司の調査によって明らかになっています。メンコ遊びコトバには消長があるのです。長くなりましたが。最後に「遊びコトバ」研究について庄司が書いている総括を見ておきましょう。

 

ともかく小学生の遊びコトバのなかに、特有な用語が数多くみられるということは、採集によって、ほぼ明らかになったといえよう。また小学生は、自分たちの遊びに必要なコトバを自由に作り出すばかりか、おとなの手にかかるコトバでも、気のきいたものは遠慮なく採用して、遊びのもつおもしろさを最高度にもっていこうとする努力のあることも明瞭である。そして、その背後には、成長の喜びがかくされていることも読み取れたといってよいであろう。≫(本書 二八七~八頁)

 

 ここでは小学生の遊びコトバについて、三つの総括が述べられています。一つはその豊穣といってよい世界、二つはコトバをあやつり度合を高めること、三つは成長の喜びです。三つ目が「わたしたちのコトバを見直す」だけでなく、更なる成長への契機につながることは明らかです。ここからテキスト第三部の庄司の編集意図を取り出すならば、二つ目の総括、「コトバをあやつり度合を高めること」を挙げるべきだと私は考えます。ここには第一部の編集意図のからみで、コトバを生みだす当事者としてのコトバとその心づかいのあいだを味わう経験が伴っています。それがなければ「コトバをあやつり度合」を高めることは困難だったと思われるからです。

 以上で、テキストの第二部「いろいろのことわざ」の性格を浮き彫りにするための、二つのモノサシ(二つの問い)を手にしたと言えます。すなわち、コトバとその心づかいの<あいだ>を味わうというモノサシ、二つはコトバのあやつり度合というモノサシです。次回は、第3章「授業にみるふたこまの様相」に入ります。ここでは、庄司のコトワザを中軸にした言語教育構想が実践においてどう展開されていったのか、を調べていきます。


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