尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

崔天宗殺害事件 朝鮮国王・英祖(ヨンジュ)の判断

2016-12-19 06:00:00 | 

 前回(12/12)第二章「事件をめぐる人々のこころ」の第一節「事件をめぐる対馬藩と朝鮮通信使」を読み終りました。ここでは、(1)「殺害直後のようす」、(2)「崔天宗の葬送」、(3)「鈴木伝蔵の処刑」の三つをたどりながら、双方のいきちがいの具体相を確かめてきました。今回から第二節「日本と朝鮮における事件の処理」を見てゆきます。第一節の対馬藩と朝鮮通信使の対立構図を含みつつも、これを越えた範囲が扱われています。まず、(1)「徳川幕府と朝鮮政府」を読んでみます。著者は冒頭で、事件の処理における幕府の態度について概括した後で、これまで記述上ハッキリ見えなかった朝鮮政府の対応について書いています。

 

≪徳川幕府は崔天宗殺害事件を対馬藩の管理責任の問題として処理していく。なぜ鈴木伝蔵が崔天宗を殺害に及んだのか、伝蔵に正当性があるのか否か、そうした点に踏み込むよりはむしろ、そうした殺害事件の発生を防ぐことができなかった対馬藩の越度(オチド)に対する追求を行っていった。そして今回の問題が日朝外交体制の枠組を揺るがすことを懸念して、事件の最終的裁許を伝達しようとしたのであった。

一方朝鮮側の処理はどうであっただろうか。すでに「この事件は、廟堂(ビョウドウ:ここでは朝鮮朝廷)でも種々論議され、使臣削織も唱えられたが、(中略)英祖(当時の朝鮮国王)は両者(崔天宗と鈴木伝蔵)」の争論と解している」と評価され、事件は「個人の争論」と解釈されたために大きな問題に発展することなく済んだという[三宅英利]。こうした点をすこし見ておきたい。

鈴木伝蔵の処刑が済むと、通信使一行は帰国の途についた。またそれにやや先んじて、事件の概要を朝鮮政府に伝えるために使者が大坂を発った。この連絡を受けた朝鮮国王の感想は、六月七日国王英祖が内医院で診察を受けながら述べたものが初見である(『海槎日記』筵話英祖四〇年六月七日条、『承政院日記』同年同日条)。このとき英祖が言うには崔天宗が他国で殺害されたことはほんとうに痛ましくかわいそうなことだ。本道(自分の住んでいる道・県)をして格別に恤典(ジュッテン:救済策か)を行なわせ、服喪があけるのを待って、子息を営門の将官として調用させようというのである。こののち同月二六日にも英祖はこの事件に関連して「崔天宗も生還して帰国しておれば彼にも重罪が科せられるべきだ」と述べている[三宅英利]。ただしその罪は子息には及ばない。また本道の費用で葬祭を行なうことを行なうことを認めており、さらには子息の取り立てすら容認していた。その意味で今回の事件に関しては崔天宗の個人的な罪が問われたといえよう。

一方、釜山到着後、王府へ向けて帰路についていた通信使一行は、六月三〇日に政府から意外な命令を受け取ることになる(『海槎日記』筵話英祖四〇年六月七日条)。この日夕方に一行は仁同へ到着したが、その途中で官職剥奪に関わる命令を二通受け取った。そのなかには崔天宗殺害事件にかかわる内容も含まれていた。今回の事件が起こるべくして起きた事件ではなく突発的な不意の事件であったにしても、後日の取り締まりのことを考えたならば、後日の取り締まりのことを考えたならば、朝廷として使臣の罪を論じないわけにはいくまい、というのである。

右の方針が政府で提起されたのは六月二六日のことである(『承政院日記』英祖四〇年六月二九日条)条)。こうした方針の提起からすれば、朝鮮政府もまた今回の事件を現場の管理責任の問題として処理しようとしたことが知られる。こうした処理により日朝外交外交の大枠が崩されることもなく、以後この事件がふたたび問題として取り上げられることはなくなった。ここには、徳川幕府が管理責任の問題として対馬藩の家老以下一九名を処分した(第一章)のと同様な処置を見て取ることができる。≫(池内敏『「唐人殺し」の世界──近世民衆の朝鮮認識』臨川選書 一九九九 六三~四頁)

 

 引用に登場する、朝鮮国王・英祖(ヨンジョ)は、韓国ドラマで見た名前だと思い調べてみたら、やはりドラマ『イ・サン』の祖父役で出ていた国王英祖(一六九四~一七七六)でした。俳優はお馴染みのイ・スンジェ。彼はドラマ『馬医』の内医院の長官役をはじめ、人格者を演じる機会の多い役者という印象があります。またこの英祖の生母がドラマ『トンイ』の主人公だったのです。トンイも身分から王妃になった人物。彼女も英祖も大変英明な人物として描かれていたことを思い出しました。

 すこし話がずれてしまいましたが、引用中に示された崔天宗殺害事件に関する朝鮮国王・英祖の判断は、ドラマでの印象同様に公正さに優れたものだと思いました。一方、幕府の消極的でかつ相手のご機嫌取り姿勢、加えて対馬藩の幕府の武威をもって対しなければ、相手になめられてしまうという強硬姿勢、これらの姿勢・態度と朝鮮国王・英祖のそれを比べてみると、『日東壮遊歌──ハングルでつづる朝鮮通信使の記録』(平凡社東洋文庫 一九九九)』の著者・金仁謙が日本人を「蛮人」と書き付ける理由が分かるような気がしました。

 しかし、幕府の「消極的でかつ相手のご機嫌取り」に見えてしまう姿勢も、「日朝外交の大枠」を守っていく一つの方法と受け取ることができれば、異なって見えて来るものがあります。それは、「問題の共同」ではなかったと思えるのです。幕府同様朝鮮政府も、ともに今回の事件を朝鮮通信使や対馬藩の管理責任の問題として処理したことを指しています。すなわち、日朝関係が国レベルの争いに陥るのを回避しようとする努力の表れだったのではないかと思うのです。

 


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