尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

子どもという謎を解く 2つのカギ

2016-12-20 12:59:23 | 

 前回(12/13)は、他のクラスに野球で負けたくやしさが原因で不安定になった六年生の子供についてのエピソードを紹介しました。そこで庄司和晃は心の安定感を取り戻すには、負けたならば卒直に負けたことを認めること大事さを指摘していました。言い換えれば、負けたくやしさを勝った相手への軽蔑というようなもので代行させてまで満足することではない、という教育実践家としての一言が印象に残りました。今回は、第八章「子どものコトバの中に折り目をさぐる」に入ります。まず第一節「三年生の頃の折り目」を読んでみます。(太字箇所は原文では傍点)

 

Ⅰ 三年生の頃の折り目

子どもの考え方の折り目をさぐる1つの近道は自然との交渉をつまびらかにすることのなかにあるようである。

子どもの感情のうごめき、くずれゆき、たちなおりなどをあきらかにしようと思えば、友だちとの交渉、ならびにまわりの人々との交渉をみていくと割りあいらくにちかづくことができるようだ。

むろん、両者はくっきりわけられるすじあいのものではなく、たがいにいりまじり密接にかかわりあって1つの人格をなりたたしめているものであるが、子どもという謎(正体)を解こうとするとき、これら2つのカギをちゃんとつかまえているとたいていほぐれてくる、ということをいままでしばしば経験してきた。これは私にとっていまでは1つの信念みたいなものになっている。

大まかにいってのことだが、2年生のなかごろから3年生にかけて、あちら中心の心づかいがかなりめだってくる。

1年生はだいたい、こちら(自分自身)がもんだいである。

カブトムシが机の上をのこのこあるいていると、

だれがもってきたの?」

というふうに問いかけてくる。

「とおるくんが、林のとこで見つけたんだって」

と答えようものなら、

「ふん」

といって、もうそれっきり見ようともしない。ムシそのものがもんだいではないのだ。

これが2年生ともなると、〝だれがもってきたの?〟にちょっと色がついて、

「よし、ぼくもとりにいってみよう」

「こいつ、おおまたにあるくね、こんなふうにさ」

とムシそのものにほんのちょっぴりタッチしたコトバをはく。

それなら3年生のテピカルなモノいいはどんなものか、というと、

「育ててみたい」

「飼うとき何を食べさせたらいいの?」

「これはオスだよ」

「ちがうも」

「なぜ?」

「だってツノのあるのがオスで、ないのがメスなんだもの」

というようなことをしゃべりあう。

完全にあちら(相手の世界)がもんだいになってきたのである。

そこでまず、はじめに私のわずかな経験と私の心から傾倒した先輩諸氏の貴重な体験から耳学問とのねりあわせから、3年生をメドに、各学年の考え方の折り目をさぐるための手がかり、その予想コトバ案ともいうべきものをつぎにかかげることにする。≫(「子どものコトバと行動についての諸考察」/『コトワザの論理と認識理論──言語教育と科学教育の基礎構築』成城学園初等学校 一九七〇 三二四頁)

 

 子供という謎(正体)をとくために庄司が用意したカギは二つありました。「自然交渉」と「人間(友だち、周囲の人々)交渉」です。このたがいに異なる二種類の交渉のありかたをフィールド化して観察していけば、割合に子供という正体に近づけるものだと書いています。そして近づいた正体を「こちら中心からあちら中心へ」という二重構造で見ようとしていることは、これまでも庄司の叙述のなかに確かめてきたことです。また、一枚の紙にいくつか折り目を入れれば立体的な作品ができるように、この変わり目を「折り目」と読んで子どもの心の発達を立体的に描こうとしています。具体的にいえば、子供のおしゃべりコトバを通して、その心づかい(関心の寄せ方・思い方・考え方、総じて認識過程)をみてゆこうとしているのだと思われます。そこで「こちら中心からあちら中心へ」の変化が顕著になってくる三年生を軸(目途)にしながら、各学年の考え方の折り目を探っていこうとする、これが第八章のテーマです。

 次に、このような立体的な子供把握の意義について少しふり返ってみます。一つは、庄司の研究史におけるそれです。このような子供理解は、のちに仮説実験授業の記録分析において見事な切れ味を見せてくれるばかりでなく、やがてそこを土台にして「認識の三段階連関理論」を創造するための出発点を提供しているのではないか思えることです。二つめは研究のための独特な造語という点です。「こちら中心」とか「あちら中心」はいうまでもなく、この章では各学年の考え方の折り目をさぐるための方法に「予想コトバ案」や「問いかけコトバ案」といった個性的な命名を行なっています。これは自分の研究法に独自性を付与したいことの表れです。のちのちの研究まで視野に入れれば、庄司和晃の「全面教育学」大系は独自の研究用語によって編集されてゆく、その途中経過を意味しているという点です。これらの用語は、日常語のニュアンスをよく活かしたもので、聴けば直ぐにワカルものが多いのが特色です。

 最後は、私の関心に引き寄せた意義です。庄司が注目した「自然交渉」と「人間交渉」というフィールドで子供という謎(正体)を解くという考察は、このまま「ハラの言葉」から「アタマの言葉」へ分化・二重化されてゆく過程と重なるのです。子供は「自然交渉」を通して自分に語りかけ本心を養ってゆきます。またこの本心を周囲に伝えるために、それにピッタリした言葉を「人間交渉」によって探索しようとします。これが他者とのコミュニケーションのための言語、社会的言語、私のいう「アタマの言葉」を獲得することに繋がるわけです。ですから、この過程を「こちら中心からあちら中心へ」という二重構造で考察しようとする庄司の論文「子供のコトバと行動についての諸考察」は、私にとっても大きなヒントになるはずです。

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