尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

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中国医書に見る奇病「応声虫」の完成

2017-04-25 06:36:07 | 

 前回(4/25)は、中国医書における「応声虫」という奇病の記載は宋代まで、さらに「応声」や「応病」という名称ならば唐代にまで辿れることを知りました。そしてこの唐代から宋代の間に、腹内の異物が「もう一人の小さな人」という性格を備えた「虫」として、「応声虫」の成立に寄与したと考えられることを知りました。私はこの「もう一人の小さな人」という認識の元になった病人から吐き出された「肉塊」が、「長サ二寸余、人ノ形悉ク具ル」という形象だったことに小さな衝撃を受けました。お腹の中に住む(?)「もう一人の「自分」が実体的な表象を喚起したからです。さて、今回はその続きです。以下の引用では、唐代の「応声」や「応病」観念発生の母胎として、隋代の「腹内有人声候」に言及しています。

 

≪以上のように、宋代に登場した「応声虫」は、唐代の「応声」あるいは「応病」という前駆体をもとに誕生したと思われるのだが、さらに遡って「応声」や「応病」の祖型ないし母胎となったと推定されるものがある。それは、隋代に成立し、後代に大きな影響を及ぼした、巣元方の『諸病源候論』(六一〇年)に載る「腹内有人声候」である。短い記載なので、その全文を以下に示す。

[資料⑬]夫レ人有テ、腹内ニ忽チ人声有り。或ハ人ノ語ルヲ学ビテ相答フ。此レ乃チ、不幸ニシテ災変ヲ生ズルニ到ル。経絡腑臓ノ冷熱、虚実ノ為ス所ニ関ルニ非ザル也。(巻之十九「癥瘕諸病 腹内有人声候」)

 「腹内」から「人声」が発せられ、「人ノ語ルヲ学ビテ相答フ」と書かれており、これは、「応声虫」の根幹をなす特徴であり、同一の現象と見なしうるものである。ただし、注目すべきは、この「腹内有人声候」が、「不幸」にも生じた「災変」であって、「経絡腑蔵」の異変ではないと論じている点である。「腹内有人声候」は「癥瘕(ちょうか)諸病」の一つとして掲げられている。「癥(ちょう)」も「瘕(か)」も、腹中に生じる腫瘤(シュリュウ)ないし塊状のものを言う。その「癥」を著者は、「寒温節ヲ失フニ由り、腑臓ノ気ノ虚弱ヲ致ス」と言い、また「癥瘕(ちょうか)」を、「皆寒温不調ニ由リ、飲食化セズ、臓ト気ト相搏(ウ)チテ、結招ズル所也」と説明している。すなわち、「腑蔵」の異変である「癥瘕(ちょうか)」の中に、「腑蔵」の異変ではない「腹内有人候」を含ませているという混乱が見られるのである。要するに、「腹内有人声候」は、腹中の異物であるが、他の「癥瘕(ちょうか)」とは同列に扱えない特殊なものであり、「災変」とでも呼ぶしかない、説明困難なものという認識があったのであろう。当時の医学の枠組には、納まりがたい対象であったということになる。

 「応声虫」の源流を遡ってきたが、逆に「腹内有人声候」の方から経時的にその流れを見ると、以下のように言えるであろう。「腹内有人声候」は時代が下がると。「応声」又は「応病」という名称とともに医学の対象としての地位を獲得する。それは、有効な特定の薬物を提示できる、治療可能な疾病として考えられるようになったからである。ここには、「声」を逆手に取って有効薬を知り取るという巧妙な方法が「発明」されている。しかし、この段階では、腹内の「異物」が何者であるかは、明瞭にされていない。それが、「もう一人の小さな人」という認識を経て、ついに「虫」という「正体」が打ち出されることになる。ここに到って、医学が目指すところの、病因と治療法との両方をはっきりと提示することができるという「完成」段階を迎え、定着していくのである。「完成」されたものは、改変されにくい。長い期間にわたって「応声虫」論は継承され、やがてわが国にも、これらが伝えられることになる。≫(『「腹の虫」の研究』三〇~一頁)

 

 奇病「応声虫」(宋代)は「応声」「応病」(唐代)から、さらに「腹内有人声候」(隋代)にまで辿れることが分かりました。その理由は、最も古いとされる「腹内有人声候」(隋代)の記述に、≪「腹内」から「人声」が発せられ、「人ノ語ルヲ学ビテ相答フ」と書かれており、これは、「応声虫」の根幹をなす特徴であり、同一の現象と見な≫すことができるからです。しかしここでは、病気の原因については腹内にできた腫瘤(シュリュウ)のようなものであると述べながら、それは腹内(内臓)が悪化してできたものではない、などと記述が混乱しています。つまりまだ病気として完成していない段階なのです。病気として完成するには、根幹の症状が認められ病因と治療法が特定される必要があります。前回見たように、中間の「応声」と「応病」の段階では、病人の声に応じて語る応声虫の根幹をなす症状が認められます。またその治療法は、腹内の異物が治療薬を教える習性を利用した奇妙な方法がすでに確立していました。残るのは「病因」です。それを腹内の「もう一人の人」という認識を含んだ「虫」として、宋代の「応声」段階で採用・特定されてはじめて、病気としての「応声虫」が完成したという論旨になります。