尾崎光弘のコラム 本ときどき小さな旅

本を読むとそこに書いてある場所に旅したくなります。また旅をするとその場所についての本を読んでみたくなります。

四十二歳八右衛門 借財を背負い家を潰す

2017-04-06 13:26:53 | 

 前回(3/30)は、東善養寺村の林八右衛門が二十五歳の若さでこの村の名主になったところまで辿りました。今回はそれから十七年後に四十二歳(文化五=一八〇八)の八右衛門を襲った受難を追ってみます。

 

≪ところが八右衛門は、四十二歳をむかえたときに、まるで厄年にあわせたように「借財」を背負いこみ身代を潰してしまったのである。身代を潰すほどの「借財」がなにによるものだったのか、名主として村の百姓の年貢や役銭(やくせん)を立替えて皆済(かいさい)したことによるのか、家族に病人がでてその治療費が必要だったのか、それとも肥料代の前借りなどがかさんだのか、原因は不明だが、八右衛門が村を「欠落(かけおち:百姓が他郷へ逃げること)」して江戸に流れこんだのは事実である。現役の名主が村から「欠落」してしまうというのはただごとではない。名主の跡役(あとやく)についてはどのように処理したのか、これについてもわからない。八右衛門は、江戸へ出て、麻布笄橋(こうがいばし)にある今井平左衛門という旗本の屋敷に奉公し、十九歳のときから暮した、あの打ちこわし騒動の藤吉の家を売り払ったと書いているのだが、家族は本家へでもあずけて単身「欠落」したのだろうか。そして、八右衛門はあれこれと算段して、ともかくも「借財」を解消している。この時期、借金が返せずに身代を潰し、江戸へ流入して奉公人になった日傭(ひよう)・雑業を生業とするにいたったものも少なくなかったはずだが、八右衛門は、借金を返済するとまた帰村して、再び自分の家宅を普請している。この間、ほんの一、二年のことであったらしい。そうしてみると、名主の跡役のこともふくめて、「欠落」から帰村いたる行動には林家筋人々や東善養寺村の人々の協力があったか、あるいは暗黙の承認があったとみるのが自然であろう。帰村後すぐには名主役に復帰していないが、いったん「欠落」した百姓がだれでも八右衛門のように再興できるとは考えられない。八右衛門自身の百姓への回帰の意志が強靱だったことはいうまでもないが、この再興は、林家縁類の助力を考えなければ理解できないのである。一、二年のことではあれ、「欠落」して「居宅売り」というのはあきらかに絶家の状態だから、八右衛門はこれで、林分家の二度目の潰れを経験したことになる、没落から再興への、短い濃縮されたような時間は、八右衛門にとっては、奮迅の働きで危機を脱出して、その働きのなかで農業者としての生活信念を築きあげる画期になった。

(一行空き)

四十余歳ニしてようやく農業の味を知りて油断なく出精しける(巻之三)

どの百姓の一生を考えてみても、受難に似たできごとは間断なくおそったことであろう。だから、とくに八右衛門だけが難儀に出あったということではないが、その後も、八右衛門にとって不本意なことがつづいている。文化九年(一八一二)、妻と次男の徳二郎が伊勢参宮から立ちかえったちょうどその月に、隣家の吉右衛門宅から火が出て類焼し、ふたたび八右衛門は居宅を失った。しかし、今度も普請に成功している。またその後、一七〇日間の手錠刑をうけたことがある。これは、本家の嫁が後家になったのち密通問題がおこったからだと言うが、くわしいことはわからない。またそれよりのち「慎み」の処分をうけたこともある。原因は検見(ケミ:収穫前に年貢高を決めるための検査)に関連してのことらしいが事情ははっきりしない。「追込め」の刑も経験している。越後者の病人を村継(むらつぎ)でおくったことが発端らしいが、これも詳細は不明である。≫(深谷克己『八右衛門・兵助・伴助』朝日新聞社 一九七八 二六~八頁)

 

 八右衛門は四十二歳をむかえた年に借財を背負い、十九歳の時せっかく再興した家を潰してしまいます。なぜ家を潰してしまうほどの借財をするハメになったのか。著者の深谷克己氏は原因をいくつか推測しており、ここにも興味を覚えますが、一連の経緯おいて訝しく思ったのは、「欠落」後に江戸旗本屋敷に奉公、わずか一、二年で借財を返したということです。若くして名主になったその家を潰すほどの借財でありながら、一、二年で皆済し得ると村に帰り家宅を普請する、これはどう考えてもおかしいのです。深谷氏の書くように借財を一、二年で皆済でき家宅の普請が可能となるためには「林家筋人々や東善養寺村の人々の協力があったか、あるいは暗黙の承認があったとみる」のが自然です。また、十一年後の文政二年(一八一二)には名主に復帰しますが、以上の経過をふり帰ると、借財を背負ってからの欠落から帰村そして名主復帰というのは、予定された一連の約束であったのではないかという気がしました。本来ならば名主復帰はもっと早く実現する筈だったのではないでしょうか。それができなかったのは、これまた受難(不本意)の数々──類焼による家宅の消失、密通問題で一七〇日間の手錠刑、検見問題で「慎み」の刑、病人の旅人の村継問題で、「追込め」の刑と──が矢継ぎに襲ってきたからだと考えられます。

 この間の詳細を八右衛門は語っていませんが、これらがすべて嵌められた冤罪だと考えれば、八右衛門の名主復帰を阻止したかった勢力が村内に存在したのではないでしょうか。もっと想像をたくましくすれば、若くして名主に選ばれた八右衛門とそれを支えた勢力には以前から対抗勢力があり、この勢力は最初に八右衛門に借財を背負わせたその中心にあったのではないか、さらには、二つの勢力争いは後に八右衛門が越訴騒動の頭取容疑で処罰される問題の淵源でもあったのではと思われるのです。まあ、想像だけではどうにもなりませんが、八右衛門がこれら受難の詳細を語ることなく「四十余歳ニしてようやく農業の味を知りて油断なく出精しける」(巻之三)と書き付けた一行には、そのような世俗の争いを超越すべく生涯を「農業」に賭けようとした彼の決意表明にも思えてきます。