静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

「どう生きる」と廃悪修善

2016-07-17 23:13:02 | Weblog
「どう生きるか」とは、いろんな生き方の選択肢の中で、どれを選ぶかということでもある。
 人間に自由意志がある以上、人生は、絶え間なく私たちに「あれか、これか」の選択を迫る。

 卑近なことでいえば、テレビを見る、見ない、もそうだし、昼食をカレーライスにするか、ラーメンにするかも選択である。しかし、これらはどちらを選んだところで大差はないが、人生には、その後の明暗を分ける重い選択というものがある。
「生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ」。これはシェークスピアのハムレットの台詞だが、ここまでギリギリの選択を迫られる機会は少なくても、職業の選択などは、誰しも経験することであり、将来をかなり左右もする。
 まず働く、働かないで、人生は変わるし、働くにしても、農業をやるのか、商売をやるのか、医者になるのか、芸能をやるのか、どれを選ぶかで、その後の人生は大きく変わるだろう。

 時は逆戻りしない以上、将来を決する重い選択であればあるほど、人は迷う。迷った末にどれかを選ぶわけだが、その時、何を基準に選んでいるのだろう?
 無意識のうちにも、人は善きものと、悪しきものとを区別し、善きものを選び、悪しきものを捨てようとしている。
 だが問題は、何が善きもので、何が悪しきものなのかである。

 迷いの凡夫が、自分の都合で決めた善・悪では、いくら善い選択をしたつもりでも、決してそれは真実の幸福という実を結ばない。
 秀吉が臨終に、「夢の又夢」と人生を歎き、はかなく消えていったのがいい例ではないか。
(つづく)
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「なぜ生きる」の答えがない!?

2016-07-02 10:44:55 | Weblog
今、「なぜ生きる――蓮如上人と吉崎炎上」という映画が各地で上映されています。


映画でも本でも、「なぜ生きる」というタイトルなのに、
「その答えがない」という感想が少なからずあるようです。
どこを見て、あるいは読んで、そんな感想を持つのだろう?と、
こちらが聞きたくなるくらいですが、

恐らく、それらの人たちの頭の中では、
なぜ生きる?
という問いかけが、
あなたは今、自分の望む生き方ができていますか?
今のままの生き方で、本当に「生きた」といえますか?
といった形に変換されたのではないかと思います。
例えば、こんな感じではないでしょうか。
      ■
敷かれたレールの上をただ歩いてはいないか。
親の期待や周囲の評価に縛られ、自分の望まない生き方をしていないか。
主体性を誰かにゆだねてしまった人生は、ただの抜け殻、生きてる意味がない。
だから「なぜ生きる?」とは、
今そんな生き方になっていないか?
それでいいのか?
という問いかけなのだろう。と

他人からどう思われようが、自分の望む通り、自分らしく生きられたら、きっと「いい人生だった」と思えるはず。
生きる意味なんて、生きればあとからいくらでもついてくる。
まず生きよ。あるがままに。自分だけの人生を。

だから、生きる目的とか、生きる意味なんて、他人から与えられるものでもないし、他人から与えられることを期待してもいけない。
最初から「意味」とか「目的」にとらわれると、かえってそこに縛られて身動きできなくなってしまう。自分の心に素直になって、自分の足でこの人生の道を踏みしめていけばいいのだ。
生きる「意味」はそこにある。みたいな……。
      ■
こういう人たちにとっては、「なぜ生きる」の答えとは、
「自分らしい生き方をする」ことになるのでしょう。
そういう生き方の実例、あるいはそのヒントを求めてのことならば、映画を見ても、本を読んでも「何もなかった」という印象を持つのも無理からぬことかもしれません。

しかし、その「自分らしい生き方」というのには、妙に力がこもっておりますが、
水平線に向かって絶望的な泳ぎを続けている人が、
「どう泳げばよいのか、自分らしい泳ぎ方しか考えておりません」
と言っているにほかなりません。
まさに映画のセリフにあるとおり、
「おかしなことではありませんか」
なのですが、
それをそのまま言うと、かつての了顕さんのように
「オレの言っていることは、泳ぎ方なんかじゃない!」
と逆上されそうです。
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「生きる」とは「息をする」

2016-07-01 11:47:22 | Weblog

『日本語語源大辞典』によれば、「生きる」という言葉は、「息をする」からきているそうです。
 永年、助産師をしていた方から聞いたのですが、赤子が羊水に包まれたお母さんのお腹から、外気に触れる外の世界へ出て、まずすることが肺呼吸だそうです。
 これができねば、酸素不足でたちまち命は終わってしまいます。だから赤子は懸命に肺で息をしようとし、助産師はそれを助けます。生まれたての赤子の吸う息、吐く息の一つ一つは、まさに命と触れ合っており、「生きる」行為そのものといえるでしょう。
 めでたく呼吸できるようになった赤子は、今度は呼吸活動を維持するために飲食し、排泄し、成長してからは読み書きを習い、働きもします。人間の営みといっても、根本を言えば「生きるため」「息をするため」に集約されるでしょう。

 さて、人生はしばしば海に例えられ、「生まれる」ことは大海に放り出されることにも例えられます。
 映画『なぜ生きる――蓮與聖人と吉崎炎上』の中で、「泳がなければ沈むだけ。私たちは、一生懸命泳がなければなりません」
と蓮如上人が仰る場面があります。
 ここで「泳ぐ」という行為は、生きることを意味します。交互に手を動かす、そのひとかき、ひとかきは、一息一息、呼吸をする行為にほかならないでしょう。手の動きを止めたらそこで沈むように、息を止めたらそこで死んでしまいます。
息をするのは死にたくないからです。〃自分らしく生きるため〃ではないでしょう。それはずっと枝葉の問題なのです。
 死にたくないから息をしますが、息をしていてもやがて止まるのです。「出る息は入る息を待たず命は終わる」の仏説どおり、それは全ての人の姿です。

 ならばなぜ、人は息が止まるまで息を続けるのか?なぜ息をする?なぜ生きる?映画はその本質を問いかけています。
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今ごろ善のすすめか?

2016-06-30 14:09:44 | Weblog
以下、「読売新聞」(5月23日)の記事からです。

「他力本願」を巡っては、東日本大震災後、真宗門徒の間で災害ボランティアは自力で善根を積む行為で、この教えに反するとの意見が出た。京都・東本願寺の学寮を源流とする大谷大学の木越康学長は、学生らと被災地へ向かった時、「ボランティアが自力作善であれば、他力の教えに反しないか」との学生の悩みに接したという。
 この点について、木越学長は『ボランティアは親鸞の教えに反するのか』(法蔵館)を著し(後略)」――。

 これまで「親鸞聖人の教えに善のすすめはない」と言ってきた手前、いざ、震災のような事態に直面すると、ボランティアという善をすすめていいのか悪いのか、自分たちの言葉に縛られて身動き取れなくなってしまうのでしょう。まったくお気の毒なことです。

 苦しんでいる人を助けるのは仏法者として当然のことでしょう。
 そんなことで「自力か他力か」いちいち悩まず、さっさと助けに行けばいいのに……そう思うのは、私だけではないと思います。

 困っている人を助けに行くことと、「善のすすめはない」と教えてきたこととに〃整合性〃を持たせるため、本まで書いていたとは知りませんでした。
大いに善をすすめ、善いことをなさったらいいと思います。

 ただ、忘れてはならないのは、こういう時、親鸞聖人はどうなされたかです。
 親鸞聖人の時代にも、やはり飢饉や災害はありました。
 聖人42歳の御年、大飢饉があり、バタバタと多くの人が亡くなりました。あまりに悲惨な状況を悲しまれた聖人は、何とかそれらの人々を救済できないかと、浄土三部経を千回読もうとなされたのです。しかしその途中、善導大師の「大悲伝普化 真成報仏恩」の聖語に思い至り、「私は誤っていた!」と仰って、決然と常陸へ布教に旅立たれました。
 これは『恵信尼文書』に書かれてあることです。

 飢饉などの非常時に直面した時、どう行動すべきか、聖人でも一時迷われたのです。
 ただしそれは、ボランティアのような、一部の地域で、当面の生活上の危機を救うのが先か、弥陀の本願を布教するという、全人類の後生の危機を救うのが先か、という判断に迷われたのであって、自力になるか他力になるかと、そんなことで迷われたわけではありません。

 布教最優先とはいえ、災害があまりに深刻だった場合、当面の危機を救うのが優先される場面もあるでしょう。それは、その時その時で判断するしかありません。

 ただ、「この世は老少不定のならいなり」(御文章)。
東日本や熊本で震災に遭った方々ばかりが、危機的状況にあるのではないというのが、仏法の教えです。

 厚生労働省の人口動態統計(平成27年)によると、日本での年間死亡者数は、およそ130万2千人。単純に計算すると1日に3500人以上の人が、日本のどこかで、何らかの原因で命を落としていることになります。

1日3500人という数字は、1週間にすれば2万4千500人。あの〃未曾有〃といわれた東日本大震災の死者が、行方不明者も含め2万3千571人といわれていますから、その1週間後にはそれ以上の人が、日本のどこかで死んでいるという事実が浮かび上がってきます。
 災害で死んでも、布団で死んでも、人が死ぬこと自体に変わりありません。
 だとすれば、1週間ごとに「東日本」級の悲劇が起きている。それが「平穏な日常」と呼ばれるものの実態なのです。

「難度の海を度する大船」の厳存を知らぬまま、毎日、毎日、雨が降るように、人は後生へ旅立っています。大船の存在を、いち早く、多くの人に伝えるか、これ以上の急務はないことが分かると思います。
親鸞聖人が飢饉で瀕死の状態の人々を視野におさめられながらもなお、弥陀の本願宣布に徹し抜かれた浄土の大慈悲心を、私たちは分からぬなりにも分からせていただかねばなりません。



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絶対矛盾的自己同一

2016-06-29 09:51:38 | Weblog
しばらくお休みしていましたが、読みたいと言われる方もあるのを知りましたので、またゆるゆると始めてみたいと思います。
よろしくお願いします。

 二次元平面上には、〇であり、かつ△という図形は存在しません。しかし、三次元空間上には、円錐(えんすい=駐車場にあるコーンのような立体図形)というものが存在し、それは底から見れば〇に見え、横から見れば△に見えます。
 つまり「〇でありかつ△」というものは、平面上にはなくても、空間上には存在するということです。

 同様に、平面上の2直線は、
①平行ならば交わらない
②交わるならば平行ではない
という真理が成り立ち、
③平行ではなく、かつ交わらない
という2直線は絶対に存在しません。
 しかし、空間上においては、平行ではなく、かつ交わらない2直線など、いわゆる「ねじれの位置」といわれるもので、無限に存在しています。
 二次元平面上の〃真理〃というのは、あくまで二次元平面上でのことであり、三世十方を貫きませんから、三次元空間上では成り立たなくなるのです。

 さて、ここからが肝心です。
 凡夫が〃正しさの基準〃にしている「合理性」という次元においては、
①助かるに間違いないなら、堕ちることはない
②堕ちるに間違いないなら、助かっていない
ということになり、
③「助かるに間違いなく、かつ堕ちるに間違いない」という事実など、論理的には存在しません。これを認めるならば、論理は破綻してしまいます。
 ところが、「堕ちるに間違いなく、かつ助かるに間違いない」絶対矛盾的自己同一というべき人が、事実として存在しているのです。
 それは、凡夫の考える合理性が、三世十方を貫く真実ならば、ありえない存在なのですが、現実に存在している以上、凡夫の合理性とは、あくまで凡夫の次元の〃正しさ〃であり、仏智の世界では成り立たない、すなわち三世十方を貫かないといえます。

 そんな凡夫に理解不能な「真実」を、そのまま示して、凡夫を導くなど不可能であります。導くには、凡夫の理性に合わせた方便が必要なのは当然でしょう。
それを「方便など要らん、真実だけでいい」と主張する人たちは、「方便」「真実」と同じ言葉を使ってはいても、根本的なところで何か勘違いをなさっているのでしょう。

さらに言えば、先ほど申しましたとおり、真実とは凡夫の合理性など超絶した「不可称・不可説・不可思議」なものなのですから、方便と真実の間に〃整合性〃の橋は架からないと考えるのが普通です。

なのに、善など勧めては「無限にループするだけ」などと言い、鬼の首でも取ったかのように批判する人たちの「根拠」とするところが、この〃整合性〃なのですから、どういう程度の非難かお分かりだと思います。

 真実に転入する道程まで凡夫の知恵で整合性のつくものなら、それは凡夫の世界の延長ということでしょう。真実とは別物です。

 私たちが根拠とすべきものは、あくまで親鸞聖人のお言葉でなければなりません。
 
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方便破壊せむものは

2012-10-13 10:42:43 | Weblog
10月5日の日本経済新聞に、親鸞聖人直筆の御和讃
が発見されたという記事が出ていました。
親鸞聖人が聖徳太子を讃えられた「皇太子聖徳奉讃」
の中の一首です。

「如来の遺教を疑謗し 
 方便破壊せむものは
 弓削の守屋とおもふべし
したしみちかづくことなかれ」

如来の教えを疑い謗り、
方便を破壊する者は
物部守屋と思うこと
親しみ近づいてはならない

物部守屋とは、和国の教主(日本のお釈迦様)とも
聖人が仰がれる聖徳太子と対立し、仏法興隆を阻害
した者です。

方便とは、真実に対していわれる言葉です。
だから、真実なしの方便も、方便なしの真実も、
意味をなしません。
目的なしの手段などありえないのと同じです。

ところが今日、件の坊主をはじめ、浄土真宗の看板を
掲げた人たちから、
「方便など要らない、真実だけ聞けばよい」
という方便破壊の言説がまことしやかに語られ、
堂々とまかり通っています。

弥陀の救いで「方便」といわれるのは、救われるまで
の弥陀や釈迦のご教導をいうのに、それを「要らない」
というのだから、結局、
「求めることも、聞き歩くことも、苦労することも
要らない。ただじゃ、そのままじゃ、無条件じゃ」と、
「何もしなくていい」ことを〃一生懸命すすめる(?)〃
漫画みたいな教えになっています。

空虚な内容を、難解な仏教語で深遠そうに見せかけ、
「論より証拠」で、〃私は救われた〃と自分の体験を
好んで語るから、一般の人には、何か深い真理に達した人
かのように見えるかもしれませんが、本質はただの
〃怠け者の自慢話〃であり、〃脱力系の人生訓話〃
でしかありません。

そんなものを「弥陀の救い」と誤解させる者たちに
「親しみ近づいてはなりませんよ」
と、聖人は忠告なされているのです。

そんな怠け者、いや〃現代の物部守屋〃たちに先導
された浄土真宗が、この100年でどうなったか?
先日、ここに書いたとおりです。
いいかげん目を覚まさないと、本当に浄土真宗は滅び
てしまいます。

今、この時代に、聖人直筆の、上記の御和讃が見つかる
というのも、まことに意味深長なことでありましょう。


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毒饅頭を食べてさっさと消えるがいい

2012-10-11 10:43:35 | Weblog




これは本願寺で行われた、親鸞聖人650回大遠忌(上)
と700回大遠忌(下)の写真です。
今から100年前、50年前には、これだけ聞法者に
熱気があったということです。

100年前の「650回忌」に全国から参拝した人は
100万人を数えたといいます。

しかし、昨年、本願寺で行われた「750回忌」は、
その半分以下の40万人(公称)。それも観光を兼ねた
団体参拝でした。

人数だけでなく、門徒の質も大きく変わりました。
50年前、100年前は、写真を見ても分かるとおり、
皆、正座して聞いていますし、『正信偈』の勤行も
きちんと行われておりました。

750回忌はそうではありませんでした。イスに座り、
正座する人はなく、『正信偈』の代わりに「御和讃」
だけの勤行となりました。それは、一般の門徒で、
『正信偈』の勤行を毎日実行する人がほとんどいなく
なったことと関係しているようです。

100年前、交通機関が未発達で、日本の人口が
5千万程度だった時代の100万人と比べ、参拝人数
だけでも深刻な激減です。
質の劣化も含めて、グラフ化できたとするならば、
恐るべき急降下を示すでしょう。

それでも40万人も参拝するということは〃腐っても鯛〃
の風情ではありますが、100年前から今日までの
下降線グラフを、50年後の800回忌へ延長していった
先に見えるものは何でしょうか。
〃崩壊の兆し〃などというレベルではなく、まごうこと
なき滅亡、消滅です。

なぜ、こんなことになってしまったのか?

その答えは、明らかです。
「親鸞聖人の本当のみ教えを伝えていない」
これに尽きます。

蓮如上人がそうであったように、親鸞聖人のお言葉を示し、
その意味を分かりやすく、一生懸命、伝えていれば、
こんなことになるはずもないのです。

事実、

件の坊主が、一生懸命、非難中傷している浄土真宗親鸞会
は、親鸞聖人のお言葉を示し、その意味を徹底する親鸞学徒
の本道を、ひたすら進んでまいりました。
50年前には24畳の会館しかありませんでしたが、
今は2000畳の講堂が、正座して真剣に聞く人たちで
あふれています。『正信偈』の勤行を朝晩欠かさないのは
当然のことです。

さらに全国各地に、仏法を聞きたいという人たちの真剣な
思いによって、会館が続々と建立されています。

先日、二千畳の講堂で親鸞聖人の報恩講が勤められました。
日本のちょうど反対側のブラジルからも、90歳のおばあ
さんが参詣しておられました。日本とブラジルでは昼夜が
ちょうど逆転するため、20代の若者でも時差に慣れるの
は大変です。ましてや90歳の方にとって、それは肉体的
にも精神的にも、どんなに過酷なことだったかと思います。

ただ、ご本人は「どうしても聞きたい」一心で来られたの
であり、大変喜んで帰られました。無上仏のご念力に動か
されての聞法の旅だったのです。

こうした真摯な聞法者に対し、100年前の本願寺の人々
なら、「よく参られました」と讃え、辛苦をねぎらい、
手を取り合って聖人の御徳を讃え、ともに御恩に報いよう
とする気風は十分あったと思います。

でも今はどうなのでしょう?
〃真宗学にお詳しい〃坊主やら同行らが、冷笑もしくは
愚笑して言うのです。

「そんなに真剣に求めなくてもいいのに」
「そうやって自分から阿弥陀様をつかもうとする心が、
かえって阿弥陀様を遠ざけているのだ」

他力が無力になりかわり、「善のすすめ」を嫌って、
真剣に聞くことも、求めることも、続けて聞くことさえも
力強く勧めない。勧められない。

それどころか、そんなことを勧めるから「助からないのだ」
と毒づき座り込む。
口さえ開けば、
「ただです、そのままです。無条件です。何もしなくて
いいんです。ただ今、救われてください」

一見、他力に見せかけた、無力の〃毒饅頭〃である。
こんなのが他力であり、親鸞聖人の教えであるなら、
かつての隆盛はありえないだろう。
説けば説くほど、本願寺の崩落は歯止めがかからなくなり、
滅亡は加速化するだろう。

朝晩、勤行を欠かさないような門徒を、100万人も育てる
ことは並大抵のことではないのに、
先達から受け継いだかけがえのない御門徒たちの厚い信仰
を、100年かけて本願寺は焼け野原にしてしまった。

築くのは大変だが、壊すのは簡単なのである。
ここまで壊れたなら、一旦、ご破算にしてやり直したほうが
いいかとさえ思う。

そう、だから
私たちに「頭、大丈夫?」とか言っていた坊主たちの語る
〃他力信心〃を、本願寺の僧侶はよく聞いて、よく学ぶこと
である。そしてその毒にあてられて、全身麻痺すればいいと
思う。
そして早々に退場してくれたほうが、浄土真宗の再興のため
にはいいのかもしれない。
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熱さまし・・

2012-09-29 10:18:02 | Weblog
九州の、ある本願寺僧侶が、自著の中で『歎異抄を
ひらく』という本を参考文献に上げ、『ひらく』の
著者の本は、
「やはり安心して読めます」
と書いているそうです。

それをこちらが好意的に取り上げたことについて、
件の坊主が、本願寺の僧侶に褒められ、あたかもこちら
が舞い上がっているかのように(例の如く早合点して)
書いているようです。

残念ながら、本願寺の僧侶に褒められて喜ぶ人は、
こちらにはありません。

なら、「なぜか?」の疑問もあるかもしれませんが、

「一葉落ちて天下の秋を知る」

そう言っておけば、察しのいい人には十分でしょう。

加えて言えば、件の坊主は、その九州の僧侶に対して
「少しでも浄土真宗を学んだ人なら最初の10ページで
放り投げたくなるでしょう」
とか、
「この人にとっての他力とは、自分の心のもちようで
楽になれるよくらいの自己セラピーでしか無いのだと
思います」
と厳しく批判しています。

この点に関しては、珍しく件の坊主と意見が一致しま
したが、だとするなら、なぜ彼らの教団は、こういう
間違ったことを教える僧侶を、そのままにしておける
のでしょう。

教団の命は、「教え」でありましょう。
教団とは、一つの教えに心を同じくし、その通り伝え
ようとする同志の集まりです。
教えの理解が統一されておらず、教えを乱す者が、その
まま身を置けるような教団なら、それはもう「教団」と
しては生命は終っているのでしょう。
鶏の首を切っても、しばらく走っているようなもので、
物体としては動いていても、生命体としては終わってい
ます。

さらに件の坊主は、『歎異抄をひらく』という本の著者
に対して、

「数千人の前でおおはしゃぎ」
とか
「こんなことする人は・・・・以外に世界に1人もいま
せん。なぜか。あまりに恥ずかしいからですよ」
とか、
「ほんとに頭大丈夫なのか真剣に考えて欲しいです」
とか、
「本願寺に認めてもらいたくて認めてもらいたくて仕方
がないのでしょう」
とか、
「周囲のイエスマンと検閲済みの『お手紙』でいくら
賞賛されても飽きたらず、自分を追い出した本願寺を
見返したくて仕方がないのでしょう。大した自己承認
欲求です」

と、実名を出して悪口中傷のオンパレードです。

【個人の尊厳】については随分やかましいのに、
ここまで見当違いの憶測、暴論を重ねて一人興奮し、
他人の【個人の尊厳】を傷つける人は珍しいと思います。

件の坊主は、他人から自分のことをとやかく言われると、
「憶測だ!」と腹を立てるくせに、自分のやっている
ことになると、牛のように鈍感のようです。

しかし、一般的に言えば、
他人の「個人の尊厳」を踏みにじる人は、自分の「個人
の尊厳」を主張する資格はないと考えられます。
もちろん、主張するのは自由ですが、そういう人は
信用されないということです。

隣国で、自分勝手な言い分を押し通すため、
日本の国旗に火をつけ、踏みにじり、さも善いことでも
したかのように、徒党を組んで正義漢を気取っている
人たちが、写真や映像で公開されています。

ああいう手合いに堕ちたいのならそれも自由ですが、
事は仏法なのですから、なおさらやめたほうがいい
でしょう。
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方便を悪しということは有るまじき

2012-09-25 21:05:15 | Weblog
私たちを真実に導き入れるには、絶対に必要不可欠な
のが、仏教の方便といわれるものです。

「釈迦・弥陀は慈悲の父母
 種々に善巧方便し
 われらが無上の信心を
 発起せしめたまいけり」(高僧和讃)

釈迦・弥陀は、慈悲深い父母である。
私たちに無上の信心(真実信心)を発起させるために、
どんなに種々のご苦労(善巧方便)なされたことか。

親鸞聖人は感泣されています。
私たちは弥陀・釈迦の種々の善巧方便がなければ、
絶対に無碍の一道(真実)へは出られないのです。

「蓮如上人仰せられ候、『方便を悪しということは有る
間敷なり。方便を以て真実を顕わす廃立の義、よくよく
知るべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真
実の信をば獲ることなる』由、仰せられ候と云々」
                  (御一代記聞書)
蓮如上人が仰せになった。
「方便など要らないなどとは、言語道断、言うべきこと
ではない。恐ろしい大法謗である。方便からしか真実に
入れぬと説かれた、親鸞聖人の教えが全く分かっていな
いのだ。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によってこそ、
私たちは弥陀の救いに値う(真実の信心を獲る)ことが
できるのである」

蓮如上人もまた、弥陀、釈尊、善知識方の種々のご方便
がなければ、私たちは絶対に真実の信心を獲て無碍の一
道に出ることはできないと仰っています。


いかに方便が大切か、上記のことからも明らかでしょう。
では、弥陀・釈迦・善知識の善巧方便とは何か。

弥陀は、方便の19願で、十方衆生に修善を勧められ、
釈迦は、『観無量寿経』にその19願を開説なされている。

親鸞聖人はそれを

「臨終現前の願(19願)より
 釈迦は諸善をことごとく
 観経一部にあらわして
 定散諸機をすすめけり」(浄土和讃)

 弥陀が19の願を建てられた意を、釈迦は『観無量寿経』
 一巻に詳述し、すべての善を定散二善で説き明かし、
 十方衆生に勧められている

と教えられている。

「如来の教法を我も信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」
で貫かれた親鸞聖人が、釈迦弥陀のご教導と違うことを教え
られる道理がないではないか。

事実、親鸞聖人は、

「諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆえに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり」(浄土和讃)

 19願の諸善万行のお勧めは、弥陀が我々を救う(18願)
 ためのお計らい(方便)だから、往生浄土の方便の善とな
 らぬ善はないのである

と教えられ、弥陀・釈迦・祖師のご教導は一貫している。

もちろん、我々のやる善で救われるとは、どなたも仰っていな
いが、善のすすめを嫌い、排斥するような仏教がどこにあろう。

「方便不要。ただです、そのままです、無条件です」
「善など勧めては永遠に助かりません。
 一体、いつ助かるつもりですか!」
などと、何とかの一つ覚えで言っている自称・仏法者がいる
ようだが、世の中にはいろんな「救い」があるものだな、と
嘆かわしく思うだけである。

仏の深遠な方便の真意が、そうそう容易く分かるものではある
まい。
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唯説弥陀本願海

2012-09-23 21:36:53 | Weblog
★「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」(正信偈)
          
「唯説」とは、「唯一つ説かれた」ということです。
お釈迦さまは生涯、「弥陀の本願海」(阿弥陀仏の救い)
だけを説かれたと、親鸞聖人は断言なされています。

これは即ち、お釈迦さまは、
「弥陀の救いと無関係なこと」
または、
「弥陀の救いを妨げるようなこと」は
一切、説かれなかったことも意味しています。

もし釈迦が、弥陀の救いと無関係、もしくはそれを妨げる
ようなことも一切経に説いておられるとするならば、
親鸞聖人の「唯説」という断言が、意味をなさなくなって
しまいます。

そのお釈迦さまの「唯説」された教えを親鸞聖人は、

★「我も信じ人にも教え聞かしむるばかりなり」

「ばかりなり」と仰っているのですから、聖人もまた弥陀
の本願だけを説かれたことは明白でしょう。

さて、一方、
一切経に一貫する教えを、ひと言で表したものに
有名な「七仏通戒偈」と呼ばれるものがあります。

★「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」
 (もろもろの悪をなすことなかれ
  もろもろの善をなして、心を浄くせよ
  これが諸仏の教えだ)

これは「善のすすめ」以外のなにものでもありません。

お釈迦さまが、弥陀の本願だけを「唯説」されたとする
ならば、一切経に一貫する「善のすすめ」は、弥陀の本願
と何の関係もない、あるいは妨げになるなどと言えるで
しょうか。

普通に理解・判断するならば、
「弥陀の救い」と「善のすすめ」は、
無関係ではありえないでしょう。

親鸞聖人はこう仰っています。

★「八万四千の法門(一切経)はみな是れ浄土の方便の善
 なり。これを『要門』という、これを『仮門』と名づけたり
(乃至)この要門・仮門よりもろもろの衆生を勧め
 こしらえて、本願一乗・円融無碍・真実功徳大宝海に
 教えすすめ入れたまう」(一念多念証文)

 釈迦一代の教え(八万四千の法門)は、すべてみな弥陀
 の十九願の諸善のすすめである。これを要門とも仮門とも
 いわれる(乃至)弥陀は、この要門・仮門から十方衆生
 を照育し、他力信心・無碍の一道(本願一乗・円融無碍
 ・真実功徳大宝海)に導入させてくださる

この親鸞聖人のお言葉もまた、

「如来の教法を我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり」

であることは言うまでもありません。


ただ、ここでよく注意しなければならないのは、、
だからといって、善をすれば無碍の一道に出られると教え
られているわけではないことです。
問題はそんなに単純ではないのです。

ならば、なぜ善がすすめられるのか?という疑問は、凡夫の頭
では当然、おきてくることですが、
弥陀の救いと無関係、もしくは妨げとなるようなことが、
「唯説弥陀本願海」と親鸞聖人が断言なされている仏教に、
教えられている道理もないことです。

仏教に、親鸞聖人の教えに、善が勧められている真意を理解し
得なかった人が、今日の正統派を名乗る教団の中枢を占めて
おり、ネット上で非難している人々もまた、そこに誤解がある
のだと思われます。

「弥陀の18願の救いは無条件だから」を理由に、あっさり
「善のすすめ」を否定し去る人たちは、あっちでもこっちでも
「救われた!」「簡単だった」と言って盛り上がっているよう
ですが、親鸞聖人は、

「微塵劫を超過すれども、仏願力には帰しがたく、大信海には
 入りがたし」(教行信証)

とか、

「善知識にあうことも
 教うることもまた難し
 よく聞くことも難ければ
 信ずることもなお難し」(浄土和讃)

と仰っています。

「30年聞いていて、まだ助からないのか!」とお叱りを受け
ていたそうですが、「善のすすめ」の真意を、多少なりとも知
らされた側からすれば、そういう人たちに「善のすすめ」の
真意を伝え、理解させることこそ、とても30年ではすみそう
もない難事業と、しみじみ覚悟させられます。


今、問題となっている小さな島が、日本の領土であることを
隣国の暴徒に説明し、納得させることは誰が考えても難しい
ことです。頭から湯気をたてている人たちに、理屈を説いた
ところで、火に油を注ぐようなものです。ますます徒党を組
んで暴徒化し、乱暴狼藉、悪口中傷の言いたい放題が予想さ
れます。
日本側はどう対応すればいいか。先の見えない紛争ですが、
少なくとも、あちらと同じような暴徒と化してはいけないで
しょう。






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