静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

生について考えることは死を考えること

2019-12-05 13:47:02 | Weblog
死について話しをすると、人生をそんなに暗く考えるのではなく、もっと明るく、ポジティブに考えてみてはどうか?と言われることがあります。

 どうかと言われても、それが仏教なので、致し方ありません。
ただ、仏教で死のことをやかましく言うのは、決して人を暗い気持ちにさせるためではなく、実際はその逆なのです。

「暗い」といわれますが、話をしたから暗くなったのではなく、もともと私たちの人生に暗いものがあるんです。そこに気がつかないと、明るい心にすることはできません。

 このことを仏教では、「生死一如」と教えられます。今回は、このお言葉について説明しましょう。

 まず、この一如というのは、一つの如しと書きますが、同じではないけれど、別ものでもないということです。
例えて言えば、紙の裏表みたいなもので、一枚の紙には必ず表と裏があります。表と裏は同じではありませんが、かといって切り離すこともできません。
 こういう関係を一如といいます。
 同じように人生といいましても、そこには必ず生と死があります。
生だけあって死がないとか、死だけあって生がないということはありません。
この生と死は「二つで一つ」「一つで二つ」で切り離すことはできません。ですから生死一如といわれるのです。

 表と裏を合わせて一枚の紙であるように、人生というのも、明るい「生」と暗い「死」を合わせて「人生」なのです。
 ですから、真面目に人生を考えるならば、この死を「暗い」と言って遠ざけたり、考えても仕方ないと言って無視していては、片手落ちになります。それでは「人生」を考えたことにはなりません。

 そのことを一軒の家に例えてみたいと思います。どんな家にも普通、台所と便所があります。台所というのは、食事をする場所ですから、誰もが好む明るい場所です。一方、便所は汚いし、臭いし、嫌われる暗い場所です。
 しかし、だからといって家を建てる時、好きな台所だけ造って、嫌いな便所は造らなくてもいいでしょうか。
 例えば、台所だけが特別に広く、アンティークなテーブルに、山海の珍味が山盛りになっています。ビンテージもののワインも揃い、専属のコックが次々とご馳走を運んでくれる。そんなステキな台所でパーティーを開けば、さぞや楽しいだろうと思いますが、しかしもし、そこにトイレがなかったらどうなるでしょう。

 食べたからには汚い話ですが、あとで出さねばなりません。
どうしてもトイレへ行かねばならなくなります。でもその肝心のトイレがない。
こうなったら大変です。
あっちでもこっちでもお腹を押さえて身悶えする人が出てきます。そんな中で、どんなご馳走が出されても、食べたその先が心配で、楽しく頂くことはできないでしょう。

 私たちの生と死もこれとよく似ています。便所という備えがなければ、あとで困るように、人生も、やがて必ずやって来る死に備えておかなければ必ず後悔することになります。



死をごまかさないで

2019-12-03 12:00:13 | Weblog
戦争やテロ、地球温暖化などの環境破壊、貧困問題や食糧危機などの世界中の人々の頭を悩ませるような問題が、政治や科学の力で解決すれば、大事業といわれると思います。

しかし考えていただきたいのは、これらの問題が残らず解決したとしても、問題の本質である「死」にはかすりもしていないということです。科学がどれだけ発達しても、死ぬのは止められません。世界中の時計を止めたとしていも、全人類が死に向かって進んでいることだけは止めようがありません。

そこでほとんどの人は、死を見ないよう考えないようにするか、あるいは思い切り「死」を美化したり、茶化したりして、死なんて「大したことない」と信じ込もうとしています。

しかし、それは一つのごまかしなので、いよいよとなると通用しません。ですからそんな虚勢を張ったり、気休めを言うのではなく、死という問題に真正面から向き合って、解決してはどうでしょうか。できないことは言っても仕方がないですが、仏教を聞けば、必ず解決いたします。

上記の諸問題の解決を、世間で大事業というのなら、その根本が解決するのですから、人生の大事業です。
そしてそれが、絶対の幸福になったということであり、仏教が明らかにしている「なぜ生きる」の答えなのです。

「死ぬことなんか怖くない」は本心か?

2019-12-02 11:48:15 | Weblog
「私は死ぬことなんか何とも思っていないよ。死んだら死んだ時だ」と言われる方があります。
 しかし、よく考えてみて下さい。例えば今、十万円入った財布を取られたとします。皆さん血相変えないでしょうか。「大変だ、大変だ」と大騒ぎしたり、ショックで何も手につかないかもしれません。
 しかし、いくら大事な財布とはいえ、それは私というものの一部です。その一部を失ってさえ大変なショックです。ましていわんや、死というのは「命を取られる」のですから、財布を取られるどころの騒ぎではありません。財産も仕事も地位も、家族もマイホームも、死ぬときは全部失います。

 財布一つなくしてさえ、大騒ぎをする人が、もっと大事な命を失う時、平然としておれるものでしょうか。
 死なんて怖くないとか、何ともないと言っている人は、本当にそうなのではなく、これまで死についてあまり真面目に考えてこなかったということだと思います。
 今は「死は恐くない」と思っていても、想像した死と、現実にやって来る死との間には、大きな隔たりがあることをよく知らないといけません。

 どういうことかと言いますと、例えば、トラという動物を知っていますかと聞けば、皆さん、知っていると答えると思います。しかし、皆さんの知っているトラは、TVや動物園で見たトラのことで、それは襲ってくることはないので怖くなかったはずです。
 しかし、皆さんがジャングルを歩いていた時、突然トラが現れたとします。その時は、恐怖で腰を抜かすと思います。TVや動物園で見たのもトラ、ジャングルで出くわしたのもトラなのですが、受ける印象はまるで違います。

 死も同じです。他人が死ぬのなら、毎日起きている出来事の一つで、自分は傍観者でいられます。それはTVや動物園のトラを見ているようなもので怖くありません。
 しかし、実際に自分の身に起きる死は全く違います。それはジャングルで襲ってくるトラです。今度は傍観者ではなく、当時者になります。死はすさまじい破壊力で、私の何もかも奪っていきます。そしてそれを体験した時には、全てが終わっています。

 今世間を騒がせている問題、例えば、
★戦争やテロ事件
★核実験やミサイル
★原子力発電の再稼動問題
★新型ウイルス
★南海トラフなどの大震災
★温暖化などの環境破壊
 こうした問題を世界中の人が恐れ、「何とかしなければ」と大騒ぎしております。
 ではなぜ、大騒ぎするのでしょうか。皆さん、もうお気づきだと思います。それはこれらの問題の根底に、「死」があるからです。

 つまり、戦争や、爆弾テロの何が問題かというと、人が死ぬということです。もし誰も死なないなら、戦争が始まっても、テロリストがやって来ても怖くないと思います。ということは、本当に怖いのは、」戦争やテロというよりも、その先にある「死」なのです。

 また毎度お騒がせのお隣の国が、やたらと核実験やミサイルを発射しております。世界中がそれを止めさせようとしていますが、それはなぜかといえば、あの国が核兵器が使うようになったら、たくさんの人が死ぬことになるからです。

 原発もそうです。再び稼働させると反対運動が起きますが、それは何かあった時、福島原発のように放射能が漏れるからです。なぜ放射能を恐れるかと言えば、それを浴びると私たちは死ぬからです。つまり、放射能が怖いというより、「死」が怖いのです。

 新型ウイルスも、大震災も、あるいは大気汚染や地球温暖化なども、そのこと自体が恐ろしいというより、それによって死ぬことが恐ろしいのです。根本に恐れているのは、この「死」なのです。

「死」が大した問題でないのなら、これらの問題が起きても、大騒ぎすることはないはずです。しかし実際には大騒ぎが始まるのは、全ての人が「死」を恐れているからです

生きたいから生きる。でよいか?

2019-02-26 10:11:56 | Weblog
■ある人の質問からです。

なぜ生きるか?を知ることが、いちばん大事と言われますが、生きるのは人間の本能だから、いちいち目的とか、意味とか、難しく考えず「生きたいから生きる」。それでいいんじゃないですか?

こういう疑問を時々聞きます。
 以前見たTVドラマでも、主人公がそういうことを言っていました。ある女性が仕事で致命的なミスをして、会社からも白い目で見られ、「もう私なんか、生きている意味がない」と言って自殺しようとします。
そこへ主人公がやって来て、
「生きることに意味がないとだめなんですか?生きたいから生きる。それで十分じゃないですか。人から何と思われようと、あなたはあなたの人生を生きればいいんですよ!」
そのようなセリフを言って、女性が自殺を思いとどまる、そういうシーンでした。
 自殺を止めたんですから、それはそれで結構なのですが、そのセリフに、本当に説得される内容があったのか、それは少し考えものです。

「生きたいから生きる。それで十分じゃないか」。ドラマの主人公はそう言っていましたが、本当にそれで十分でしょうか?
「生きたい」とは、言葉を換えれば「死にたくない」ということです。

★生きたい=死にたくない
 誰だって死にたくありません。しかし、どんなに「死にたくない」と頑張ってみても、人は死ななければなりません。

★死にたくない⇒ これが私たちの思いです。

★死なねばならない⇒ そしてこれが現実です。

 これが何を意味するか考えてみましょう。 例えば大学に進学したい人がいるとします。でも親の反対で進学できない。そうなると、大学へ行きたいと思うほど、行けない現実が苦しくなります。あるいは、どうしても結婚したい人がいるとします。でも、その人は他に好きな人がいて、結婚できる見込みはない。こうなると、結婚したいと思うほど、できない現実が苦しみになります。

 同じことで、人は絶対死にたくありません。しかし絶対死なねばなりません。人間とはこういう矛盾した存在であって、ここに万人の抱える「人間存在そのものの苦しみ」があると仏教では教えられます。
 大学や結婚なら、努力次第で現実が変わる望みはありますが、死ぬことばかりは100パーセント望みはありません。となると、「生きたいから生きる。それでいいじゃないか」というわけにもいかないのです。

 どんなに生きたくても死ぬに決まっているのですから、「生きたいから生きる」では、「絶対負ける戦い」を挑むようなもので、それは絶望への道です。それでは苦しむために生きるようなものですから、生きるには、死を超える、何か希望なり明かりが必要です。

真実の自己(7)煩悩具足の凡夫

2019-02-25 14:01:59 | Weblog
 私たちは、心でどんなことを思っているでしょうか。お釈迦さまは、そこに貪欲、瞋恚、愚痴という3つの悪があることを教えておられます。

 貪欲とは、あれが欲しいこれが欲しいという欲の心です。大別すると5つあり、五欲といわれます。すなわち食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲の5つです。
 食欲とは食べたい飲みたい。財欲とはお金がほしい。色欲は男や女がほしい。名誉欲はほめられたい、他人に勝ちたい、睡眠欲は眠たい、楽したいという欲です。
 考えてみますと、私たちの生活というのは、これらの欲を満たす、つまりお金を儲けたい、人にほめられたい、異性にモテたい。そのためだけに一生懸命になっています。しかもこの欲は、満たせば満たすほど、もっと欲しくなってきます。

 私たちを朝から晩、晩から朝まで一日中、引きずり回しているのが、まさにこの底なしの欲なのですが、その欲が悪といわれるのはなぜでしょうか。それは、この欲を満たすために、私たちは恐ろしいことを思うからです。世の中にあふれる犯罪や争いは、元をただせば、この欲から起きています。
 例えば強盗や泥棒、詐欺などの犯罪、闇取引などの汚職事件、あるいは遺産相続をめぐる親戚や兄弟の骨肉相食む争いは、お金が欲しいという財欲から起きたことです。
 またスポーツ選手が、ライバルを蹴落としたり、禁止薬物を使ったりするのは、他人に勝ちたい名誉欲がさせたことです。
 不倫やストーカーなどは色欲がさせたことですし、肉や魚を食べるため、生き物を殺すことは、法律でこそ罰せられませんが、仏教では殺生罪という罪に数えられます。こうした罪や悪は、いずれも私たちの欲が引き起こしたものなのです。

 この欲が誰かに妨げられると出てくるのが瞋恚、怒りの心です。あいつのせいで損した、こいつのせいで恥をかかされたと、怒りの心が燃え上がると、何をやらかすか分かりません。離婚話にカッとなった夫が、包丁で妻を刺したという事件などは、恐ろしい瞋恚の心のなせるわざです。

 次に愚痴とは、ねたみ、そねみ、うらみの心をいいます。自分の身におきた不幸を他人のせいにしてうらみ、自分よりも恵まれた相手の才能や美貌、金や財産、名誉や地位をねたみ、相手の不幸を喜ぶ醜い心です。
 こういう貪欲、瞋恚、愚痴の炎が絶えず燃え盛っているのが私たちの心です。


 自分に余裕のある時は、比較的心は穏やかで、そんな悪いことを考えているとは思えないかもしれません。しかし、ギリギリまで追い詰められた時、人はどんなことを思うでしょうか。
 日本は今や高齢社会となり、介護地獄という言葉もあるとおり、認知症や徘徊が始まった親の介護で、仕事もできず、家も空けられず、経済的にも精神的にも追い詰められている人が少なくありません。中には虐待や殺人に至るケースさえあります。
 介護も限度を超えると、今まで仲の良かった親子でも、それまで思いもしなかった、冷たい、恐ろしい心が出てこないでしょうか。ないものは出て来るはずはないので、出てくるとすれば、それが己の本性だからです。
 真面目に自己を見つめるほど、私たちの心の奥底には、誰にも見せられないものがあることに気づかれると思います。
 作家の吉行淳之介は、
「悪に汚れるのが厭ならば、生きることをやめなくてはならない。生きているのに汚れていないつもりならば、それはただの鈍感というものである」と言っています。
 また同じく作家の芥川龍之介は、「周囲は醜い。自己も醜い。そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい」と言って、絶望して自殺をしています。

 仏教では私たちの本当の姿を、煩悩具足の凡夫と教えています。煩悩とは欲や怒りや愚痴をはじめとする私たちを苦しませるもののことで、全部で108つあります。具足とは100パーセントそれでできているということ、凡夫とは人間のことです。
 100パーセント煩悩で出来ている私たちだから、「心常念悪 口常言悪 身常行悪」となるのです。こういう煩悩具足の自分と知らされるほど、こんな者が本当に幸せになれるのか、暗澹たる思いになります。しかし、仏さまの慈悲は、苦しんでいる者にこそ注がれます。

 真実の仏教は、こういう罪や悪で苦しみ続ける煩悩具足の私たちを目当てに救う教えなのです。こういう私たちが、あるがままで絶対の幸福に救い摂られて、「人間に生まれてきてよかった」という生命の大歓喜を味わえるのです。
 そんな絶対の幸福に、仏教を聞けば必ずなれます。それが本当の仏教なのです。ではその絶対の幸福とはどういう幸福か、詳しいことはまた次の機会にお話いたします。


真実の自己(7)心常念悪

2019-02-14 11:19:47 | Weblog
私とはどんな人間か、その本当の姿を知るには、仏という鏡を見ることが大切であると、前回お話しました。
 仏という鏡を法鏡ともいいます。法とは真実のことで、真実の自己を映す鏡、それが法鏡です。この法鏡を見るとは、仏教を聞くことをいうのです。
 お釈迦さまは『大無量寿経』というお経に、私たちの姿を、

心常念悪
口常言悪
身常行悪
曽無一善

と説かれています。
 これは「心は常に悪を思い、口は常に悪を言い、身は常に悪を行って、曽て一つの善もなし」と読みます。
 こう聞くと「そんな悪い奴がいるんですか。そりゃあ早く捕まえて、刑務所に入れないといけませんな」と思う人はあっても、これが自分のことだと思う人はいないと思います。
 なぜなら、この「常」という字が問題です。これが「時々」とか「たまたま」という字なら分かります。「心は時々悪いことを思う」「口は時々悪いことを言う」「身はたまたま悪いことを行う」。これなら「私のことかな」と自覚できますが、「常に」と言われると、「そこまでひどくはなかろう」と思ってしまいます。
 しかしお釈迦さまは、今、世界に70億の人がいるとして、その中にはこんな悪い奴もいるということではなく、70億いれば70億、皆、こんな姿をしていると仰るのです。
 信じ難いことかもしれませんが、世界の三大聖人、二大聖人といっても、トップにあげられるお釈迦さまが、いい加減なことを仰るはずはありません。ではなぜ、こう言われるのか、それをよく聞かせていただきましょう。

 まず仏さまは、私がどんな人間かを見られるのに、心と口と身の3つを見ておられることに着目してください。
 ここが世間一般の見方と違うところです。例えば裁判で人を裁く場合、その人が実際にやった「言動」を問題にします。心で思っただけなら、他人に迷惑をかけたわけではないので、問題にしません。たとえ心で、「殺してやりたい」と思ったとしても、それを口に出したり、実行しない限り罪に問われることはありません。
 ところが仏教では、「殺るよりも 劣らぬものは 思う罪」といわれて、たとえ身体で殺さなくても、口で「殺してやる」と言わなくても、心で思えば罪になると教えます。しかもそれは、身や口で犯す罪より、ずっと重いといわれるのです。
 なぜかといいますと、私たちの言動、つまり口や身の行為といいましても、それをさせている大元はすべて心にあるからです。

 例えば、今、あなたはパソコンの前におられると思いますが、あなた身体が勝手にそこまで動いてきたのではないはずです。あなたの心が「パソコンの前に座れ」という指令を出し、身体はそれに従っただけです。
 また、私が今ぺらぺら話をしております。これは口の行為ですが、私の口が勝手に話しているわけではありません。「次はこう言えよ」「その次はこう言うんだぞ」と心がそういう指令を出しているのです。
 このように、私たちの言動というのは、全て心の指示です。ですから身体や口がやったことより、そういう指示を出した「心」を重く見るのは当然のことなのです。
 では私たちは、心でどんなことを思っているでしょうか。お釈迦さまは、そこに貪欲、瞋恚、愚痴という3つの悪があることを教えておられます。

真実の自己(6)法鏡に映った自己とは

2019-02-13 16:03:00 | Weblog
では次に、自分鏡はどうでしょうか。この自分鏡とは、あちらが他人からの評価でしたから、こちらは自己評価になります。
 自分で自分を評価する。これならどうでしょう。実はこれにも欠陥があって、この鏡も当てになりません。
 面接試験で、自己評価を聞かれた時、皆さんならどう答えるでしょうか。5段階で答えるとして、5と言うと自惚れているようなので言わないと思います。かといって1とか2は、自尊心が言わせないと思います。大概、人は自分は中の上と思っていますから、4ぐらいと答えるのではないでしょうか。しかし、それが本当なら、世の中は、中の上の人ばかりになります。しかし現実は、半分以上が3より下なのです。

 犯罪を犯して刑務所に入っている人なら、さすがに自己評価は低いだろうと思われるかもしれませんが、全然そんなことはないそうです。銀行強盗した人は、自分の大胆さを誇り、スリは自分の機敏さを自慢し、詐欺師は俺は頭がキレると自惚れています。
 このように人は、悪いことをやっていても、自分という人間は本当はすごい奴なんだと思いたいのです。
 こういうのを欲目といいます。この欲目があって、私たちは自分自身のことを正しく見れません。この鏡にはいつでも、まんざらでもない自分の姿が映るのです。

 たとえ口では、「私は何もできないお粗末な者です。どうか皆さま、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」と、へりくだってみても、心の中では「こういう謙虚さが大事なんだぞ」「これだけ頭の低い者がほかにおるか」と思っていて、頭は低く下げてはおりますが、「どうだ」と、相手を上から見ています。自慢話は見苦しいと思って言わないようにしても、そういう自慢しないことを、ひそかに自慢してしまうのですから、私たちの自惚れ心は、相当根深いものなのです。
 もちろん謙虚さは大切なのですが、「ダメな私」と自分で言っておきながら、人から「確かにあんたはダメだね」と言われると、腹が立ってきます。「そういうおまえはどうなんだ!」と言い返したくなるのは、本心、自分をダメとは思っていない証拠です。
 ですからこの自分鏡も、欲目が入るという致命的な欠陥があって、自分の本当の姿を映してはいないのです。

 しかし皆さん、考えてみてください。自分で自覚している「自分」「自己」というのは、何を見てのことでしょう。
 よく自己主張とか、自己啓発とか、自己肯定感が大事であるといわれます。そこで言われる「自己」とは、この他人鏡か、自分鏡に映った自己ではないでしょうか。
 しかし、この他人鏡も自分鏡も、今言った通り欠陥品ですから、ここに本当の自分は映っていません。だとすると、私たちが自覚している自己とは、本当の自分とは違うものだということです。
 となると私たちは、「自分とは何か」という出発点からそもそも大きな勘違い、錯覚をしていることになります。最初のボタンを掛け違えれば、あとのボタンは全部狂うように、自分を誤解していたら、それを主張したり、啓発したり、肯定することに、どれほど意味があるのでしょうか。
 いつの世も、どこの国でも、人は人生の最後に、「こんなはずではなかった」と後悔を繰り返してきたのもそのためなのです。
 では本当の自分とはいかなるものでしょうか。それを知るには3番目の「仏」という鏡を見ることが大切です。これは仏さまの目に映った私たちの姿です。お釈迦さまの本心が説かれている『大無量寿経』には、

 心常念悪
 口常言悪
 身常行悪
 曽無一善

と私たちのことが説かれています。これはどういう意味か、次回お話したいと思います。

真実の自己(5)他人鏡に映る自分

2019-02-12 15:47:34 | Weblog
前回、私というものを映す3枚の鏡があることを話しました。自分のこの姿形なら、洗面所の鏡に映りますが、ここで言う鏡とは、私はどんな人間か、その善悪を映す鏡のことです。
 これに3枚あって、一つは他人という鏡。次に自分という鏡。そして仏という鏡です。

 まず他人鏡とはどんな鏡かといいますと、他人からの評価のことです。つまり自分は、他人からどう評価されているか、それを他人鏡を見ると言っています。
 自分が高く評価されたり、ほめ言葉を聴くといい気持ちになりますが、耳の痛い批判は誰しも聞きたくないものです。でも、そこに耳を傾けるのは大事なことです。
 例えば、顔にご飯粒をつけたまま、知らずに町を歩いていたとします。その時、誰かが注意してくれなければ、そのままずっと恥をかき続けることになります。だからお釈迦さまは、自分の悪いところを注意してくれる人があれば、宝のありかを示してくれる人だと思って、有難く感謝しなさいと教えておられます。
 ですから、「おまえのこういうところはよくないよ」と言われた時、「それは違う」と否定したり、腹を立てていては、誰も注意してくれなくなります。結局それで損をするのは自分なのです。
 このように他人鏡は必要なものです。しかしここに私の本当の姿が映るかというと、実は大きな欠陥があります。
 どういう欠陥かといいますと、映す人の都合で、評価がころころ変わってしまうということです。つまりこの鏡は、都合のよい人は「善人」と映しますし、反対に都合の悪い人は「悪人」と映します。
 例えば、皆さんの家にピストルを持った強盗が入ってきたとします。ちょうどそこへ巡回中のおまわりさんがやって来ました。そのおまわりさんを見た時、あなたは地獄で仏と思うでしょう。しかし強盗は、自分を捕まえに来た鬼と出くわしたように思うはずです。
 同じ警察官を、あなたは仏と見て、強盗はそれを鬼と見る。同じ人なのに、こんなに評価が分かれるのは、見た人の都合によるからです。
 また、好感度ナンバーワンと言われる有名人が、スキャンダルを週刊誌にスクープされたりすると、「こんな人だとは思わなかった」と、一ぺんにイメージダウンします。善人で通っていた人ほど、だまされた気がして悪く言われてしまいます。
 そうかと思うと、極道といわれる人が人助けなどすると、「本当は善い人なんだ」と、いっぺんに評価が上がります。
 このように他人鏡とは、その人の都合で評価が正反対に分かれたり、あるいは過ち一つで一斉にこき下ろすかと思えば、一つ善いことをしただけで善人と持ち上げたり、善・悪の評価がコロコロ変わりますから当てになりません。
 これを頓智で有名な一休和尚は、「今日褒めて、明日悪く言う人の口 泣くも笑うも ウソの世の中」と歌っています。褒められても謗られても、その人その人の都合で言っているだけですから、そんな言葉に一々泣いたり笑ったりしているのはバカげたことだよと歌ったものです。
 諺にも、「惚れて眺めりゃあばたも笑窪」とありますように、好きな相手なら、その人の欠点まで長所に思えます。反対に「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」で、憎い奴だとその人のやることなすこと気に入らない。善いところまで貶そうとします。
 他人の評価とはそういうものと分かれば、「豚は褒められても豚、ライオンは謗られてもライオン」。私は私なのですから、他人の評価に一喜一憂してきたことが、「泣くも笑うもウソの世の中」と知らされてきます。
 こうした欠点が他人鏡にはあるので、無視してもいけませんが、ここに本当の私の姿は映らないのです。

真実の自己(4)人間死んだらどうなるのか?

2019-02-11 10:20:45 | Weblog
 ではなぜ、仏教はこの真実の自己を、そこまで問題にするのでしょうか?
 それは、古今東西全ての人の100パーセント確実な未来が「死」だからです。
 頓智で知られる一休和尚は、「世の中の娘が嫁と花咲いて、嬶としぼんで婆と散り行く」と歌っています。これは女の人の一生を詠んだものです。女性は誰しも最初は娘で始まり、年頃になると、嫁となってパアッと花咲き、やがてしぼんで嬶といわれ、さらに先へ進むとおばあさんとなります。皆、大体こんなコースを通るのですが、問題はその先です。おばあさんとなったその次はどうか?散っていかねばなりません。では散ったその先はどこへ行くのでしょうか。
 これは女の人のことですが、男も似たり寄ったりのコースで、結局、この世を去るのです。それは誰も変えられないことですが、問題は、この世を去ったその先です。
 よく死ぬことを、「旅立つ」という言い方をしますが、一体どこへ旅立つのでしょうか。つまり、「死んだらどうなるか?」ということです。
 肉体が死ねば、何もかも無になるのなら、死んだ後のことなど考えても仕方ありません。しかし、先ほどから言っているように、本当の「私」というものは、肉体が死んでも終わらないのです。だとすれば、「死んだらどうなるか?」。これは万人が必ず直面させられる人生最大の問題なのです。
 ところが人は「今さえよければいい」「死んだら死んだ時だ」といった調子で、「死んだらどうなるか?」そんな大問題があるなど夢にも思わず生きています。それが人生最大の盲点であり、落とし穴ともいえるのです。
 東大で宗教学を教えていた岸本秀夫教授は、ガンと闘った10年余りの闘病生活の記録を、『死を見つめる心』という有名な本に残しました。その本の中でこう言っています。
「生命を断ち切られる、それが何を意味するのか。何が問題となるのか。生きている現在においては、自分というものの意識がある。『この私』というものを常に意識して生きている。だが死んだ後、その私はどうなるのか?問題はそこに集中してくる。これが人間にとっての大問題となる」
 死ぬことは100パーセント間違いないのですから、その先はどうなるのか?岸本教授の言う通り、これは万人共通の大問題です。ところがそれがさっぱり分からない。まっ暗がりなんです。

 旅立つと言っても、そんな真っ暗がりの未知の世界へ、たった一人で旅立つのですから、どの人の心の底にも、得体のしれない不安があります。これを作家の芥川龍之介は、「ぼんやりした不安」と言いました。この不安のために、私は幸せにはなれそうにないと言い、人生に絶望してしまったのです。
 芥川も私たちと同じように、満足のいく仕事をして、好きな人と結婚して、気に入った家を買って、いろんな趣味にも挑戦して、幸せな人生を思い描いて生きていたと思います。しかし何をやっていても不安がある。時折、「一体こんなことやって何になるんだろう?」と虚しくもなる。どうしてそういうことになるのかというと、私たちの本心が真っ暗で、安心・満足していないからなんです。
 いくら幸せと思える条件をそろえても、行く先がハッキリしないのですから、本心から安心・満足できないのです。
 人が死ぬと、葬式で僧侶は「極楽浄土へ旅立たれました」と言いますし、友人代表は「天国で見ていてください」と挨拶します。親は小さな子に、「死んだらお星さまになるんだよ」などと言います。生きている人は想像で何とでも言いますが、今から死んでいく本人は、それで納得はしないと思います。一体、私たちは死ねばどこへ行くのでしょう?
 それを知るには、まず自分とはいかなるものなのか?その善悪を明らかに見ることが大切です。私たちの本性が善ならば、極楽とか天国とか、いい所へ行けるかもしれませんが、悪性だったらどうなるのでしょう。答えはこの本心にあります。しかしそれは簡単には分かりませんので、分かるところから自分を見ていきなさいと仏教では教えられます。
 そこで自分の姿を見るのに、昔から3枚の鏡があるといわれています。その3枚の鏡というのは、一つは他人という鏡、もう一つは自分という鏡、そして仏という鏡です。それぞれどんな鏡で、そこに自分の姿がどう映るのか、それについては次回お話いたします。

真実の自己(3)肉体=私ではなく、肉体は〃持ち物〃

2019-02-09 11:49:11 | Weblog
前回は、私自身を知ることがいかに大事であるかをお話しました。
今回は、「知るとのみ 思いながらに何よりも 知られぬものは己なりけり」とあるように、分かっているようで、実は全く分かっていないのが己、自分というものであることをお話いたします。

 ある人がメガネをなくして家中探し回っておりました。どれだけ探しても見つからないので、家の人に「私のメガネ、どっかで見かけなかったか?」と尋ねると、「あなたの目にかかっていますよ」と言われたそうです。それはメガネをかけて、そのメガネを探しても見つからない道理です。
 それと同じように、自分で自分自身を探すということは、メガネをかけてそのメガネを探しているような、ややこしい話なんです。

普通、私とは何かと聞かれたら、この体を指して、「これが私だ」と答えると思います。しかし、よく考えてみてください。これは私ではなくて「私の体」です。
つまり、これは私のペン、これは私の時計と言うように、ペンも時計も「私」の持ち物であって、私ではありません。これを「私の」と言っている持ち主が「私」なのです。

 ペンや時計なら誰でも分かりますが、肉体も同じです。
これは私の腕、私の足です。これは私の胴体、私の頭であって、私ではありません。この体を「私の」といっている持ち主こそが本当の「私」なのです。

 私たちは生まれてからずっとこの体で生きてきたと思っています。しかし、人の体というのは、大体37兆もの細胞からできていて、それが刻々と新陳代謝しておりますから、およそ7年で全部入れ替わるそうです。
 ということは、子供の頃の体と、大人になった今の体は、物質的には全く別物です。

 もしこの肉体=私なら、子供の頃の私と今の私は別人になります。
しかし、実際はどうでしょう。子供の頃も私。今も私。肉体は入れ替わっても私は私のままです。
 それは、肉体とはあくまで「私の持ち物」だからで、「持ち物」が入れ替わっても、持ち主である「私」までは変わらないのです。
 繰り返しますが、私とはこの肉体ではありません。肉体は変わっても、一貫して変わらない「私」というものがあるのです。

 さて、肉体の心臓が止まると、死んだといわれます。確かに肉体はそこで終わって、焼かれて跡形もなくなります。しかし、肉体はあくまで「私の持ち物」なので、肉体は消えても、持ち主である「私」まで消えてしまうわけではありません。

     生       死
ーーーーー〇-------✖ーーーーーーー
     ↓        ↓
ここが肉体の生まれた時、ここが死んで滅する時とします。

仏教では、この肉体の「生」「滅」に関わりなく、一貫して続く「永遠の生命」のあることを教えています。
この永遠の生命というのが、私たちの本心です。真実の自己ともいわれます。しかし、それは意識のずっと底にあって、簡単に分かるものではありません。

 禅宗の道元は、「仏道を習うというは自己を習うなり」と言っています。仏道を習うとは自己、つまり真実の自己、永遠に続く生命を学ぶことだという意味です。
 また親鸞聖人も大変尊敬しておられた源信僧都という方は、「よもすがら仏の道に入りぬれば わが心にぞ尋ね入りぬる」と仰っています。仏道を求めるとは、「わが心」この本心を尋ねることなのです。