静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

脳が私なのか?

2011-06-19 20:05:31 | Weblog
『生きて死ぬ私』(著・茂木健一郎)という本を紹介します。

NHK番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」の司会などで、幅広く活躍している脳科学者・茂木健一郎さんのエッセーです。


「科学の発達により、宇宙というマクロコスモス、人間というミクロコスモスに関する私たちの知識、理解は格段に深まった。
だが、このような理解の深まりが、人間とは何か、人間の生きる目的は何かといった究極の問いの解明には、なかなかつながらない」

「どんなに科学が進歩したとしても、何らかの価値の基準を求める人間の心が変わるわけではない。私たち人間はどこから来てどこへ行くのか、人生の究極の目的は何なのかといった問いの重みが変わるわけではない」


このあたりは、わが意を得たりと思いました。
「脳」をどんなに生化学的に分析して、人間を物質的な側面から研究しても、私というのは分からないものなのでしょう。

「私」が分からなければ、私が死んだらどうなるのかも分からないし、私の生まれてきた目的も、生きる目的も分からない、何もかも、大事なことがサッパリです。


ただそれが「脳」に精通する茂木さんの洞察であり、結論であり、実感となれば、現代社会への影響も小さくないでしょう。

なぜなら、今日、多くの人が「私」の正体を、「脳」に見出しているからです。

脳こそ「私」である。でもそれは正しいのでしょうか?

一見、それは正しくみえる。
でも、こんな思考実験をしてみてはどうでしょう。

自分の脳を神経をつないだまま取り出して、自分で観察できるようにしたとします。この脳のどこが「私」なのか、脳の隅から隅まで観察して、「私」が見つかるものでしょうか?他人の脳ではありません。 今、現に動いている自分の脳を、自分で観察するのです。


どれだけ調べても、灰色のグニャグニャしたものしか見えず、拡大すれば無数の細胞が見えるだけで、さらに拡大すれば分子の運動しか見えないはずで、結局これが私と言えるものがどこかへ行ってしまいます。

仮にこれが「私」と言えるものが見つかったとして、「これが私だ!」と思ったあなたは誰?という哲学上の難問をかかえてしまいます。

私は常に「いま」「ここに」しかないはずなのに、客体化された「私」とは一体、何者なのだろうか。

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『歎異鈔をひらく』から3年3カ月

2011-06-17 18:31:34 | Weblog
「太平の眠りを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず」。幕末、ペリーが来航し、開国を迫った時に流行った狂歌だ。「上喜撰」は上等なお茶の名で、「蒸気船」とかけてある。4艘の黒船が、徳川三百年の眠りを覚ましたことを、お茶で眠れないのになぞらえている◆毎年、10冊以上出ていた『歎異抄』の解説書が、『歎異鈔をひらく』が出て3年3カ月、1冊も出なくなってしまった。従来の解釈が正しいのなら、『ひらく』はまさに異端の書。20万部を超える勢いで読まれているのに、なぜか自称・正統派の不可解な沈黙が続く◆八百年の伝統で押し切り、人々の関心が去るのを待っているのかもしれないが、英語版も出され、今や海外の真宗学者も注目している。権威といわれる某教授は、「真意が霧が晴れるように分かった」と『ひらく』に賛辞を惜しまない◆外国からの「どちらが『歎異抄』の真意?」の声はまさに黒船。外圧に震え上がった幕府のように、「本山の眠りを覚ます歎異抄 ひらくのために夜も眠れず」なのだろうか。
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死んだらどうなるのだろう

2011-06-13 12:59:03 | Weblog
死んだ後は有るのか無いのか
大事なことですが、理屈だけで納得させようとすると、
ややもすると戯論じみた方向へ話が流れます。

例えば、死後、生命は存続するとしても、現在の意識
はなくなるのだから、今の自分とはもう関係ないのでは
ないか、といった答えようのない話にもつれ込みます。

そうならないためには、

ものごとには必ず因果関係が成立していて、
人間の運命においては、善いことをすれば善い結果、
悪いことをすれば悪い結果、自分が自分の運命を決定して
いく、作っていくということを、繰り返し、繰り返し
納得するまで話すことだと思います。

今の結果から、なぜそうなったか、原因を突き詰められる。
今の原因から、未来の結果を推測できる。
こういうものの考え方を、日ごろから徹底していくこと
が大事ではないでしょうか。

その人が因果の道理を受け入れたその程度、程度に応じて、
死後はうっすら感じられてくる、心配になってくるものです。

死後については、有るとか、無いとかいう知識レベルの理解
より、死後が心配になる、不安に思う、ということが、死後
についての、より深い理解といえそうです。
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東日本大震災と人生観の訂正

2011-06-11 18:56:24 | Weblog
日本で恐らくいちばん読まれている月刊の文芸誌
『文芸春秋』7月号の特集が、「大研究 悔いな
き死」。その号の「編集だより」に、特集した理
由が書かれてあった。

「★東日本大震災で人生観が変わったという声を
聞きます。死はすぐそばにあり、突如としてやっ
てくる。死を覚悟すれば、人生は違って見える。
大研究『悔いなき死』を特集したゆえんです」

<死を覚悟すれば、人生は違って見える>
確かにそうなのだろう。
では、何がどう変わるのか、考えてみたい。

現代人の人生観は多様だといっても、その根底を
叩けば、「金」の信心。ではなかろうか?
「金で人生の問題の大半は解決する」
と言った作家もあるそうだが、幸福になるには
まずは金。金こそ幸福の元、と多くの人が、本音
のところ、信じているように思われる。
確かに金さえあれば、好きなものが何でも手に入
るのだから、金を幸福の元と思うのも、無理ない
話だろう。

だがよく考えると、それは明日もあさっても、来
年も再来年も生きておれるということが大前提に
なっていないか。

もし、その前提が崩れたら、どうなってしまう
だろう。つまり、あなたに死が宣告されたら?

まだ生きておれる、という大前提は、あっさり
崩れるものであることを、東日本大震災は、
日本人にまざまざと見せつけた。

大前提を崩す死が間近に迫り、後生を突きつけ
られれば誰だって金は幸福の元、やら、人生か
けて求むべきものだとは信じられなくなる。

さらにもう一つ。

年金がもらえるのやら、もらえないやら、
〃おひとりさま〃は、将来、誰が介護してくれるのか
そんな老後の不安がつきまとう現代人。
少しでも確かな老後を送れるよう対策に余念がない。
だが、その先の後生、つまり死んだらどうなるか、
についても全く分からないのに、それについては
なぜか考えない。それですましていられる人生観。

だが、死が間近に迫り、後生を突きつけられると、
いやでも心配になってくる。

「踏み迷う 知らぬ旅路の夕暮れに 宿のなき身の
心地こそすれ」で、先がハッキリしないのは誰でも
心細いのだ。

金さえあれば勝者と思い、他人を蹴落としてでも
獲得してきた財産が、いざ後生を突きつけられると、
何の力にもならないことがハッキリする。
それどころか、金を得るため随分、非道なことを
してきた者は、死んだらどうなるのか、と底知れ
ない不安に悩まされる。

釈尊が、
「大命将に終らんとして悔懼交々至る」
と説かれたとおりである。
臨終に人は、後悔の過去と、未来の恐れに
代わる代わる苦しめられる。


こうして人生観の訂正を迫られる。
東日本大震災で、変わったといわれる人生観は
まだ、その一端に過ぎないと思う。
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夕凪の街 桜の国

2011-06-03 19:52:27 | Weblog
表題は、こうの史代という漫画家の描いた、広島の原爆を
テーマに描いた漫画のタイトルです。
映画化もされたし、ご存知の方も多いと思います。
一昨年、初めて読んだ時も随分、感動しましたが、改めて
読み返し、わずか100ページほどの紙面の中に、よくこれ
だけのドラマを凝縮できたものと、感嘆せずにおれません
でした。

この作品の良さは、多くの人が書評に言い尽くしているので、
改めて書くまでもありません。アマゾンのレビューを見れば、
圧倒的多数の人が賞賛を寄せています。
普通、どんな優れた作品にも、妬みやそねみもあってか、酷評
がつきまとうものです。
大概の場合、自分の好き嫌いと、作品の良し悪しと履き違えた
批評に値しない批評(単なる悪口)がほとんどですが、この
作品に限っては、そんなお門違いの酷評すら見当たりませんで
した。

それは凄いことだと思います。

この本を貫いているのは、日々の生活を慈しみ、平和を願う
作者の強い、温かい思いです。普通はメッセージ性が強いほ
ど、読者に共感、反感の色分けができてしまうものですが、
この作品は圧倒的な共感のもと、きちんとメッセージを伝え
ています。

こういう作品に出遇えると、幸福な気持ちになります。

原爆関係者を取材すればするほど、ある感情が、つまり原爆
を落とした者への、あるいは無謀な戦争を指導した者への怒
りがふつふつとたぎってきます。
こうのさんも恐らくそうだったと思います。
でも、その怒りを生のままぶつけると、たとえ正しいことで
も、伝わらないことが多いものです。
それは、作者と読者の間には温度差があるからです。
同じ温度になるまで、読者を温めなければ、伝わるものも伝
わりません。

この本を読み、原爆をテーマにしながら、こういう表現の仕
方があったのか、と大変勉強になりました。



そしてこれは、親鸞聖人の本当のみ教えを明らかにしていく
上で、大切な点ではなかろうかと思います。
教えをねじ曲げる者への怒りが根底になければ始まりません
が、問題は、それをどう表すか、です。
それが心ある浄土真宗の人たちに伝わった時、このままでは
収まらないでしょう。真宗界は今、原爆が落ちた以上の大惨
事なのですから。



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心臓はどこに

2011-06-01 19:58:21 | Weblog
3手詰みくらいの詰め将棋なら、私でも盤面を見れば勝負の行方は分かるが、十何手以上の詰め将棋となると、盤上を見ただけでは分からない。でもそれは、私に分からないだけで、勝負自体の決着はついている。詰め将棋の玉はいかに威勢を張ろうと、すでに死んでいるのである。

「親鸞聖人のみ教えに善のすすめはあるか、ないか」という論争も、詰め将棋のごとく決着はついている。ただ、もっと駒を進めないと、一般の人には〃詰んだ〃ことが分かりにくいかもしれない。
だが詰まれた側は、その応援団も含め、詰まれたことさえ気づかぬらしく、威勢だけは随分とよろしい。

なぜかといえば、まず、この「問い」が理解されていない。

腕や足を切られてもまだ戦えるが、心臓を一突きされたら絶命する。戦いはそこで終りだ。
「親鸞聖人のみ教えに善のすすめはあるか、ないか」
この問いがそういう性質のものであると、果たして分かっているのか?どうも怪しい。彼らの発言を見る限り、数ある仏法論議の一つ程度にしか思っていない節がある。

その発言が、多くの人から本質をはぐらかす意図でされているなら、賢者とは思わぬが〃智者〃ではあろう。だが、どうも本気で分かっていないらしいのだ。それがあの威勢のよさの秘密と思われる。

そもそも「親鸞聖人のみ教えに」とあるのに、その親鸞聖人のみ教えが、何のため、何を解決するためにあるのか、それすら理解していないのだから、善のすすめがあろうが、なかろうが、あの人たちにとっては、本音の部分でどうでもいいに違いない。

そんな人たちを相手にする場合、心臓を一突きする前に、ここがあんたの心臓だよ、とよく分からせてから一突きしないといけないから大変である。そうしないと、いくら心臓を突いても、死んだことすら気づかず、いくらでも襲い掛かってくるからだ。

2007年に公開された『28週後...』という映画は、いわゆるゾンビもののパニック映画だった。この映画の特徴はゾンビが〃走る〃のである。
今までのゾンビと言えば「のろまな亀」というイメージで、走って逃げれば大丈夫だった。
この常識をひっくり返し、ゾンビが全速力で走ってくるのである。
子供の鬼ごっこのように必死で追ってくるのだ。
想像してみるだけで、異常で、怖いものを感じるだろう。

だが、それに近い現実が、私の周りでも起きている。

くわばらくわばら。
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法楽寄席 あげれば尊し

2010-11-03 19:01:11 | Weblog
世の中には随分ケチな方がございまして、とにかく出すとなったら舌出すのも嫌、袖から手を出すのも嫌。扇子を開いても、あおぐと傷むからというんで、首のほうを振ってたりします。でもそんなケチな方にこそ、布施の尊さを伝えたいものでございます。

熊「ああ旦那、今度、うちの町内で、仏法の先生をお招きすることになりまして」

旦那「ほう、仏法のお話。結構じゃないか。大いにおやり」

熊「そうじゃないんですよ。いろいろとかかるから、皆で懇志を出し合おうと」

旦那「私に出せってのかい?」

熊「ちょっと、そういう言い方はよしとくれませんか。仏さまのお話ですからね。出せじゃない。出させていただくものですよ。うーん、何と言うかなあ、大根の種をまけば大根、西瓜の種をまけば西瓜が出てくるでしょ」

旦那「そりゃそうだ」

熊「善い種まけば善い結果。幸せの種まけば、幸せになれるということですよ」

旦那「ほう結構だね。何だい、その幸せの種ってのは」

熊「そりゃ旦那、善い行為でさあ。お釈迦さまの説かれた六つの善の筆頭が布施、施しです。施せば施すほど善い結果、旦那の幸せになりますよ」

旦那「フン、施せば周りが幸せになるってのは分かるよ。でもそれがなんで私の幸せなんだ?話が変じゃないか。こっちはお金が減るんだよ」

熊「いやいや旦那、一時減るように見えるけど、後で倍になって返ってくるんですよ」

旦那「またまた、からかっちゃいけないよ。減ったものがどうして増える?」

熊「じゃあ旦那、お百姓さんが畑に種をまいてるのを見て、ああ勿体ない、畑なんかに種をやって……と思いますか?」

旦那「そりゃ思わないさ。畑にまいても作物が実れば、全部お百姓さんのものになるじゃないか」

熊「そう、そのとおり。施しの功徳は、全部施した人のものになるんですよ」

旦那「うまいこと言って、私に出させる魂胆だろう」

熊「だからそうじゃねえって。旦那のためを思って言ってんだい。幾ら貯め込んだって、死んでく時は手ぬぐい一本持って行けねえんですよ」

旦那「何だよ脅かす気かい。金を出さねば助からない。そういうことなんだな。そんな教えならゴメンだ」

熊「ちょっと待った。いつそんなこと言ったい、このわからず屋!よく聞きやがれ!因果の道理は宇宙の真理だ。善い種まく気のない奴に、幸せなんてくるもんか!旦那みたいなしみったれはね、貯めるだけ貯めて、だれからも愛されませんよ、不幸の見本みてえな人だ。先だっても奥さん病気だってのに、治療代惜しんで医者にもかからせねえ。奥さん泣いてたよ。あれでは行く末が心配だって」

旦那「行く末?ああ結構。地獄でもどこでも行ってやるわ。だけどこの金は渡せねえ」

熊「フン、そんな啖呵は閻魔に向かって切りやがれ!」

隠居「おいおい何ですか、大声張り上げて。表まで筒抜けじゃないか」

熊「あ、ご隠居さん、この旦那のケチぶりったらねえ」

隠居「まあまあ。売り言葉に買い言葉ということもある。落ち着きなさい……。ねえ旦那。布施をインドの言葉でダーナーと言ってな、旦那とはそのダーナーから来てるんだ。だからな、旦那とは快く施す人のことで、あんたもそうなりゃあ、奥さん泣いて喜ぶよ。情けは人のためならず。巡り巡って施した人がいちばん幸せになれるんだ」

旦那「うーん、ご隠居に言われるとそんな気もしてきたなあ。じゃあわずかだけどさせてもらおうか」

熊「なんだよ、それならそうと。あ、紙入れからいちばんよれたの出しやがって……」

隠居「これ、どんなお金だろうと、如来からのお預かりものだ。大切に受け取らせていただくんだよ」

熊「へい。でもあのケチな旦那がねえ、よく出来たねえ」

旦那「ん?欲で汚ねえだと?」
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法楽寄席 証拠より論

2010-10-25 11:16:23 | Weblog
 江戸っ子といえば宵越しの金を持たないと、昔から相場が決まっておりまして、後先考えず、気前よくお金を使うものですから、そのツケが大晦日にいっぺんに降りかかってまいります。こうなると払うほうも大変ですが、払わせるほうも大変で、年末は長屋のここかしこで虚々実々の駆け引きがあったりします。

大家「困った、困った」

熊「おや大家さん。家賃が集まらないんですか。ハチ公ですね、去年は親父さんが危篤、おととしは子供が事故、どっちもピンピンしてましたけどね。で今年は何て?」

大家「いや、もっと手ごわいのがいるんだよ、この間、越してきたお人だ。何でも最近救われたってえ話なんだ」

熊「救われた?あの人が?それで?」

大家「それがね、救われたからには大乗の菩薩だって、急に態度が大きくなるんだ」

熊「へえ大乗の菩薩?大丈夫ですかい、あの旦那」

大家「私もよく分からないからさ、とりあえず、家賃半年分お願いしますって手を合わせたんだ」

熊「手を合わせることないでしょ、滞納の菩薩に。で何て?」

大家「ここにはない。だがわが参る浄土へ来れば、七宝宮殿に金銀珠玉がうなるほどあるなんて言うんだよ」

熊「どうも怪しい」

大家「てまえどもでは、浄土までは往きかねますから、何とか今日中にって頼んだら、じゃあ今晩もう一度ここへ来い。大家にこっそり秘法を教えようなんて言うんだ」

熊「はあ?極楽往きの?」

大家「いや、秘法はいいから家賃を下さいって言うと、ああ仏縁がないというのはつくづく情けない。『縁無き衆生は度し難し』なんて散々小言聞かされて、追い出されちまったんだよ」

熊「ひでえや。救われたなんて、どうせ家賃踏み倒す口実なんでしょ」

大家「それがそうでもないんだ、あれは本物だって話だよ」

熊「ええっ、どこがホンモノなんで?」

大家「見た人がいるんだよ。ウンウン苦しがってたかと思ったら、突然風呂屋の煙突に登って『救われた!』と絶叫して、3回転宙返りをしたっていうんだ」

熊「バカと煙は高いとこへ行きたがるっていうじゃありませんか」

大家「でもね、30年求めても助からなかったが、近道があったって言うんだ。不可称不可説不可思議とはこのことか!ってたいそうな自信だよ。誰が何と言おうと、この体験に間違いねえ。論より証拠だって啖呵を切るんだ。あんなに断言するんだから、本物じゃないかって」

熊「その証拠は怪しいや。どだいあの人の断言は当てになりませんよ。明日は晴れる!と言えば雨が来るし、地震だ!と言えば自分の貧乏ゆすりだったし、何だって断言するからあの旦那、横丁の断言王子って言われてますよ」

大家「ハニカミ王子なら聞いたことあるがな」

熊「いずれにせよ大家さん、私はこうなった、ああなったって仏法使って自慢する奴にかかわるもんじゃありません。そういう連中の体験話みたいなもの、親鸞さまの書かれたものにありますか?」

大家「そりゃ風呂屋の煙突なんて話は出てこないだろうけど、余程すごい体験したからあの人もああ言うのだろう?」

熊「大家さん、その心が迷いの元だ。旦那に言っておやんなさい。どんな体験だろうと、三世十方を貫く、お聖教のお言葉と合致しなければ、二束三文だって。論より証拠の前に、証拠より論」

大家「おまえさんがそう言うなら頼もしいや。いっそ私の代わりに家賃を取りにいってくれないかい」

熊「いいですよ。家賃もらってきたら、今度一緒に仏法を聞きにいきましょう」

大家「そうだな。円無き衆生はこりごりだ」  
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法楽寄席 元の木阿弥

2010-10-22 18:21:05 | Weblog
世の中には、随分、意地っ張りといいますか、知らないことでも知ったかぶりする方がございます。
大概、どこの町内にもそんな方が一人はございまして、回りもそれをよく知っておりますから、ああ、また始まったなと思いながらも、その話に付き合ってその脱線ぶりを楽しんでいたりもするわけでございまして……。

うーん、どうも分からねえなあ。

おうハチ公、どうしたい。

おう熊さん。おまえ分かるか?せっかくいいところまでいった
のに台無しになるのを「元の木阿弥」っていうだろ。

ああ。

あれ何で元の木阿弥なんだ?

さあ、考えたこともなかったな。それなら向かいのご隠居に聞い
たらどうだい。何でも知ってるそうだから。

いや、あてにならねえな。あのご隠居、何でも知ったかぶりするから。

それが面白えのよ。一つ行ってみよう。



ご隠居さん、こんちわ。

ああ熊と八か。どうぞお入り。

早速なんですがご隠居、「元の木阿弥」なんてえ言いますが、ありゃ何で、元の木阿弥なんですかね?

なんだい出し抜けに。元の木阿弥?ああ、そのことか。悪いな、ちょっと用事を思い出したので。

ちょっとちょっと、待ってくださいよご隠居さん。そんな逃げなくっても。

だれが逃げるか。用事を思い出しただけじゃ。

本当ですかぁ?そんなこと言って本当はご隠居も分からないんじゃあ?

これ、馬鹿なことを言うな!わしには分かる。ただおまえたち愚者には理解できないというんだ。

そんな愚者ですか。少しぐらいは何とか……

愚者には無理だ。二人だからグシャグシャじゃな。

おお寒っ。いやいや、その愚者にも分かるように、どうか一つ聞かせてやっておくんなさい。

うーん、それじゃ仕方ない、聞かせてやろう。うーん、そうだな、頃は元禄太平の世、都に有名な仏師がいたんだ。

ほう、仏師?

仏師というのは仏像彫りのことだ。その仏師が、たまたま立ち寄った旅の僧から弥陀の本願を聞き、たいそう感激したそうだ。

ほう。

それで翌年の元旦、仏師は今年中に必ず阿弥陀さまの木像を彫ると誓ったんじゃ。

ふんふん、それで?

大変な意気込みだったから、京都から奈良から山じゅう歩き回って、素材には最高の銘木を探し当てた。それからというもの朝から晩まで、ノミを片手にコンコン、コンコン、雨の日も雪の日も。

ちょっと待ったご隠居。仏像彫りは家の中でやるもんでしょ。雨も雪も関係ないじゃありませんか?

うるさいね。それがあるんだよ。本当の名人ってもんはね、弟子は取らない、金目当ての仕事はしない。だからその仏師も金のことなんかこれっぽっちも頭にないんだ。だから住んでるところはボロボロのあばら家。屋根もはずれかかって雨漏りどころじゃない、直撃だ。
雪でも降ろうもんなら、子供たちが家の中で雪合戦したという。

本当ですかぁ?どうもご隠居の言うことは極端で。

黙れ。愚者は口をはさむな。やがて年も暮れ、完成も間近。最後のひと仕上げという時に旅の僧がふらりと来た。

また旅の僧ですか?都合のいい時に出てきますね。それで?

その僧が言ったね。「仏師よ、精が出るのう。だが真宗の正しい御本尊は御名号なのだぞ。ほれ、これを見よ」と言って懐から差し出したのが、蓮如さまのお言葉だ。

ふんふん。

「他流には名号よりは絵像、絵像よりは木像というなり。当流には木像よりは絵像、絵像よりは名号というなり」。木像は他流だ!ズバッときたね、ズバッと。

そりゃあ仏師は困ったでしょう。

ああ困ったのなんのって、「そうであったか、そうであったか」と叫んだかと思うと、飛び上がって三回転宙返りだ。

仏師が何でそんなことするんですか?

よほどショックだったんだろうな。以来、すっかり寝込んじまった。

かわいそうに。

でも、ここからが仏師の偉いところよ。丹精込めて作ったものではあるが、教えに反しては意味がない、さあ燃やしておくれ、さあ、と弟子に言って焼却したんだ。

あれっ弟子は取らねえんじゃ。

いちいち突っかかるね。なにしろこれほどの仏師だ。弟子はいらん、といくら言っても、そこを弟子にして下さいという若いモンが後を絶たないんだよ。親衛隊みたいのがいっぱいいたんだな。

なるほどねえ。

仏像は粗末にならぬよう丁重に、言いつけどおり火中に投じられたが、周りからは惜しむ声が上がったね。「木像の阿弥陀さまではだめなのか。名人の苦労も水の泡だぁ……」。そこから元の木阿弥と。

ええっ、今の解説だったんですか。あんまり長いから、別の話をしているのかと思いましたよ。木像の阿弥陀さまで、木阿弥かあ。なるほど、でもご隠居、「元の」とはなんですか?

元の?……。元のとは、まあそんな細かいことは愚者は気にせんでもよい。

いや、愚者でも気になりますよ。何なんですかい?「元の」ってのは。

元のとは……、えー、元のとはだな

ええ、だから「元の」はどうしたってんで?

そうだ、仏師の家は真宗だろ?真宗だから「門徒」よ。門徒の木阿弥がなまって「元の木阿弥」さ

ホントですかあ?




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完成があるってホンマ?

2010-10-21 22:36:34 | Weblog
ある夫婦の会話Part3(■は夫、●は妻)

■えっ!人生の目的に完成がある!そんなアホな。学問、芸術、囲碁や将棋、剣道、柔道、書道に茶道。何の道かて卒業も完成もあらへんで。あの剣聖・宮本武蔵かて『五輪書』に、わしの剣はまだまだ未熟や言うとるやん。それをおまえが完成?何かおこがましくないか?

●違うわ。よー聞いて。親鸞聖人の説かれた人生の目的に、完成があると言うたんよ。あんたの言うたんは人生の目的やなくて、趣味、生きがいや。そんなんは皆「死ぬまで求道」よ。

■それがどないしたっちゅーねん。死ぬまで求道。カッコええがな。

●完成のないもんを求めるゆうのは、百パーセント求まらんものを求めるってことよ。ホンマにカッコええのん?

■ええがな。

●それは毎日狸の宝くじを買うてくるようなもんや。

■??おまえの話は急に飛ぶからついていかれへん。何で狸やねん。

●よう聞いて。「た抜き」や。宝くじから「た」を抜いてみて。

■ハァ?……あ!カラくじ。それで狸の宝くじか。山田くーん、座布団一枚あげて。

●いらんわ。大喜利やってるんやないで。つまり絶対求まらんもんを求めるなんて、できへんちゅうことや。

■そりゃそうやな。当たる可能性を信じて皆買いに行くんや。空クジだけやと知ったらだれも買わへんなあ。

●それでも一生買い続けるとしたらどう?

■そりゃ永久に報われん苦労やから、苦しいだけや。

●でしょ。そやから「死ぬまで求道」ゆうのは求まらん苦しみの連続なんよ。家康の言うように「重荷背負うて遠き道を行く」ことになる。人間に生まれてよかった!という喜びも満足もないんよ。

■うーん、そりゃきついわ。でも人生の目的達成したら、何もすることがなくなって、つまらんのやないか?

●達成もしとらんと、余計な心配せんとって。学校でも「卒業したら、何もせんでええから、遊びなさい」と言う教師がおる?おらんでしょ。卒業してからが大活躍やん。人生の目的も一緒。達成してから大活躍が始まるねん。見て、親鸞聖人や蓮如上人のあの頼もしいご生涯を。

■そうか!やっぱり人生の目的に、完成がないとあかんねんな。よっしゃオレも。
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