お二人さまの老後

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大田区文化財ウオークで川端龍子の豪快な日本画に感動

2018-01-30 22:06:13 | 日記・エッセイ・コラム

 1月27日(土)に大田区の文化財を訪ねるウオークに参加しました。

 山酔会の運営委員でもあるG氏が「登山はやがて体力的に登れなくなる時が来る。東京23区にはたくさんの文化財があるのでそれを訪ね歩こう」と企画をして下さって3年前から参加しています。

大田区は羽田空港に行くとき通過する蒲田や人工衛星などの科学技術を大田区の町工場が支えているなどの知識しかありませんでしたが、今回は山の手の馬込辺りを歩くようです。大田区南馬込は甥のK君夫妻が最近新居を構えたところでもあり、ネットで地図を調べると近くを歩くようだと分かり、興味深く参加しました。

 JR大森駅に9時45分までに集合。参加者は16名でした。

 馬込には尾崎士郎や宇野千代・川端康成などの文士が多く住んでいた馬込文士村があったようで、最初にそのあたりを訪ねました。天祖神社の石垣に文士たちの銅板レリーフが沢山飾ってありました。

 古くに開けた住宅街らしく、道路は狭く家が建て込んでいて、5日前に降った雪がたくさん残っていました。

 坂道が多いと甥が言っていたのでトレッキングシューズを履いてきたのが正解でした。

 マンション?の一角にある山王会館が馬込文士村の資料室になっています。

  

 次に「龍子記念館」を訪ねました。名作展「鳥獣百科ー龍子の描いた生きものたち」を開催していました。

 川端龍子(1885-1966)は明治18年生まれ。「初めは洋画を学んだがボストン美術館で日本美術を見て感動し日本画に転向。従来の花鳥の枠を超えて、ダイナミックな構図と豪放な筆さばきで、大画面の作品を描いた画家として知られている」そうです。文化勲章を受章していて、それまで日本画は個人の家に飾られるだけで多くの人が目にすることが無かったので、自ら展示できる建物を作った。それが記念館になっていて今は大田区立になっています。写真撮影はできないのでパンフレットの写真を載せますが。龍・象・猿・犬などの生き生きした姿が描かれていて素晴らしかったです。たくさんの作品を一度に鑑賞できたので川端龍子の業績を実感できました。

               

 記念館と隣接して龍子の旧宅・アトリエと庭園があり、スタッフが説明しながら案内してくれました。

  

 次に馬込桜並木通りを歩いて「熊谷恒子記念館」に向かいました。桜が老木で、長い歴史のある街であることが分かります。花の咲く時期にもう一度訪れてみたいと思いました。

    

 熊谷恒子は昭和期に活躍したかなの書家で、人生のほとんどを南馬込にある自邸で過ごしその自邸が大田区立の記念館になっています。品の良いかな書きの作品や写真が展示されていました。92歳で亡くなるまで凛としたたたずまいの女性だったようで、記念館の入り口に銅像がありました。

  

 この後、坂を上ってバス通りにあるインド料理店で昼食になり、G氏が注文しておいてくださったデリーセットを頂きました。サラダとカレーが2種類・鶏肉・サフランご飯などと大きなナンがのっています。インド料理は初めてで、最後に出たお茶もとても美味しかったです。

  

 ナンが大きくて食べきれず包んでいただいて持ち帰りました。

 ここで甥にラインで連絡すると家はすぐ近くのようでした。

 次に大田区立郷土博物館に行きました。バス通りを少し北に向かったところを左折し下るとすぐでした。

 特別展「堀越保二 野鳥と自然を見つめて」が開催されていました。大田区のパンフレット「馬込芸術さんぽ」によると「東京芸術大学名誉教授で日本画家の堀越保二氏は大森に生まれ海辺の町で少年時代を過ごした。画家として歩みを始めた時期に埋め立て地で起きた環境変化と飛来する野鳥との関係を観察する機会を得て、大森の海辺の変化に着想を得た浪漫的な超現実の作風により美術界に知られる存在となった」とありました。

 豪快な川端龍子の日本画と対照的な堀越保二氏の繊細な日本画は訴えるものを感じさせるものでした。

 この後、京浜第二国道に面した池上梅園に向かいました。この所の寒さで白梅は咲いていましたが紅梅はこれからのようです。

  

 池上梅園は日本画家伊東深水邸宅を大田区に移管したものだそうです。

 この後、池上本門寺に向かいました。本堂の天井絵は川端龍子が描いた龍の絵で、未完成のまま龍子は亡くなってしまったのですが、本門寺が了承し弟子が目を入れて収めたと龍子記念館のスタッフが話していました。

       

 池上本門寺には数多く有名人のお墓があるようですが、力道山と大野伴朴のお墓を見学しました。

 大田区ウオークは3時半頃ここで終わり、池上線の池上まで歩いて解散になりました。歩いた距離は15,000歩ほど。疲れましたが、何回か下見をして案内してくださるG氏のお蔭でとても充実した大田区ウオークでした。

 最近、南馬込に新居を構えた甥のK君にも感動を伝え、パンフレットのコピーを送り、見学を勧めました。

 


平成三十年の初釜

2018-01-16 11:48:42 | 日記・エッセイ・コラム

 1月7日(土)9時半から初釜を行いました。皆さんがお仕事などで忙しくなる前に日を設定しました。

 今回は皆さんの復習にもなるように、詳しく初釜の様子を解説します。

 初釜の設えは華やかです。寄付きには前家元・即中斎宗匠の扇面「福寿」と干支の戌の香合、備前の舟徳利にNさんから頂いた蝋梅をいれました。 

 床の掛物は円覚寺前管長・円覚慈雲老師の「蓬莱五彩雲」。竹の掛花入れに結び柳と紅白の椿を入れて床の間の右上奥に掛けます。柳はおめでたいものとされ一枝を輪にして初日の出を表現しますが、いつも求める花屋さんによると昨年は台風で良い柳が無いとのことで、今年は貧相なものになってしまいました。

 炉縁は輪島塗の扇面の蒔絵、棚は紹鴎棚にブリブリの香合と犬鷲の羽を棚の上右三分の一に飾っておきます。

 ブリブリとは昔宮中で子どもが引きずって遊んだというおもちゃを象ったもので、木製で金色の地に松竹梅や鶴亀などのおめでたい蒔絵が施されています。これはY先生から拝借したものです。

 お客は正客から順に入り口で一礼して席入りし、最初に床の間の前に進み、扇子を膝前に置いて一礼し、掛物や花を拝見します。

 次に炉の前に進み(畳は一畳を6歩で歩きます)、炉縁とお釜を拝見します。

 さらに棚の方に身体を向け、お棚と棚の上に飾ってある香合などを拝見し、席に着きます。

 お客が座る畳には毛氈が敷いてあります。

     

  全員が着座すると茶道口に控えていた亭主は障子を開け、席ににじって入り、客と新年の挨拶をかわします。

  その後、最初に炭点前をします。炭点前は美味しい濃茶を点てるために大事な点前です。

  ここからの炭点前はAさんにお稽古していただきました。

  初釜の炭斗は檜製の「炭台」を用い、奉書を敷いて炭が組んであります。これも初釜独特のものです。

 炭の大きさや形は決まりがあり、並べ方も決まりがあります。

    

 炭台と灰器を運んだら、炉に向かい、羽で炉縁を浄めてから、濡れ灰を撒きます。

 濡れ灰は、篩った炉の灰を夏の間に抹茶を溶かした湯に浸し、自然に程よく乾かして、11月の立冬後に行う炉開きの直前に篩で篩って準備します。篩った灰は密閉して乾かないように保存しておきます。

 濡れ灰を撒いたら、また炉縁や五徳を羽で浄めてから、炭を注ぎます。

 炭は湯が濃茶を点てる直前に頃よく沸くように入れなければなりません。それから香を焚きます。

 お香は現家元・而妙斎宗匠お好みの「松柏」です。香を焚き終わると正客は「お香合の拝見を」と乞います。

 左下の写真はお香を入れているところ、右下の写真は客が香合を拝見しているところです。

     

 本来なら炭点前が終わると懐石が供され、懐石を頂いている間に炭が起こって湯が沸き、美味しい濃茶が点てられるというわけなのですが、我が家では初釜を終わらせてから、近くの「かくれ家 わたなべ」で懐石を頂くことにしていますので、釜には沸かした湯が入れてあり、続いて濃茶点前をNさんにしていただきました。

 茶入れは薩摩焼第15代沈壽官作の黒薩摩を使いました。

 茶碗は初釜の濃茶では内側が銀色の赤楽茶碗に、内側が金色の赤楽茶碗を重ねて(嶋台といいます)を使います。金色の茶碗の高台は五角形、銀色の茶碗の高台は六角形の亀甲になっています。 

 濃茶のお菓子は干支の戌を象ったものにしました。お菓子を入れる喰籠は初釜では縁高を用います。写真のように面取りした四角い重箱を3段重ねにし(人数の多い時は5段重ねも用います)、正客用のお菓子を一番下に一つだけ入れ、今回の場合はお客が6人なので2段目に2個、一番上に3個入れ、蓋をしてその上に黒文字を人数分のせて供します。正客は縁高の上2段を持ちあげて、一番下の縁高にお菓子が一つ入っていることを確認し、黒文字を1本縁高手前に入れ、上の2段を黒文字ののった蓋と共に次客に回します。次客は同じく2段目の縁高に入っているお菓子の数を確認し、お菓子の数と同じ本数の黒文字を取って中に入れ、上の縁高を三客に回します。三客は取り次いで四客に縁高を回します。

  

 今回は金の茶椀で二人分、銀の茶碗で4人分点てて頂きました。濃茶を全員頂いた後には茶碗と出し帛紗を拝見に回し、最後に茶入れ・茶杓・仕覆も拝見します。拝見にも作法があります。

 茶杓は大徳寺の喝堂作「千年翠」、茶入れの仕覆は「二重蔓牡丹金襴」でした。

  

 濃茶の後は、干菓子が出され、薄茶を点てます。お干菓子はNさんが「霜柱」と「吹き寄せ」をお年賀に持ってきていただきました。霜柱は仙台のお菓子で口に入れるとサクっと溶ける上品なお菓子でなかなか手に入れることができません。横浜のデパートでタイミングよく手に入れてくださいました。

 今回はIさんに萩焼の新兵衛さんの筒茶碗(即中斎お箱書きで銘が寿山)で、絞り茶巾のお点前してもらいました。筒茶碗の絞り茶巾の点前は12月から1月の寒い時期にお茶が冷めないようにするための点前です。

 人数が多いので替え茶碗の紅梅白梅の絵の茶碗と交互に点てていただき、後半はM.Aさんにお点前を替わっていただいて全員が薄茶をいただけるようにしました。

       

  

 薄茶の後にはお薄器と茶杓を拝見します。棗は溜塗で蓋の裏に蒔絵のある「柳に舟」(上右の写真)でした。

  初釜を終え、急いで炭の始末と釜の始末をしてから「かくれ家 わたなべ」に向かいました。

 わたなべの懐石料理は期待以上の初釜らしい季節感あふれる美味しいお料理でした。以下の写真はその一部です。下左は海老しんじょうの煮物椀、右は八寸で羽子板の形をしたエビのお寿司に追羽根がのっています。サツマイモは戌の形の飴炊きです。

  

  

    

 2時間近く談笑しながら、懐石料理に舌鼓を打ちました。

 平成三十年の初釜は、残念ながらSさんはご家庭の都合で昨年に引き続き参加できなかったのですが、天候にも恵まれ、とても和やかな初釜でした。

 


平成三十年の初日の出を見に江の島へ

2018-01-03 17:36:08 | 日記・エッセイ・コラム

 元旦に初日の出を見に江の島に出かけました。6時頃目が覚めて窓から空を見ると快晴のようなので、急に思い立って夫を誘い、6時半過ぎに出かけました。

 境川べりを急ぎ足で歩いて江の島への地下道を下り上っていくと橋上にも東浜にもすでに大勢の人が集まって初日の出の瞬間を見ようと東の空を眺めていました。

 橋の手前の元神奈川県知事長洲一二氏の揮ごうした「潮音」の石碑がある日時計のあたりで石垣の上に登って初日の出を眺めました。橋はぎっしりと車と人で塞がっています。

      

 西には朝日を浴びた茜色の富士山が見えます。

  

 みな初日の出の後は富士山を眺めていて、若い女性の二人連れが「シャッターを押しましょうか?」と声をかけてくれました。それで撮っていただいた写真です。

     

 浜辺に犬を連れた人がいて、ボールを海に投げると犬が泳いで行って咥えて戻ってくることを繰り返していて、寒い海なので「可哀そう!」の声も上がっていました。

    

 江の島神社に上がっていくと参拝客で石段はぎっしり埋まっているので、辺津宮は諦め児玉神社の下を通って奥津宮を目指しました。

 中津宮展望台から眺めたヨットハーバーです。

 奥津宮に行くにはコッキング苑まで上り、また石段を下ってさらに山二つを下りてから、再び石段を上がらないと辿り着けません。

   

 ですから奥津宮まで足を延ばす人は少なく、ほとんど待たずにお参りができました。

 健康を祈願し手を合わせ、犬の絵馬が付いた鏑矢を頂きました。

    

 帰りも同じ道を戻り、大漁旗や吹き流しの正月飾りがされているK丸を撮ろうとすると丁度ご主人が見えていました。初漁は4日に網を設置し5日に引き上げるとのことです。

          

 早起きして、初日の出や初富士を眺められた上に、初詣ができたのでとても気持ちの良い元旦でした。

 帰宅は8時半を回っていて、すでに年賀状が届けられていました。