波乱の海をぶじ目的地へ

現世は激しく変動しています。何があるか判りませんが、どうあろうと、そんな日々を貧しい言葉でなりと綴っていけたらと思います

おトト

2012-07-17 09:37:06 | 掌編小説

  
 ☆[おトト]  


「おトト、おトト」
 池のほとりを母と一緒に歩いていた幼児が、池の中から岸に上がってきた鴨の親子を指差していった。
「あら、おトトねえ」
 と若い母親はうべなってはみたものの、頭からは子供の主張に同調し得ないものを感じていた。そろそろ魚と鳥の区別はつけさせなければと考えたのである。
 広辞苑にも、(トト=魚、鳥を示す幼児語)とあるくらいだから、子供がそう呼んだからといって差し支えないが、鳥と魚は違うのである。
 いつか誰かが、水の中を泳いでいる魚をさして、あれがおトトよ、といっていたのを覚えてしまったのかもしれない。それとも幼児向けのテレビで見たのか。あるいは祖母に連れられて行って、覚えたものだろうか。
 この三歳児は、水の中にいるものはみんなおトトであり、そこから岸に上がってきたものだから、鴨の親子をいささかの疑いもなく、ごく自然に、そう叫んだのである。けだし、水中と陸はかように連続しているものなのだ。
生命が海から陸へと進出して行ったという歴史を裏付けるものなのだろう。幼児の目には、その移行は、なんら抵抗なく受け入れられるものだった。
 とはいうものの、この若い母親には、わが子におトトと呼ばせたくない別のわけがあった。それは彼女自身も認めたくないほど深くしまいこまれてはいたが、時に、隠せば隠すほど表面に浮き出てくることがあった。
 それはトトにはもうひとつ、幼児語で「父」という意味があったことだ。
 鴨の親は十匹近い子鴨がすべて水から上がってしまうと、草のない広場を横切って、向こう側の繁みの方へと渡りはじめた。
 よちよちと、歩きはじめの人の子の足並みそっくりに、子鴨たちは初夏の日の下に歩みを進める。幼児はそれをおトト、おトトと、はしゃぎながら追いかける。
「子鴨ちゃんはいくついるの? 数えてごらん」
 若い母親はおトトとはいわず、子鴨という新しいことばを遣った。子供はもどかしげに、指を一本一本開いていく。
「ひとつ、ふたちゅ、みっちゅ、……」
 五本の指を開ききっても、なお子鴨の行列はつづいている。さて、どうしたらいいのか。まだ、一度開いた指を折り返していく数え方は習得していない。先ほどおトトと叫んだときの、母親の浮かぬ顔もまだ残っていた。それに加えて、数え切れない数字の裏切り。幼児は二つながら襲ってきた理不尽なものに、たまらず泣き出してしまった。
 池の周囲には、旅人らしき風情の人も何人か寄っていた。ひとり外国の旅人が混じっていて、子鴨と幼児の取り合わせが面白かったのか、カメラを向けていた。よちよち子鴨を追いかける仕種から、指を開いて数えるところ。そして大きく口を開けて泣き出したところまで、すっかりカメラの被写体となった。
「ちょっとスイマセンですが、写真を撮らせていただけませんか。お子さんとお母さんが並んだところを一枚」
 長身の外国人は、アクセントこそ外国のものだが、しっかりした日本の言葉でそういった。
 幼児はもう泣いていなかった。外国人の出現で、鴨ではなく自分がカメラの主役として迎え入れられていると知って機嫌を直していたのだ。
 若い母親はちょっと躊躇って、外国人の風貌から底意はないと察すると、夏帽子のひさしを心もち押さえて直すと、子供の横に立ってカメラの方を向いた。外国人はこの機会を見逃すまいと、角度を変えて何枚か撮った。
「あの」
 外国人は額に皺を寄せて、広場の傍らに立つ土産物店を指差していった。「あそこのお土産の店に、出来上がった写真を届けておきますので、よろしければお名前だけ教えてください」
 母親は戸惑っていたが、やはり底意はないと見て、
「三木です」
 といった。
「みきさん」
 外国人は確認して、手帳にひらがなで「みき」と書いた。「二、三日中に届けておきます。寄ってみてください」
 そういって子供の頭を一つ撫でると、ほかの被写体を探して立ち去った。
 しかし遠く離れていったわけではなく、同じ池に浮かぶ鴨たちや、水面に投げかけるしだれ柳の黄緑のかげなどを追いかけていた。赤ら顔なのは日焼けなのだろう。異国の風景を探して旅をしている感じだった。カメラマンルックが決まっていたが、プロの写真家というよりは、旅人といった印象だった。


 そのときの幼児が、今池の周囲をさまよっていた。外国人の手による一枚の写真を手がかりに、同じ風景の下に立っていた。
 三十年の時の経過があった。母はもういなかった。一枚の写真を前に、幾度も語って聞かされた幼い頃の記憶が、夏の雲のように湧き上がってきていた。
 写真に鴨は入っていないが、現在池にいる鴨に目を移すと、容易にそのときの情景が浮かんできた。
 彼がここに佇むのはいまが初めてではない。幾度か足を運んでいる。母ひとり、子ひとりで育った彼には、母との想い出は大切なものだった。その中に身をおくことで、母がどこかから語りかけてくる気もするのである。
 今、目の前の池では、鴨の鳴声が賑やかだった。観光客が投げ与えるポップコーンに、群がって寄ってきているのだ。
 と、鴨たちが岸近くよって静かになった池の中心を、スーッと一本の連鎖となって、鴨の親子が滑ってきた。母鴨はためらわず岸に上がると、子鴨たちがそれにつづいて、岸に這い上がっていく。他の大きな鴨たちが、餌の争奪戦をしているうちに、こっそりこの池を脱出して行こうとしている。
 鴨の親子は岸にまとまると、一列になって広場を横切りはじめた。それを見つけて、観光客がこちらへ寄ってくる。あるいは、鴨の親子は人間の目が他の鴨たちに向かっているうちに、移動しようとしていたのかもしれない。
 明らかに鴨の親は焦っていた。尾羽を子らをせかせるように振って、広場を横切って走った。子鴨たちはその後をけんめいに追う。
「あなたは鴨の親子のあとを、子鴨ちゃん、子鴨ちゃんって叫んで追いかけたのよ」
 と母は語ったものだ。実際はおトト、おトトと追いかけたのだが、母はそうは言わなかった。彼も覚えていなかった。
 三十年後の彼は追いかけなかった。携帯を向けることもしなかった。かつてもそうだったにちがいない打ち解けなさを、今ははっきり、不如意なものと封印して立っていた。                  了



     ☆