波乱の海をぶじ目的地へ

現世は激しく変動しています。何があるか判りませんが、どうあろうと、そんな日々を貧しい言葉でなりと綴っていけたらと思います

廃線

2015-06-18 20:17:36 | 掌編小説



◇廃線


廃線になっても

取り外すことのなかった鉄路が

草の中にところどころ

水をたたえるように光っている

その水を飲むように

狐が来ている

鼻面が触れれば熱いから

朽ちかけた枕木の間に

餌になる小動物を探すだけだ

廃線を訪れた私を

狐は懐かしがるように

しげしげと見る

私が一歩踏み出すと

狐は見事に180度の転換をして

向こう向きになり

振り返りながら遠ざかっていく

私が足を止めると

狐は体を横向きにして

こちらを窺っている

私が歩むと狐はまた

振り返りながら遠ざかる

背で誘いかける女のようだ

あの女はどうしただろう

唐突にそう思い

その思いを打ち消そうとして

頭を振った

場末の酒場の女で

もうこの世にはいなかったのだ


   ◇

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望遠鏡

2015-06-11 01:15:46 | 掌編小説


☆ 望遠鏡


 孫の望遠鏡を持ち出して、海を見ていた祖母が言った。
 ~~傷ついた鴎が、片方の翼を立てて、苦しがっている~~
 孫が祖母から、望遠鏡をひったくるようにして確かめると、ヨットが白い帆をへんぽんとひるがえして、快さそうに海面を滑っている。 
 この望遠鏡は、祖母に買ってもらったものだというのに、孫は情けなくなった。飛んでいる鴎はいないかと、視界を空に移した。
 折よく、海の上を飛翔する一羽の鴎を発見して、
 ~~おばあちゃん その鴎は今、空に飛び上がったよ~~
 と言って、望遠鏡を祖母に渡した。
 ~~カツオ よーく見んかい あれは飛行機じゃんか~~
 孫が望遠鏡を覗くと、確かに一機が、空に浮かんで白く輝いている。音はまったくなく、月のように空に浮かんでいる。 

               おわり


     ☆

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触ってごらん おとなしいから

2015-05-18 23:50:24 | 掌編小説



★触ってごらん おとなしいから。


 夕方の商店街を、母親と五歳のマコトが手を繋いで歩いて行く。
鮨屋の前にさしかかると、マコトははっと身をこわばらせて母親に抱きついた。
 鮨屋の店先には、大きなセントバーナードがロープに繋がれてお坐りし、真っ直ぐマコトを見詰めていた。
 母親も一瞬身を竦めたが、すぐ置物の犬と気づいて、
「おばかさんねえ、あれはただの置物の犬なのよ」
 とマコトを振り放して犬の傍に寄り、頭を撫ぜてやる。
「ほれ、撫で撫でしてみなさい、何もしないから。駄目でしょう、来年は小学生だっていうのに」
 いかにも親しみ深く犬を撫でつける母親を見ると、マコトは安心して犬に近づき、おずおずと手を出す。なるほど頭はつるつるして硬く、生きものの血が通ってはいなかった。
 母親はマコトの手を取って、家路を急いだ。
 マコトは犬に心惹かれて、振り返りながら遠ざかって行った。

二、三日して母親とマコトは別な商店街を歩いていた。
 眼鏡店の前に、置物のコリー犬が澄ましてお坐りをしていた。
マコトはとっさに後込みし、呼吸を整えてから二歩三歩と踏み出して行った。それでも、すぐ頭を撫でるまではいかなかった。
「触ってご覧、おとなしいから」
 言われて、すごすごと手を伸ばす。コリー犬は撫でられるままに、頭に力を溜めていた。それが嬉しがっているようにも見えた。
「そろそろ帰るわよ」
 母親に言われるまで、マコトは犬を撫で続けていた。

 あくる日、マコトは母親の目を盗んで、独りで犬を探しに出かけた。よく母親と行く商店街を経巡っているうちに、風変わりな黒い犬に出くわした。お坐りしているのではなく、四足を地面について、一箇所を鋭い目で睨んでいる。その格好たるや、グロテスクで頑健そのもの。
 マコトは四足で立つ置物の犬は初めてなので、気が気でない。しかも相手はいかつい貌つきのブルドックなのだ。犬はマコトなどまるで眼中にないかのように、斜め向こうの建物の陰のほうへ目を注いでいた。
 犬の背中にそっと手をおくと、激しく皮膚が痙攣した。これにはマコトのほうがびっくり仰天。あまりのことに彼は手を放すのも忘れていた。
 犬は凄まじく唸ってマコトの手を咬みにきた。牙が柔らかな肉に食込み、彼は声も出なかった。
 犬の口から手をもぎ取ると、マコトは商店街を帰路とは逆の方向へ狂ったように駆け出した。
 喚き声に道行く人々が振り返ったときには、すでに子どもの姿はなく、路地から路地へと平衡感覚を失った生き物となって走り込んで行った。


                   了


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応酬

2015-05-16 18:08:49 | 掌編小説



★応酬



農家の庭木で鶯が鳴いた。
負けずに雄鶏が鳴いた。
鶯は首をかしげて黙った。
麓の村から時々湧き上がる鳥の声を、うるさいと思っていたが、
その鶏はここにいたのか。
鶯はぶつぶつ言いながら山へ帰った。
自分のとった行為が、敗北なのか、幻滅なのか、
考えていた。
人は敗北ととるだろうが、本当は幻滅さ。
そう呟いて、木の葉に降りた露で喉を潤すと、鶯は美声を張り上げて
歌い出した。その声が届いたとも思えないのに、麓の村から返礼のように、
  コケコッコー
と雄鶏の声が返してきた。


       おわり
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雪解川

2015-05-15 21:22:11 | 掌編小説
★雪解川


 一年前のちょうど今頃だった。
 雪解けと大雨で増水した川を、丸太にのった猫が流されてきた。
 その猫をKは、丸太からもぎ取って助けた。一瞬の出来事だった。あと一秒遅かったら、猫は流れ去っていた。
 猫は必死にKの腕に捕まって、家に来るまで離れなかった

 その猫は現在、三匹の子猫の親になっている。子供にいのちの恩人だと教えているらしく、Kが帰宅するとき、三匹と母猫は、そろって玄関に迎えに来ている。
 鍵を回す音を聞いているらしく、Kがドアを開けるなり、いっせいに四匹の緊張が崩れて、花開くのだ。
 玄関からリビングに来る間は、Kと四匹の行進になっている。先を進むKを抜かせば、親が先頭で、大きさの順に子猫がつづいている。
 四匹とも、挙げた尻尾の先がカギ型になっている。そこをひくつかせて、行進曲のリズムをとっている。アレは、たぶん、四拍子だろう。

                 おわり







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陽炎

2015-05-11 15:56:07 | 掌編小説



◇陽炎


 別れ際ホームに陽炎立つばかり



 地元の高校を卒業した娘は、田舎の駅から父に送られて上京した。

 父はホームに立っていた。ホームには、父の他に誰もいなかった。陽炎が立ち、

父の姿さえぼかしていた。

 後になって,娘は自分の旅立ちの日を想い出すにつけ、あのとき父はホームにいなか

ったのではないかと考えるようになった。それほど父の影は薄くなっていた。

 娘に辛い思いをさせたくないから、姿を消していたのではないかと,勘ぐったりもした。

実際父は、間もなく他界してしまい、ホームでの別れが、父との最後になった。

 おしまいなら、よけいしっかり記憶に留めておきたいのに、そうならないのが、

娘はもどかしく、辛かった。
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その一歩千の蛙を黙らせる

2015-05-04 12:41:00 | 掌編小説



☆その一歩千の蛙を黙らせる



 少年が畦道に一歩を踏み出すと、千匹の蛙が黙った。時には一万の蛙が黙った。

 自分の力を信じて成長した彼は、都会に出て働くようになった。

 しかし都会では、田舎で培った彼の力など無いに等しかった。

 彼は都会に失望し、田舎に帰ると、子供たちを集めて、太鼓を叩く指導をした。彼の指揮の下

に太鼓叩きの精鋭が誕生した。

 今その一行は、名を轟かせて世界を回っている。ただアフリカの太鼓の前では、敵いそうもな

く、共演の形を取っている。

                 おわり









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入り江

2015-05-02 14:34:00 | 掌編小説



☆入江



 眼下の入江では、一頭のバンドウイルカが昼の月を捉えようとして、海中から跳ね上がってい

る。

「どうして、あんなことをしているのかしら?」

 崖上に立って見下ろしている連れの女が言った。

「僕たちに芸当を見せようとしているんだよ。イルカってそういう生き物なんだ」

「でも野生のイルカが、どこで芸を覚えたっていうのよ」

「海に接したシーワールドでは、イルカの訓練をしているからね。海から見ていて覚えたんだろ

う。観客が喜ぶのを見て、自分もしてみようとしたんだよ」

「あの昼の月が、ボールの代りってわけ?」

「ああ、永遠に届かないんだから、手応えは観客の僕たちの反応だけだ」

 女が揺さぶられたように、崖の際まで進み、拍手をし、黄色い声で叫ぶ。

「イルカさーん、素敵よ!」

 バンドウイルカの動きに、明らかな変化が見え、白い腹を見せて宙返りを打った。それっき

り、出てこなかったが、七、八分もして二人が岬を離れようとしたとき、凄まじい勢いで突

進し、これまでの十倍も飛び上がって月を手に入れてしまった。 

                              了


   ☆




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つくしんぼう

2015-04-21 17:43:42 | 掌編小説



◇つくしんぼう



 三太は小学校最後の春の遠足に出かけて、丘の上に三本の土筆を見つけた。
 はしゃいでいると、担任の先生がやって来て、
「三太が三本のツクシとは、いい記念になるな。ツクシというのは、土の筆と書くんだ。頭のところがひょこんとふくらんでいて、筆みたいだろう」
 と教えてくれた。
 三太はツクシを摘み、大切にビニールの袋に入れて帰った。なるほど筆とよく似ていた。書き味を試してみるつもりで、硯に墨汁を滴らせ、いざツクシの頭に墨を吸わせようとして、急に可愛そうになってやめた。花ではないから、花のように花瓶に飾るわけにもいかない。
 どうしたら、萎れさせずに傍に置いておけるか考えた。思いつかない。担任の先生は、「つくしんぼう」とも言う、と話していた。そう呼んでみると、愛着も湧いてきた。自分も昔、さんぼう、さんぼうと呼ばれていた時期があった。
 結局長く傍に置いておく方法が思いつかず、湯がいて塩を振りかけて食べてしまった。そうするのが、一番ツクシを大切にすることだと考えたのだ。
 
 ツクシを食べてから、三太のなかにちょっとした異変が起こった。三太に、野原に遊びに行こうなどと誘ったりするのだ。そうしないでいると、廊下を歩いていて、いきなり、でんぐり返しをさせたりするのだ。
 そのときもつくしんぼうに言われて、廊下ででんぐり返しをすると、前から来た担任の先生に見つかってしまった。
「三太、おまえ何やってるんだ。廊下でいきなり」
 先生は心配顔でそう言った。
「つくしんぼうが、そう言うから」
「ああ三太、おまえ、あのツクシどうした?」
「湯がいて塩をかけて食べたよ」
「何! 湯がいて食べたって?」
 先生は、驚きを口にしてから、「まあいいさ、毒ではないんだし、つくしんぼうにしてみれば、それが本望かもしれん」
 そう納得するように言って、歩き出した。その背後から、三太は声を浴びせた。
「本望じゃないよ。つくしんぼうの本望は野遊びだよ」
 先生は振り返らず、そのまま廊下を歩いていきながら、ぶつぶつ言っていた。
「野遊び、野遊びか。俺も都会に赴任してから、野遊びをしてないなあ」

                                  了









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海女と赤子

2015-04-21 17:31:46 | 掌編小説


◇海女と赤子


上陸する海女の一人が

岩場に待たせる赤子を連れに

抜き手を切って行った

赤子は命綱でつながれ

海にはまらないようにしてあった

夫が海にはまって死んだので

赤子には訓練を重ねる必要を痛感している

赤子が額を傷だらけにしているので

岩から落ちたのかと問い詰める

赤子は首を横に振るばかり

そしてついに

頭上を舞うカモメを指さした

「あの鳥が おまえの額を食ったのか?」

海女は岩場のてっぺんに登って 頭上のカモメを脅した

陸に置いては 人にさらわれる心配から

海中の岩に置いたが

これでは海も安心できない

夫がとられ 赤子が傷つけられた


   ◇







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イコンのある聖堂

2015-04-19 16:01:00 | 掌編小説



 
◇イコンのある聖堂




 牧野神父は聖堂のイコンの前で祈っているとき、うつらうつらしていきながら「三十万円」という声を聴いて我に返った。夢を見ているのではなかった。確かに密やかな声を聴いたのである。イコンから語りかけられたかのように、生々しさのない澄んだ、か細い声だった。
 祈っていて啓示を受けるなど、めったにあることではなかった。それでも聖職について二度ばかり信徒の命にかかわることで、ひそかに語りかけられた経験があったから、空耳として片付けてしまうわけにはいかなかった。それにしても、〈三十万円〉が自分とどんな関係があるというのだろう。妻子があるわけでなく、生涯独身を通すつもりでこの道を選んだのであったから、生活のために貯えを必要としてはいなかったのである。
 それでは、三十万円は何を意味しているのだろう。金銭の入り用ということで考え合わせてみると、難民救済の義捐金があった。しかしそのためには、三十万円では少なすぎる。また限定されるべきものでもなかったのである。
 信徒の誰かが、三十万円の借財を抱えて苦しんでいるのだろうか。意味も掴めないまま祈祷も中途の状態でさまよっていると、イコンの掛かっている斜め上方に、ちらっと星のようなものが浮んだ。聖堂内に星が見えるはずはなく、むろん幻である。意識の目を凝らしていくと、ちらちらした輝きが納まる具合にくっきりとした形を取った。それは湯呑み茶碗の幻であった。湯呑みの外側には、草花の拙い図柄が見えた。
 これもまた意味不明で、ヒントにもならなかった。牧野神父は、自分を迷わしてくるこの正体は、悪霊であるかと、闘いの姿勢を取った。
 程なく彼は、ふらふらっとして、イコンの前を離れ、聖堂と棟続きになっている建物の一室に吸い込まれていった。他の者の目からは、夢遊病者がさ迷って行くようにも見えただろう。
 牧野神父の入った部屋には、信徒の持ち寄った家具、衣類、食器の類が床一面に、立錐の余地もなく並べられていた。これらは難民救済の義捐金を得るため、明日からのバザーにかける品々だった。
 先程まで信徒を交えて値段をつけ、看板を書き、模擬店の準備をしていたのである。
 牧野神父は、床を埋める商品に目を配っていった。彼の足元には、正札を貼られた食器類が、危ないほどに積まれて並んでいた。ほとんどが百円、二百円といったところである。 彼は、一つだけ不恰好なために重ねるわけにもいかずに置かれている湯呑を、むんずと掴み取った。それを手の内に回しつつ、
「これだな」
 と睨んだ。幻に浮かび出た湯呑と極似していたのである。模様も写実とは程遠い、素人っぽい筆の草花があった。持ち重りはしても、グロテスクで、こういった鑑識眼のない彼には、正札にある百円でもさばけない湯呑に見えた。
 牧野神父は、大きな賭けをするつもりで、いびつな湯呑の百円の正札を引き剥がした。そして新しいラベルを貼ると、サインペンで太く、三十万円と書き付けた。
 明日早々に係の信徒に、三百円ではなく、三十万円だと言い渡しておかなければならないと思った。

 日曜日、礼拝の後、教会の中庭はバザーの会場へと早変わりした。門には大きな看板がかかげられた。《売上金はすべて難民救済基金に充てられます》と、但し書きがしてあった。世人を呼び入れるために、演歌を流すような教会もあるらしいが、ここではそういった世との妥協は断固排して、荘重な宗教音楽を流していた。
 テーブルには、手作りのブローチやネックレスも商品の中に混じつていた。これらの商品には、どこかに十字架がはめこまれている。きらびやかではないが、いつか気づくといったたぐいのものだった。
 瀬戸物類の中には、牧野神父の手で正札の書き替えがなされたあの湯呑も確かにあった。無造作に、しかし販売係の目の届くところにしっかりと置かれていた。
 模擬店からは、汁粉や甘酒の湯気が立ち、焼きそばのにおいもする。また焼き唐黍の香ばしい煙も棚引いている。中庭の大銀杏は黄ばみはじめ、はらりとテントの上に舞い落ちるのもある。
 まず子供たちが模擬店に詰め掛け、いや子供に手を引かれた大人たちも、門をくぐってきた。
 焼き唐黍を片手に、商品の方へ回ってくるものもあった。門を入って、まっすぐ販売のコーナーへ回ってくるものも出てきた。
 バザー会場には、掘出物はないかと、骨董屋も顔を見せるものである。一般客になりきっているから、識別は難しいが、目を光らせていれば判るものなのである。
 店開きをして十分もした頃、きつい眼鏡の老人が一人、瀬戸物類の前に立った。
 彼は一つの湯呑を目敏く見つけて、手を伸ばした。販売係の女性が、おくゆかしい物腰でそれを見ていた。
 老人は湯呑を腹の辺りに抱えて回していたが、ラベルのところにきて、息を止めた。彼はその湯呑を抱えたまま、テーブルに並んでいる他の商品に目を配った。
 それから何か考え込むふうにして、再び商品を鑑賞した。彼はやおら口を開いた。
「この値段は、何かの間違いではないかね」
 販売係に向けた老人の目は、レンズの奥に光っていた。
「いいえ、間違いではありません。三百円でも、三千円でも、三万円でもありません。その正札の通りでございます」
 と係の女性は言った。
「こればかり三十万円なんてあるから、冗談かと思ってね」
 係の女性は、老人の本心を探ろうとして言葉を控えた。
「もっと安くならんのかね。〇を一つ取って三万とか。こればっかり、化物みたいな値がついて、気持が悪いじゃないか」
「無理ですわ。難民救済のためにやっておりますので」
「どうせ、只でどこかから見つけてきたんだろうよ。それにこんな値をつけるなんて、罰が当たると思わんかね。ここは教会だろう? 七万円はどうだ」
「出来ませんわ」
「じゃ十万円?」
 係の女性は首を横に振った。
「十五万?」
 同じく首を横に振った。
「じゃ二十万だ。あんたに出来ないんなら、上の者にでも訊いておいてくれ。また明日寄ってみるから。会期は明日までだったな」
 老人は憤慨したように言って立ち去った。
 係の女性は、その湯呑を手にして、牧野神父を探しに行った。彼は聖堂の右袖で信徒の一人と話し込んでいた。
「神父さん、今客が来まして、二十万円にならないかと言うんです」
「えっ?!」
 牧野神父に驚愕が走って、身を乗り出して来た。
「やはり、啓示だった。貴くも、畏れ多いことが起こった」
 彼は興奮の面持ちで言うと、
「ちょっと失礼」
 と話合っていた信徒を待たせて、詳しく事情を訊くために係の女性と会場の方へ歩いて行った。牧野神父はその不細工な湯呑の出所が知りたかった。バザーに携わっている信徒に訊いて回ったが、心当たりはなかった。品物の中には、信徒ではない者からの寄進の品もあったので、尋ね当たらなくても当然である。品物を捧げただけで、出て来ない信徒も多くいた。
 係の女性の話から、湯呑を欲しがった客が、目利きのコレクターか、骨董屋であろうと睨んだ。
 牧野神父は腕組みして教会の境内を歩き回っていた。客は二十万円なら買うと言っている。この好機を逃すと、売れ残ってみすみす大金を掴みそこねてしまうだろう。それがバザーの趣旨に適っているだらうか。しかし、そもそもの発端は、あの細き声であったのだ。三十万円にはならなかったが、逸品であることは確かだったのである。もしその声がなかったら、まんまと百円で持って行かれるところだった。
 牧野神父は、バザー会場の騒めきもそっちのけで、建物を出たり入ったり、また回廊を突き抜けて、往ったり来たりしていたが、ふと思いついて、街の書店へと足を向けた。
 何焼きで、時代はいつ頃のものなのか、また作家らしきサインもあったが、それはどういった者なのか………。
 書店の美術書のコーナーの前に立ったとき、牧野神父は荒く息をついていた。まるで犯罪に巻き込まれたような気分だった。
 焼物の本を手に取り、茶碗の並んだページをめくった。もっぱらのコーヒー党で、お茶には縁がなかったから、湯呑の鑑定などまるで別の世界に飛び込んだようなものだった。どれも同じ種類に見えてきてしまう。色も形も、その違いさえ識別できない品々が、ずらりと勢揃いして襲いかかってきた。これでは時代を究めるどころではない。まして作者を調べるなど夢のような話だった。
 どの本をめくっても、埒が明かなかった。パタンと本を閉じる音に、神父はふっと我に返った。会堂に信徒を待たせたままだったことを思い出したのである。
 牧野神父は慌てて教会へとって返した。信徒は帰ってしまったのか、そこにはいなかった。聖職者でありながら、悩みを持って相談にきた者を忘れていたとは、何たることだ。彼は痛棒を食らった思いで、バザー会場に信徒を探しに行った。
 幸いその信徒は模擬店で焼きそばを食べていた。牧野神父も焼きそばを求めて、彼の前に坐った。
「さっきの話だが、今母親をあれこれ説得するのは、少し様子を見ることにして、神に任そうじゃないか。人間の力ではどうにもならぬことがある……」
 牧野神父は今し方、湯呑のルーツを探る手掛かりも見つけられなかった手痛い経験から、つい結論を導いて言った。
「ぼくも今、そんな気持になっていたんですよ」
「そうか、御霊は一つなれば、同じ思いを与えたまえりか。ところで君は、骨董には明るくないかね」
「湯呑の話ですか。聞きましたよ、大井姉妹に。むろんぼくにそんな知識はありませんけど。神様の示しって凄いもんですね。百円にしか見えなかったものを、二十万円の値を付けるなんて」
「いや、実際は三十万円なんだよ」
「でも、百円だったものが、二十万円で売れることは実証されたんですから」
「確かにそうだ。しかしこれも神様の憐れみだね。難民の苦しみを見かねて、天から声を発して下さったんだよ。それは難民だけでなく、我々仕える者にとって、大きな励ましにも希望にもなるんだが」
 神父は落着けなかった。一人で聖堂にとって返すと、祈り始めた。明日までに、何としても回答を得なければならなかった。唯一の買手かもしれない客は明日やって来るのである。二十万円で渡してしまってよいものだろうか。啓示は三十万円だったのである。二十万円で手放したら、神を裏切ることにならないだろうか。
 牧野神父は、姿勢を正し、日頃の祈りではない祈りをした。天から声は届かないかと、時折沈黙し、聞耳を立てた。……が、神父はその声が、選挙運動や塵紙交換などのスピーカーの音とは、次元の違う世界から届く、まったく異質なものであることを知っていた。どんな騒めきの中にあっても、また難聴の耳にも届けられることを知っていた。
 牧野神父は、一時間、二時間と祈り続けた。不本意にも、うつらうつらとしたとき、
「四十万円」
 と密やかな声がした。彼は臆して尻込みしつつ、その声を浴びなければならなかった。心の中では、《二十万円でよい》と言われるのを待ち望んでいたのであった。そうすれば、二十万円は間違いなく転がり込むのである。
 ところが、である。天の声は、初めの三十万を相手が値切った分だけ、上乗せして四十万ときてしまった。
 牧野神父は、はたと困惑してしまった。自分の中に強欲な霊が住みついていて、四十万などと言わせたのではないかと、声の出所を疑ったりした。しかし自分の霊なら、間違いなく換金できる二十万円を提示するはずではないか。そう思い直して、
「神よ、四十万円でいいのでありますね」
 と念を押した。沈黙が続いているのを、確かなしるしとみて、神父は三十万円のラベルを剥がし、四十万円のラベルを貼った。
 貼り替えた湯呑をしかるべき場所に置いたとき、牧野神父に物狂おしいような戦慄が走った。吉と出るか、凶と出るか。明日を待たなければならなかった。信仰を試みられている感もあったが、もしこの商いに失敗したら、天からの宝とも言うべきものが、がらくたに帰してしまうのである。それは二十万円を失うというよりは、天の声が、心の思いから発した自分の声に成り下がってしまうのである。
 その夜は、さすがに寝苦しく、夢にうなされて何度も寝返りを打った。よからぬ霊もうろついているようであった。
 前日の老人は、門が開いて間もなく現れた。
「あの湯呑はどうなったかね」
 息急き切って、老人は係の女性に訊いた。
「そこで御座います。御要望にはそえませんでしたわ」
 彼女は、レジの近くに置いてあった湯呑を示した。
「なに!」
 老人は湯呑を手に取って、新しいラベルに見入った。老眼鏡の縁を押さえて目を凝らした。「何だと、四十万円だと……」
 老人は、しばし言葉を失っていたが、何を思ったか、内ポケットから小切手帳を取出して、ペンを走らせた。それからいくらかおどけた表情に出て、
「いや、まいった、まいった。神様も駆引をやらかすとはな」
 と言って、切り取った小切手を差出した。三十万円也と書かれており、古美術商 大阪仁吉のサインと、印紙の捺印があった。
 老人は湯呑を横抱きにすると、出口へ急いで行った。係の女性が慌てて呼び止めたが、聞こえたのか、聞こえなかったのか、ますます早足になって行った。
 女性は、小切手を持って牧野神父を探して駆け出していた。老人が来たら、すぐ伝えるように言われていたのである。
 牧野神父は、聖堂で司教と話し込んでいた。彼は小切手の金額が違っているので、謀られたとみて、老人を捕まえようと、係りの女性を連れて走り出した。
 教会の門まで来たとき、折から門を入ってきた青年信徒とぶつかって撥飛ばされた。ラグビーでもやっていそうな頑丈な体躯の青年に、体当たりをされたのではたまったものではない。牧野神父はほとんど三メートルも教会の境内へと跳ね返されていた。彼は、「うっ」と唸って、うずくまった。それから痛みを堪えて体勢を立直すと、老人を探しに走り出そうとした。しかし金縛りにあった具合に体が動かなかった。
「神父さん」
 後方から、係の女性の声がかかって我に返った。前からはぶつかった青年が走り寄った。
「なるほど、これもしるしなりか。これ以上追ってはならんとな……」
 牧野神父は、泣き笑いのように面を崩し、打撲の痕をさすった。                                             
                                  ー了ー

     ◇


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しんがりの犬

2015-04-04 13:30:29 | 掌編小説


 会社の会議があり、帰宅がいつもより晩くなって、康夫は車を走らせていた。自宅の方角へ路地を曲がったとき、前を七、八匹の犬が、群をなして横切った。こんなに群れているからには、野良犬に決まっている。野良犬なら機敏で、車に阻まれることなどまずないが、群に遅れまいとするために、少々無理な行動に出てしまったのだろう。一二匹であれば、安全を確保してから道を横切るだろうに。
 康夫は彼等の事情が分からぬではないが、それでもけたたましくクラクションを鳴らしてしまった。しつけのためである。犬たちは怖れをなしてたじろぎ、つぎに果敢な身ごなしに転じて走った。道に身を残しているのは、一匹だけだった。
 と、そのしんがりの一匹に、どうも見覚えがあるのだ。一年ほど前まで家にいたジョンではないか!
 康夫はクラクションを鳴らすのをやめ、ジョン、ジョンと、犬の名を呼んだ。
 振り返った犬の目に、明らかな動揺が走って、逃げようとする犬の体とは裏腹に、康夫に見入った。康夫が気づいたと同じように、犬も元の飼い主に気づいたらしい。
 康夫は車を停めて、さらにジョンの名を呼びつづける。それだけでなく、ウインドウから手を出して招き寄せるしぐさもした。
 犬は横腹を向けたまま立ち止まり、顔だけ康夫に向けている。目の色に怖れはあるものの、懐かしさもてつだって、康夫を無視して立ち去れなくなっている。
 他の犬たちはほぼ二十メートルは先に行って、遅れている一匹を待ち構えている風情だ。 体が大きくなってはいるが、まちがいなくジョンだ。康夫は犬を車に乗せて帰ろうと思った。フロントドアを開くと、犬は二三歩後退したが、逃げ出しては行かず、いぶかりつつも、以前の飼い主への懐かしさも拭えない様子である。さて、どうしたらよいものか。そんな犬なりの思案もうかがえるのである。
 そもそも犬を捨てた覚えはないから、康夫にはジョンへの後ろめたさはなかった。それは犬にしても同じで、飼主から逃げ出したとは思っていなかった。不意に犬の先祖からの群が現われて、その流れにのってしまっただけなのだろう。そして一度群の一員になってしまうと、そこから抜け出すなどできなくなった。
 康夫は食べ残しの菓子パンを手にして、犬を招くが、ジョンに少し心動かされる気色は見えても、下ろしたまま振る尻尾は硬く、飼主に歩み寄ることはなかった。
 そのうち、飼主に向けていた顔を逸らして体の線と同じ横向きになった。そしてまっすぐ前を向き、狼の遠吠えのような声で悲しげに吠えた。
 ジョンの声に合わせて群にも声が起こった。ジョンはその声のほうへ体を振って、駆け出して行った。
 康夫もアクセルを踏んで車を発進させた。

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はねる鴉

2015-04-02 17:39:59 | 掌編小説



◇はねる鴉




 朝雄は間もなくおとずれる正月に、帰省するのが億劫でならなかった。
 そんなことから、大学が休みに入るとすぐ、アルバイトをするつもりで、学生係りに申し込んでおいた。
 アルバイトがはじまれば、帰省などしていられない。飲食店の従業員が故郷に帰りたがっているこの時期、人手が足りなくなり、それを補うためにも、学生アルバイトは重宝がられるのだ。
 仕事か、帰省か、その決断を迫られているとき、郷里の母から電話があった。
「帰って来るでしょう。いつ」
 と母は訊いてきた。
「うん、どうしようかと考えているんだ」
 と朝雄は言った。それが正直な返事だった。
「何か予定があるの? そっちで」
 母は追いかけてきた。
「そういうわけじゃないけど、仕事をしようと思ってね」
「仕事って、アルバイト?」
「まあ、そんなところだよ」
「送っている学資では、足りないっていうの?」
「そうじゃないけど、買いたいソフトがあるんだよ」
「大学の勉強と関係したソフトなの。それは?」
「まあ直接には関係ないと思うよ。しかし間接には、ありだね。そんなものさ、世の中に勉強にならないものなんて、一つもありやしないよ」
「へりくつはいいから、帰っておいで。おばあちゃんも、会うのを楽しみにしてるんだから」
 祖母のことを言われると、朝雄の気持ちは負のほうへ引きずられて、帰省を断念する側へと傾いていった。
 祖母には帰る度に小遣いを貰っているし、祖母のためにと、おみやげを買っていったことがなかったのだ。小遣いを貰う度に、今度帰省するときはお土産を買ってくるよなどと、口癖のように言っていたのだった。
 だから今年こそは、心のこもったものを持って帰りたかったのに、正月が迫ってくるにつれて出費がかさみ、それがならなくなっていた。
  朝雄が押し黙ってしまうと、母が追いかけるように言った。
「おばあちゃん、おまえに渡したいものがあるらしいのよ」
 朝雄は逆をつかれた気持ちにかられ、
「何だろう」
 と言った。
「さあ、おまえ前回帰ってきたとき、何か言ってなかった? 何が欲しいとか」
 朝雄はそんな覚えがなかったので、考え込んでしまった。孫が帰省するのを億劫がっているわけを先取りして、そんなでまかせでつろうとしているのではないかと、勘繰ってみる。しかし帰る度に小遣いを貰っている朝雄からすれば、金銭でつるというのも考えづらい。祖母は自分の老い先が短いと考え、これまでの小遣いとは桁外れの額を渡そうというのか。それも虫が良すぎるようだ。あるいは祖母は、余命いくばくもない病気を宣告されたのではないか。
「何か欲しいなんて、言ってないよ。冗談で、スポーツカーでもあれば、おばあちゃんを乗せて全国の温泉めぐりもできるなんてくらいは話したと思うけど、それだって車は危ないから駄目だって、頭からはねのけたはずだよ。俺は道中風を切って走る爽快感が目的で、おばあちゃんは温泉が目的で、スポーツカーは両者に都合よくできているんだ、なんて飛躍して話したのは憶えているけど、そんなのは冗談から冗談へと脱線しただけの話さ」
「そうお? それじゃおばあちゃん、何を言いたかったのかしら。渡したいなんて」
 と母は祖母の心を探るように言った。
「そんなこと言うんなら、おばあちゃんに直接訊くから、おばあちゃんを電話口に呼んでよ」
 母親が黙っているので、
「おばあちゃん、うちにいないの?」
 そう訊いた。今しがた閃いた祖母の病気という線がざわざわと胸元に攻め上ってきた。「さっきまでは、ここでテレビのドラマを見ていたんだけど、今は出かけたみたいね」
 朝雄から緊迫の高波が引いていき、普通の呼吸に戻った。
「百貨店に行くなんて言ってたから」
 と母親はつけくわえた。
 朝雄は母の言葉に揺さぶられて、
「百貨店だって!」
 と声が大きくなった、
 彼は百貨店から、百円均一ショップの品々を連想したのである。そこに孫の手なるものも置いているような気がしたのだ。その孫の手を祖母への手土産にして、急遽帰省しようと心を決めたのである。肩もみもろくにしたことがない、罪滅ぼしの意味合いもあった。
 孫の手がなければ、百円の杖だっていい。その百円の杖があることは、確認済みなのである。というのは、大学のゼミの仲間が、足を捻挫して歩くのにも苦労しているのをみかねているとき、百円ショップに杖があるのを発見して、杖をプレゼントしたことがあった。ゼミの仲間は、しばらく杖に頼った生活をするようになり、朝雄に会うと、「助かっている、感謝してるよ」と言っていた。
「お歳暮でも送ろうとしたのかしらね。元気なお友達がたくさんいるから、おばあちゃんも大変よね」
「いやあ、デパートじゃなく、百貨店でよかったよ」
 と朝雄は言った。
「あら、昔の百貨店は、今のデパートのことよ」
「それはどっちだっていいんだ。とにかく百貨店と言ってくれてよかったよ。俺帰ることにしたよ。おばあちゃんに、そう言っておいて。ろくな土産はないけど、帰るだけは帰るって」
「どうしちゃったのよ、急に心変わりをして。お母さんがびっくりするよ」
「電話代がかさむから、これで切るよ。格安航空が取れなければ、新幹線と特急を乗り継いで帰るから」
 そう言って朝雄は電話を切った。
 一仕事終えたような気になって、外に飛び出した。アパートの前にたむろしていた鴉が、あわて顔をして道をよけた。羽根を使わないで、二三歩はねるだけのよけ方が、いかにもこちらをバカにしているようで、小憎らしいが、それが無駄を省いた質素な生き方なのかもしれなかった。そう考え、鴉を見直すことにした。
                
 
                了 






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籐椅子の猫

2015-04-01 19:30:20 | 掌編小説




◇籐椅子の猫


 朝夫は籐椅子に寝ていた猫をどかして、腰かけた。急に眠気に襲われ、うとうとっとした頃、姿を消していた猫が戻って来た。そして彼の膝の上にのり、先程からの眠りのつづきに入った。

 朝夫は膝が重くなっているのに気づいて目が覚める。なんか寝苦しいと思ったら、こいつめ。彼は猫の首をつまんで床に降ろし、間隔を取るために足で邪険に押しやる。
 朝夫は中断した眠りに入る。開けた窓からクチナシの花の香りがきて、心地よさにすぐうとうとっとする。
 いつの間にか、また膝が重くなっている。うすうす分ってはいるが、睡眠のほうを重視して、猫とはかかわらないことにする。
 うたた寝の中で、猫と人間との長い歴史について瞑想する。おそらく、男と女の世界がはじまる以前から、猫は人間の世界に入り込んできていたのだろう。
 もし妻がいたらの話だが、その女を椅子から追い払ったら、夫に愛想が尽きて、戻ってこないのではないか。
 それがこの猫ときたら、追い払えば、今度はちゃっかり、膝の上にのって眠りの続きに入っていけるのだ。怨みもなければ、椅子を独り占めにしようなどという魂胆もない。むしろ膝の上のほうが、ぬくもりも程よく、柔らかくていいと、極上の座布団にしてしまうのだ。
 ああ、この魔物にかかったら、人間もお手上げだ。
 人類は今や猫族に占拠されてしまっている。人種、民族、思想、国境を越えて、猫は人間の世界に入りこんでしまった。
 猫ほど平和な使節はないだろう。いったい誰が、この小さな生き物を送り込んできたのだろう。そうやって、国という国を席捲してしまった。いちばん寝心地のよい膝の上を我が物にしてしまった。
 そう思ったところで、朝夫はぶるぶるっと身体をゆすって覚醒した。こうしてはいられない。今日中に読んでおかねばならない論文があったのだ。
 彼は立ち上がって、膝の上の猫を振り落とし、書架の本を取りに行った。
 猫は一つ大きく伸びをして、それで体のしこりが取れたのか、姿が見えなくなった。裏口には猫の通れる孔が開けてあるから、そこを押して外に昆虫でも探しに行ったのであろう。それとも青菜に飢えて、柔草でも食みに行ったか。
 朝夫は惰眠をむさぼった遅れを取り戻そうと、きょう四杯目のコーヒーを淹れて、読書に集注した。
 日も沈み、カーテンを閉めて、電燈のスイッチを入れる。それからまた読書にふける。

 椅子に疲れたので、夕食は座卓ですることにする。卓上に買い置きの料理を並べ、やはり調理済みの焼き魚をレンジであたためて出す。
 さて食べようとすると、座卓の向こう側を、カギになった猫の尻尾の先が、スーッと鮫の尾びれのように通った。焼き魚を半分よこせ。さもなければ、今度はおまえの、胡坐の上を占拠するぞとばかりに。

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ミニチュアダックスを連れた二人の婦人

2015-03-22 16:46:17 | 掌編小説



◇ミニチュアダックスを連れた二人の婦人




 レッドのミニチュアダックスを抱いた眼鏡の婦人と、クリームのミニチュアダックスを引いた小太りの婦人が、道ですれちがった。
 いや、すれちがう前にお互いに気づいて、立ち話になった。
 ミニチュアダックスは、垂れ耳、胴長、短足の愛くるしい小型犬で、ペットとして人気がある。
 眼鏡の婦人と小太りの婦人は同じ新興住宅地に住んでいて、相性はいいほうだ。眼鏡婦人はまくし立てるほどの話好きで、小太りはいつもおっとり聞き役に回っている。聞き役でも我慢しているようには見えない。自然そういう関係になっている。  
 眼鏡婦人のダックスは、インドの婦人が肩にするような一枚の布に巻かれて、飼主の胸のところにおさまっている。ダックスの色がレッドでもなければ、ちょっと気づかないだろう。
 一方、小太り婦人のダックスはクリームで、飼い主の気性をそっくり受け継いだかのように静かにお坐りし、おっとりと相手の犬を見上げている。  
 そのおとなしい犬が、路上に坐り込んで、ロープを引いても一向に言うことを聴かなくなったのは、立ち話をしていた眼鏡の婦人が立ち去ってからだ。
 小太り婦人が犬の首がもぎ取れるほどの力で引いても、路面に足を突っ張って動こうとしなかった。
「そうか、デミちゃんも抱っこして欲しいのね」
 小太り婦人はようやく合点がいってそう言うと、犬を抱きかかえた。
 犬は意が通じたとばかり、婦人の顔をぺろぺろと舐めた。それから安心したように、顔を婦人の乳房のあたりに置いて寝てしまった。
 帰宅した婦人は、犬の重さと、買い物袋を腕に通して持った痺れで、しばらく動きが取れなかった。
 それからというもの、デミは抱いてやるのでなければ、外には出たがらなくなった。ロープをつけると、足を突っ張って、一歩も動かなかった。
 小太り婦人は仕方なく、ペットショップで肩から吊るすペットスリングを購入し、その中に入れて散歩に出るようになった。しかしこれでは、散歩とは言えず、どうしたらよいものか思案に暮れていた。
 一週間もすると、デミは体重が増えて、小太り婦人は逆に痩せていった。
 そうやって一箇月が過ぎた。体重はデミが一キロ増やし、小太り婦人は二キロ減った。ダイエットにいいなどと、暢気は言っていられなかった。
 悪い習慣をうつされてしまった眼鏡婦人に向かって、相談するのもためらわれた。相手が「歩かせる派」であるなら、すぐにも教えを乞うたかもしれない。しかし「抱っこ派」とあっては、この際、いい案が授かるとはどうしても考えられなかった。  
 そんな課題を抱えながら、小太り婦人はデミをスリングに入れて外出した。
 梅雨も上がって、空は気持ちよく晴れていた。デミが歩かなくなってから、何と二箇月が経とうとしていた。
 久しぶりの快晴とあって、街は人通りが多かった。車道をはさんで、小太り婦人の行く道とは反対側の歩道を、元気のよいレッドのミニチュアダックスに引かれて、眼鏡婦人がやって来た。
 しかし折悪しく車道を大型バスがやって来て視界を塞ぎ、眼鏡婦人も小太り婦人も、お互いを認めることはできなかった。犬たちも、お互いを見ることはなく、過ぎて行った。      

                                           
                       了

 

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