nemo 折々の自然

折に触れて観察した自然などの記録

橿原・室尾

2012-11-23 22:25:00 | 旅行記

平成二十四年11月23日()

 今朝も雨模様、ツアー最終日なのにガッカリ だが、予報では午後から回復すると言うのを期待する。
 朝食は一階の『甘樫』でバイキング・スタイル。和洋食とメニューが豊富,関西風の茶粥や湯豆腐が目立つ。
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 今日は先ず車で5分ほどの所にある『橿原神宮』 へ。
 雨に煙る表参道は、人影もなく厳粛な雰囲気に包まれており,皆さんも緊張気味で歩みを進めています。
 手洗所には、ちょうど七五三参詣の親娘も来ていました。
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橿原神宮
Img_0104Img_0112 畝傍山の南東麓、約50万㎡もの広大な神域に建てられた檜皮葺きで素木造りの本殿と神楽

 殿が、玉砂利の参道と背景となる深い森の緑に調和して、なんともいえない爽やかさと、厳

 かな雰囲気を生み出しています。

 初代天皇であると伝えられる神武天皇が、橿原宮で即位したという「日本書紀」の記述に基

 づき、明治23年(1890)に建てられました。本殿と文華殿は重要文化財に指定されています


 祭神は神武天皇とその皇后・媛蹈�五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)です。
 本殿は京都御所の賢所を移築したものです。

 橿原市を代表する橿原神宮で、本殿と神楽殿を訪ねると日本の伝統的な建築美に出会うことができます。  【橿原市資料による】
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 南神門を潜り、玉砂利の広い前庭の左手に豪壮な外拝殿が見えます。
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Img_0105Img_0106  外拝殿に入り、恭しく内拝殿を参拝する。

 静まり返った神域が、雨模様の天候のためか一段と別次元のような雰囲気を漂わせていま

 した。

 外拝殿の右手には,今年の干支である大きな龍の絵馬が飾られていました。



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Img_0107Img_0109  外拝殿の右手には,君が代に歌われている『さざれ石』が置かれていました。 
 

 参拝を終えて車に戻る頃には雨も上がり、これからの観光に期待が持てるようになりました。






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 次いで,本尊大観音尊像特別公開中の長谷寺へと向かいました。
 橿原神宮から国道165号線を通り,長谷寺の裏側の山道を利用してバス専用の駐車場まで1時間足らずで到着しました。幸いにもこの頃には雨も 上がっていました。
 駐車場からはだらだら坂を下り,長谷寺を右に回り込むようにして入口に到着しました。
 入口でバスガイドから長谷寺の概要の説明を受けてから、登廊の緩い階段を上ることになりました。

長谷寺
 当山は山号を豊山( ぶさん )と称し、寺号を長谷寺と言い、正式には豊山神楽院長谷寺と申します。
 「こもりくの泊瀬山」と万葉集にうたわれていますように、この地を昔は豊初瀬(とよはつせ)、泊瀬(はつせ)など美しい名でよばれていたので、初瀬寺、泊瀬寺、豊山寺とも言われていました。
 朱鳥( あかみどり )元年(686)道明上人は、天武天皇のおんために銅板法華説相図( 千仏多宝仏塔 )を西の岡に安置、のち神亀四年( 727 )徳道上人は、聖武天皇の勅を奉じて、衆生のために東の岡に十一面観世音菩薩をおまつりになられました。
 上人は観音信仰にあつく、西国三十三所観音霊場巡拝の開祖となられた大徳であり、当山を三十三所の根本霊場と呼ぶいわれであります。
 現在の長谷寺は、真言宗豊山派の総本山として、 また西国三十三観音霊場第八番札所として、 全国に末寺三千余ヶ寺、 檀信徒はおよそ三百万人といわれ、 四季を通じ「花の御寺」として多くの人々の信仰をあつめています。 【長谷寺パンフによる】
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Img_0118Img_0119 ここ長谷寺とこの次に訪問する室生寺は、かって昭和63年5月に八経ヶ岳と大台ヶ原の

 日出ヶ岳を登った帰りに、登山の無事を報告,感謝するため参詣したことがあるので、

 その当時の記録を見ると以下のように記述しています。
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 『登廊の百八間、三百九十九段の緩やかな石段、三十三個の風雅な八方行灯が数間置きに下がる両側には 70種、3,000本の牡丹が今を盛りと咲き競っている。
  長い階段もこの花を賞でながら登るので、ご老人にも苦にならないようだ。
  白、ピンク、紅、そして黒と咲き乱れるボタン、艶やかな見事さだ。
  本堂は舞台造り、外舞台もあるという大建築。十一面観音像は身の丈三丈三尺六寸、光背四丈一尺という立派なもの。その堂々たるお姿に圧倒される。
  参拝後、五重塔から本坊へ。この本坊から眺める泊瀬山をバックにした本堂の型が良い。
  ボタン、シャクナゲに埋まる境内にすっかり酔わされてしまった。』
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 そのご老人となった現在,牡丹に変わる四囲の紅葉を眺めながらゆっくりと登っていく。
 登るにつれて視界か開け、周囲の今や盛りの黄・紅葉が目に入り、弾む息を整えるために立ち止る機会を度々与えてくれる。
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Img_0120Img_0122  舞台付の本堂に着き,身の丈10m80cmの堂々たる十一面観音像に拝礼する。

 この本尊は度重なる火災後に、矧寄木造りで大仏師、運宗が天文 7年(1538)再造したもの

 という。

 右手に数珠と錫杖を執り,左手に水瓶蓮華を持って、方形の台座である大盤石座に立っている

 手に持つ錫杖は広く衆生を救済するためとされ、身の丈の大きさ故に功徳も大きいと篤い信仰

 を集めてきたという。
 本堂から外を眺める紅葉の美しさと、礼堂の床に映る紅葉に思わずシャッターを切る。
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Img_0125Img_0130  その後、特別公開ということで本堂内に入り、改めて十一面観世音菩薩立像を拝観する。

 ところが意外と本堂内陣が狭く、長身の菩薩像のお顔を拝観するのに首が痛くなるほどだ。

 また、霊験あらたかな御仏として人口に膾炙してきた長谷の本尊の御足は、長年に亘り参拝

 者が結縁の度に触れて黒光りしており、信仰の蓄積を物語っている。

 小生もその御足に触れながら,家内安全と腰部の痛みの無くなることを念じる。

 この内陣には,徳川家代々の御位牌宮殿,弘法大師座像,十一面観世音菩薩立像(裏観音)、それに薬師如来坐像などがあり、それぞれに拝礼する。
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 再び堂外へ出て,懸造り舞台から紅葉に彩られる長谷寺の全貌と四囲の景観を眺める。
 今や盛りの黄・紅葉が咲き誇り,えも言われぬ景観にしばし時を忘れて魅入っていました。
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Img_0128Img_0129  やがて五重塔を巡って下に降りながら、本堂舞台を見上げたり、周囲の紅葉を愛でながら

 駐車場へと戻りました。







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 昼食は次の予定地、室生寺の入口近くにある橋本屋旅館で採ることになり,国道165号線を利用して30分ほどで到着しました。
 ここも大変な混雑で,旅館の前を流れる室生川に架かる赤い太鼓橋は人の流れが続いています。
 その様子を旅館の部屋から眺めながら,山菜料理の昼食をいただく。
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Img_0137Img_3265  ここ室生寺も長谷寺と同じく,山行の帰りに無事の報告と御礼のため参詣したので,その

 当時の記録を改めて読み返してみました。

 『五月晴れの太陽が照り付けるなかを室生寺へ。 

  平日ではあるが、シャクナゲが満開とあって参拝客が多い。

  門前町の賑わいから左に入り、室生川に掛かる赤い欄干の歩き難い太鼓橋を渡る。

  境内に入った途端、満開のシャクナゲの大樹が眼に飛び込んでくる。これほど花が密生

                     して咲いているシャクナゲは初めてだ。その清楚な色合いが周囲の建物に溶け込んでいる。
 宗教と花との関わり合い、修行する人の気を休めるもの、信者でもない者がただ花を見に来る事の意味合いなどを考えさせられる。
 仁王門を潜り、金堂への階段『よろい坂』の両側も見事なシャクナゲの群落。唯々見とれるばかり。
 弥勧堂で弥勒菩薩を拝観、何となく色気を感じさせる像だ。
 屋根の線が美しい金堂、その内陣の釈迦如来立像、十一面観音菩薩像の端整なお顔が美しい。またその前列の十ニ神将像がユーモラスな顔を見せてくれる。         
 次いで本堂の如意輪観音像は、何故かなまめかしさを感じる。
 密教道場として女人の済度を図って登山を許したので、『女人高野』と呼ばれる所以もここにあるのかも知れないと思われる。
 そして、これはまた小柄で見事な調和を保った五重塔がある。この辺りの人出は最高。
 花の盛りではなく、逆に雪景色の中で独り静かに眺めてみたい、などと独り善がりな考えが頭の中に湧いてくる。
 しばらく見とれてから、杉の原生林とシャクナゲに囲まれた奥の院への階段を登る。
 奥の院を参拝後、再び花を眺め、建物を見物しながら下山する。
 門前町で草餅と山芋そばの昼食。ここの山芋はじゃがいものように丸い。
 ここからバスで駅前の大野寺へ。自然の崖に筋彫りした磨崖仏が、室生川を挟んだ対岸に見られる。
 日の光が強すぎて、像が明確に見えないのは残念だ。』
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 昼食後,室生川に架かる赤い太鼓橋を渡って対岸に出ると、やや盛りの過ぎた室生寺の境内の紅葉が目に入る。旅館の方の話では,今年は紅葉の時期が早かったと言われていたが,まだまだ色彩は映えている。
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Img_0138Img_0140  境内に入り,仁王門の手前からは今年の色づきが早かったと言う紅葉が,まだまだ見事な

 色彩を見せてくれる。

 仁王門を潜ると一段と華やかさを増した紅葉が,鎧坂の両側に覆い被さるように見えてく

 る。 

 ここはその景観をカメラに収める人々で大混雑だ。


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Img_0141Img_0142  鎧坂を上がると正面に国宝の金堂,左手に彌勒堂がある。

 金堂は正面,側面ともに五間の単層寄棟造りの柿葺きで、内陣には堂々とした一木造りの

 国宝、御本尊釈迦如来立像を中心に、向かって右側に薬師如来像、地蔵菩薩像,左側に文殊

 菩薩像、国宝の十一面観音像が並び,その前に運慶の作と伝えられる十二神将像が並べられ

 ている。

 三間四方柿葺の彌勒堂の内部の須弥壇に安置された本尊,厨子入り弥勒菩薩立像は、平安時代初頭の優品で,脇壇には明快な衣装が見事な国宝の釈迦如来座像が安置されている。
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11411Img_0144  その上の階段を上がったところに本堂の国宝・灌頂堂がある。

 ここに室生寺の本尊、如意輪観音像が安置されている。

 ここは真言密教の最も大切な法儀である灌頂を行う堂で,真言寺院の中心であるところから

 本堂とも呼ばれ、延慶元年(1308)建立の五間四方の入母屋造の大きな建築である。

 さらにその上には、平成10年に台風により大きな損傷を受けたが、平成12年に修復した

 五重塔がある。総高 16.1mと屋外に立つ五重塔では最小という。

 勾配が緩く軒の出の深い桧皮葺の屋根は,朱塗りの柱や白壁と心地良い対照を保つ。平安初期の建立といわれ、室生山中最古の建築とのことだ。 【室生寺パンフより】
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Img_014611419  前回来た時にはこの上にある奥の院まで行ったが、今回はここまでが限界。

 往路を紅葉を愛でながら戻り,バスの駐車場へ。







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 かくして今回のツアーは終了。
 今年も何とか紅葉の素晴らしい景色を見ることができました。 
 道の駅『宇陀路室生』で小憩の後,近鉄・名張駅から名古屋へ出て,東京へ戻りました。
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吉野・飛鳥

2012-11-22 00:00:00 | 旅行記

平成24年11月22日()

 起床して外を見ると,小雨に煙っている。部屋からは紅葉は殆ど見ることができない。
 竹林院自慢の庭園を観ることにして出掛ける。
 旅館の玄関右手にある入口から庭園に入る。
群芳園
 大和三庭園のひとつとなっている竹林院の庭園「群芳園」は、豊臣秀吉が吉野山の桜の花見に際して千
 利休が作庭し、一説には細川幽斎が改修したといわれている池泉回遊式の借景庭園です。
 春は見事なしだれ桜が池の中央に咲き乱れ、夏は美しい緑に囲まれ、秋は色鮮やかな紅葉、そして冬には雪が積もり、凛とした静謐な空気が澄み
 渡るのを感じていただけます。
 遠く吉野の山々、蔵王堂を見はるかし、四季折々の鮮烈な美しさを間近にしながらそぞろゆくのも他では味わえない醍醐味のひとつです。

                                                      【旅館パンフより】
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Img_0041Autumn01  池の周囲には紅葉がなく、庭園の周囲の林に紅葉
 が見られる。そぼ降る雨がしっとりとした落ち着
 いた雰囲気を演出してくれる。
 池の右手にある遊歩道を上りながら、その両側に
 ある紅葉が目に入る。
 丘の頂上にある東屋からは吉野の山並が見えるが
 約3万本といわれる桜の紅葉は時既に遅く,白っ
 ぽい枝が目立つのみだ。さぞかし桜が満開の時期
 の景観はと、思いを馳せる。
 朝食は昨晩と同じ食事処の鳳龍で、具沢山の和食。
     *Img_3255
 食後は10時までの間,吉野山の自由散策時間とのことで、生憎と小雨が降り続いていたが,旅館の
 マイクロバスで昨夜に引続き蔵王堂の近くまで運んでもらう。    
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 改めて境内の見事な紅葉を眺め,再び仁王門大修理勧進に伴う秘仏御本尊特別御開張を拝見する。
 今回はお焚き上げ用のお札が配られ、それに願い事を記入して提出することになる。小生は『家内安全』と記入する。
 何回拝見しても三体の金剛蔵王権現の憤怒の像は威圧的で魅入られる。
 昨晩と同じく内陣の諸仏像を拝観する。
     *
Img_0042Img_0044Img_0047  その後は境内にある『仏舎利宝殿』『天満宮
 『稲荷神社』などを回って蔵王堂を後にする。





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Img_0048Img_0049Img_0050  旅館までは急坂を上るので、ゆっくりと周囲を見物しながら歩く。
 平成15年4月の桜見物に来た時のことを思い出し、後醍醐天皇を祭神とする吉水神社

 付近からの眺望を期待して山門付近まで行ってみる。


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Img_0052Img_0051Img_0040  やはり曇天のためか、すっきりとした眺望は得られなかった。
 汗を流しながらの途中,この地方の名物の薬屋の
 『ダラスケ丸』(胃の薬)の古い店構えが珍しい
 ようやく旅館まで上り着いた時は、汗をたっぷりかかされてしまった。

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 10時に旅館を出発、向かう先は多武峰・談山神社。

大和多武峰鎮座 談山神社 御祭神 藤原鎌足公
 舒明・皇極二代の天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしいままにしていました。
 この時、中臣鎌子(後の藤原鎌足公)は強い志を抱いて、国家の正しいあり方を考えていました。
 たまたま飛鳥の法興寺(今の飛鳥寺)で蹴鞠会があったとき、聡明な皇太子として知られていた中大兄皇子(後の天智天皇)にまみえることがで
 き、西暦645年の5月、二人は多武峰の山中に登って、「大化改新」の談合を行いました。
 後にこの山を「談い山」「談所ヶ森」と呼び、談山神社の社号の起こりとなりました。
 鎌足公の没後、長男の定慧和尚は、留学中の唐より帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し、十三重塔を建立しました。
 大宝元年(701)には神殿が創建され、御神像をお祭りして今日に至ります。【談山神社パンフより】
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 吉野から30分余りで着いた談山神社の駐車場は、人の波に溢れている。
 この周囲の紅葉は今や盛りと色づいている。やっと紅葉見物に相応しい場所に着いた。
 駐車場からは、昼食場所の多武峰観光ホテルのマイクロバスで神社の入口まで送ってくれる。
 その途中には土産物の店が並んでおり、多くの観光客がそぞろ歩いており大変な混雑だ。
 神社の入口でガイドの説明があったが,周囲の雑音で殆ど聞こえないほどだ。
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     【神廟拝所】                                                        【十三重塔】
Img_0054Img_0055  神廟拝所の前にある『蹴鞠の庭』から階段を上がると『権殿』と『十三重塔』のある場所に

 出る。







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Img_0056Img_0062  権 殿
 室町時代から延年舞や能が演じられ、伝統と革新の芸能を競いあってきたこともあり、

 芸能、芸術に携わる人々の守り神として、また上達を祈る場として崇拝されているという。





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Img_0066Img_0068  さらに階段を上がると左手に西宝庫があり、楼門を潜ると本殿がある。

 本殿には多武峰縁起絵巻や談山神社文書などが展示されている。

 そして右手の回廊から見る紅葉が一段と見事で,ここで写真を撮る方が多く、

 シャツターを切るのに苦労するほどだ。




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Img_0072Img_0077  本殿の回廊でしばし紅葉を愛でた後、階段を降りて左へ回り、拝殿と東殿を見て正面入口へ

 と降りる。







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Img_3257Img_0076  昼食は、正面入口前にある多武峰観光ホテルの2階レストランで。

 ここからは談山神社の全貌が一望できる絶好の場所。

 食事の味が一段と良くなる。

 食後、5階のベランダからの絶景を、心ゆくまで楽しむことができた。




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Img_0078Img_0079   以上ですっかり紅葉に酔い痴れて談山神社を後にすることができました。
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 バスは再び飛鳥に戻り、日本最古の僧寺・飛鳥寺へと向かいました。


 

 

 

飛鳥・斑鳩
 談山神社から20分ほどで飛鳥寺駐車場に到着する。 
 飛鳥寺はかって訪れているが、遥か昔のことなので、飛鳥大仏の火災に遭われた痛々しいお顔が印象に残っているだけでした。
 ここは拝観者が少なく,我々が到着すると直ぐに講堂内の飛鳥大仏の前で、係員からの説明がありました。
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飛鳥寺
 飛鳥寺は 596年、蘇我馬子が発願して創建された日本最古のお寺です。
 寺名を法興寺、元興寺、飛鳥寺で、現在は安居院と呼ばれています。
 奈良市にある元興寺は平城遷都と共にこのお寺が移されたものです。このお寺はひっそりと建っていますが、近年の発掘調査では、東西 200m、南北 300m、金堂と回廊が
 めぐらされた大寺院であったうです。
 現在の建物は江戸時代に再建した講堂(元金堂)のみを残しています。
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 講堂の中には、本尊飛鳥大仏が祀られています。
 606年に推古天皇が中国から渡来した鞍作止利仏師に造らせたそうで、東大寺の大仏よりも 150年年上で、お顔を比べると東大寺大仏よりもきつい感じがします。
 又、飛鳥大仏の特徴として手の指と指の間には水鳥の足のように襞がついていて繋がっています。
 これは、何人たりとももらさず救い上げるという仏の教え表しているそうです。
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 この飛鳥大仏は2度の金堂消失と一時期雨ざらしにされていたことによりかなり破損し、頭と指しかなかったのですが発掘により、様々な部分を見つけ修理していきました。
 つぎはぎが見えるのはその為です。
 又ここは大化の改新を起こした中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠会で最初出会ったと伝えられています。
 蘇我入鹿を天皇の前で暗殺して大化の改新となる訳です。
 蘇我氏のお寺ということもあってお寺のすぐ横に、入鹿の首塚があります。
 当時は蘇我氏の立派なお屋敷が多くあったそうですが、現在は田んぼの中にひっそりとしています。
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 説明が終わると,講堂内の撮影を自由にどうぞとのことで,改めて飛鳥大仏の写真を撮る。
 講堂を出て100mほどのところに、蘇我入鹿の首塚がひっそりと建っている。
 その塚の前にはお花が供えられているのが目に付く。お花を供えた人の心の温かさを感じさせられた。
 塚の左手では,発掘調査が行われている。
 この付近では現在でもこのように発掘調査が続けられていることを改めて教えられました。
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 次いでバスは斑鳩の里にある法隆寺へと向かう。
 バスガイドは斑鳩について、次のように説明する。
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斑 鳩
 斑鳩という名は、一説によると、この地に【イカル】という大きさはムクドリぐらいの鳥が群をなしていたためだと言われています。この鳥は、漢字で斑鳩・鵤とも書きます。
 また、伊香留我伊香志男命(いかるがいかしおのみこと)がこの地の神として、祀られていることから言われたという設もあります。
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 そう言えば、妻が法隆寺の境内でしばしば【イカル】の声が聞こえると言ってましたが……。
     *
 バスは飛鳥寺から一時間余りで法隆寺の大きな駐車場に着きました。
 午後の遅い時間帯のためか駐車場はガラガラ、バスは我々の乗って来たものだけでした。
 ここから両側に松並木のある長い参道を通って、ようやく南大門に着きます。
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 ここでガイドから法隆寺の概要を聞いて、いよいよ西院伽藍へと入ります。
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法隆寺
 法隆寺は飛鳥時代の姿を現在に伝える世界最古の木造建築として広く知られています。
 その創建の由来は、「金堂」の東の間に安置されている「薬師如来像」の光背銘や『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』(747)の縁起文によって知ることができます。
     *
 それによりますと、用明天皇が自らのご病気の平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願されましたが、その実現をみないままに崩御されたといいます。
 そこで推古天皇と聖徳太子が用明天皇のご遺願を継いで、推古15年(607)に寺とその本尊「薬師如来」を造られたのがこの法隆寺(斑鳩寺とも呼ばれています)であると伝
えています。
 現在、法隆寺は塔・金堂を中心とする西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられています。
     *    
 広さ約18万7千㎡の境内には、飛鳥時代をはじめとする各時代の粋を集めた建築物が軒を連ね、たくさんの宝物類が伝来して
 います。国宝・重要文化財に指定されたものだけでも約 190件点数にして2,300余点に及んでいます。
     *
 このように法隆寺は聖徳太子が建立された寺院として、1,400年に及ぶ輝かしい伝統を今に誇り、とくに1993年12月には、ユネスコの世界文化遺産のリストに日本で初めて登録されるなど、世界的な仏教文化の宝庫として人々の注目を集めています。
     *
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 中門から入ると五重塔と金堂が目の前に姿を現します。
     *
五重塔
 高さ 32.5mで、わが国最古の五重塔として知られている。
 内陣には奈良時代の初めに造られたという塑像群があり、東面は維摩居士と文殊菩薩が問答、北面は 釈尊が入滅、西面は釈尊遺骨(舎利)の分割、南面は弥勒菩薩の説法など
 の場面が表現されている。
     *
金 堂
 法隆寺の御本尊を安置する聖なる殿堂で、この建物の中には聖徳太子のために造られた金銅釈 迦三尊像(飛鳥時代)、太子の父君用明天皇のために造られた金銅薬師如来座像
(飛鳥時代)、母君穴穂部間人皇后のために造られた金銅阿弥陀如来座像(鎌倉時代)、それを守護するように、樟で造られたわが国最古の四天王像(白鳳時代)が、邪鬼の背に
 静かに立っています。
 また周囲の壁面には、世界的に有名な壁画が描かれ,創建当初の美しさが偲ばれます。
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 西院伽藍の回廊から外へ出て、鏡池の側に立つ聖霊院とその奥にある大宝蔵院を見学し、東大門を抜けて東院伽藍へ向かう。 
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聖霊院(鎌倉時代)
 聖徳太子の尊像(平安末期)を安置するために、東室の僧坊の南東部を改造したのが聖霊院です。
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大宝蔵院
 中央に百済観音像(飛鳥時代)を配置した宝物館で、わが国を代表する数々の宝物が展示されています
 百済観音像は、日本の仏像には珍しい八頭身のすらりとした姿と、優美で慈悲深いその表情は多くの人々を魅了しています。
 その他有名な夢違観音像(白鳳時代)、推古天皇御所持の仏殿と伝える玉虫厨子(飛鳥時代)、蓮池の上に座す金銅阿弥陀三尊像を本尊とする橘夫人厨子(白鳳時代)をはじめ
 百万塔、中国から伝えられた白檀造りの九面観音像、天人の描かれた金堂小壁画などが安置されています。
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 東大門を潜り、長い土塀の続く道を往く頃には、足が大分重く感じられるようになりました。 
 そして、今回のツアーのもう一つの目玉である『法隆寺秘宝展、夢殿救世観音菩薩立像特別開扉』の夢殿に辿り着きました。
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東院伽藍
 この地は、聖徳太子が住まわれた斑鳩宮の跡地で、太子の死後、遺徳を偲んで建立された『上宮王院』という別の寺院でした。
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夢 殿(奈良時代)
 上宮王院の中心となる建物がこの夢殿です。八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子等身の秘仏救世観音像(飛鳥時代)を安置し、その周囲には聖観音菩薩像(平安時代)、
 聖徳太子の孝養像(鎌倉時代)、乾漆の行信僧都像(奈良時代)、平安時代に夢殿の修理をされた道詮律師の塑像(平安時代)なども安置されています。
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救世観音菩薩立像(飛鳥時代)
 高さ178cmの木像で、宝珠を手にして立つ姿は聖徳太子等身の像であると伝えられ、長い間秘仏として人々の眼から閉ざされてきましたが、明治17年、岡倉天心とフェノロサに よって厨子が開かれました。
 以来、春と秋の年2回公開され、神秘的な顔立ちが多くのファンを引き付けています。
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舎利殿・絵殿(鎌倉時代) 
 舎利殿は聖徳太子が二歳の春に、合掌された掌中から出現したという舎利を安置する建物で、絵殿には聖徳太子一代の事蹟を描いた障子絵が納められています。
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 これで法隆寺の主な見どころの見学を終へ、駐車場へ戻ることになる。
 広い境内での2時間余りの見学に、すっかり足が重くなってしまった。ただ、朝方の小雨状態から次第に天候が回復し、法隆寺に着いた頃から雲が切れ出した青空が大きく広
 がり、夕日が眩しく輝いてくれたのがなによりでした。
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 これで今日のスケジュールは終わり、夕食場所の橿原まで1時間ほどかかって、日本料理店の萩王に到着しました。
 趣ある旧家を利用した店内で、無農薬、有機栽培の野菜を中心とした天然の素材のみを使った懐石料理を楽しむことになる。
     *
 今晩のメニューは、胡麻豆腐から始まり、大和牛の燻し寿司、鱒のスモークと薄いか塩造り、貝柱と生湯葉の茶碗蒸し、大和
 牛ロースの炭火焼、富有柿の田楽、手打ち蓮根うどん、そしてデザートは福みどりというコース。
 中でも西吉野の契約農家の富有柿の田楽が、‘ 柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺 ’ の句を思い出させる話題の一品でした。
 それぞれの量は少ないが、小生にとってはこれで大満足でした。
     *
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     *
 これで長い一日が終わり、今日の宿『橿原ロイヤルホテル』へ10分ほどで到着しました。
 ホテルのロビーでは、クリスマスツリーと『せんとくん』が迎えてくれました。

 


飛鳥・吉野

2012-11-21 00:00:00 | 旅行記

平成24年11月21日()

 紅葉を求めてクラブツーリズム社の『斑鳩・飛鳥・室生古道 悠久の大和路』というツアーに参加しました。
     *Img_0003Img_0002
 集合場所である東京駅に早く着いたので,この10月1日に復原工事が完成した丸の内側の駅舎を見物することにしました。
 1914年に辰野金吾の設計により竣工した駅舎が、1945年5月の空襲で焼失したものを復原したもので,鉄筋レンガ造り

 3階建,全長 330m、総面積 9,545�、往事のムード溢れる堂々たる建物。
 画像は、丸の内北口のドームの天井と壁面、それに丸の内側から撮ったものです。
     * 
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     *
 11月も20日を過ぎて気温も大分低くなり,新幹線の車窓からの富士山も白い姿を見せてくれる。
 京都駅では『せんとくん』の出迎えで近鉄・奈良行に乗換える。
     *
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     *
 近鉄を大和西大寺駅でバスに乗換え、先ず謎を秘めた巨大石室古墳の石舞台古墳へ向かう。
     *Daigoku_012
 出発して間もなく,車窓左手に広大な平城宮跡が見えてくる。
 道路際の建物があって、その全貌は見ることができませんが,平城遷都1,300年にあたる平成22年に復原された『第一次大極殿』が見え隠れしていました。
     *
 バスガイドの大和三山などの案内を聞きながら,晩秋の柔らかな日差しを浴びた奈良盆地の景色を眺めかって飛鳥の里を自転車で観光した際のことなどを思い出していました。
     *
大和三山
 大和三山とは、奈良盆地南部、飛鳥周辺にある 3体の山々の総称で、耳成山(139m)、畝傍山(199m)、天香具山(152m)をいう。
     *
MimisUnebisKugus







     *
 その天香具山を左に回り込むようにして丘陵地帯にある石舞台古墳に到着する。
石舞台古墳
 石舞台古墳は、横穴式石室を持つ方形墳で、築造は7世紀の初め頃と推定されます。
 既に古墳上部の封土は失われ、巨大な天井石が露出した姿になっています。
 被葬者は不明ですが,6世紀後半にこの地で政権を握っていた蘇我馬子の墓ではないかといわれています。
 昭和8年と10年に本格的な発掘調査が行われ,その結果、玄室の長さ 78m、幅約 3.4m、高さ 4.8mで大小 30数個の花崗岩が使用されており、天井に使われている石の重さは 北側が約 64 t 、南側が約 77 t 、総重量は約 2,300 t という大規模な古墳であることが判明しました。
 石舞台の名の由来については,一般には石の形状からとされていますが、昔狐が女性に化けて石の上で舞を見せた話や、この地にやって来た旅芸人が舞台がなかったので仕方なくこの大石を舞台に演じたという話もあります。          【拝観券より】
     *
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     *
 次いでバスで5分ほどの所にある、聖徳太子の生誕地といわれる橘寺へ。
     *

 橘 寺
Img_0029Img_0031  橘寺は、聖徳太子誕生の地に太子自身が創建されたとされる天台宗の寺院で、正式には

 「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。      

 この橘とは、日本書紀によると田道間守が垂仁天皇の勅命を受けて不老不死の薬を求め,

 海を渡り10年後にある種を持ち帰りました。

 しかし、その時は既に天皇は亡くなられており、仕方なくその種をこの地に播くと,芽が

 出たのが橘(みかんの原種)であったことから、以来この地を橘と呼ぶようになったという。

 史実としては、橘寺の創建年代は不明で、ほとんどの建物は天武天皇 9年に焼失し,現存するのは江戸時代に徐々に再建されたとのこと。
 太子堂と呼ばれている本堂は元々講堂で,中に安置されている本尊は,聖徳太子 35歳の像(重文)で太子の彫刻としては最も古いものだという。
 また、収蔵庫には聖徳太子絵伝があるという。                             【奈良観光資料より】
     *
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     *
 この後は吉野山へと向かう。
 吉野はご存知「一目千本」と言われる桜の名所,麓から山頂に向かって,下千本,中千本、上千本,奥千本と呼ばれる、総数約3万本の桜が覆う
 山域が吉野山で、その桜の紅葉が期待されたが、何と今年は早くもその殆どが散ってしまっていたのにはがっかり。
 バスは吉野山観光車道といういわゆる歩行者天国ではない見通しの悪い道路を走るので,所々にあるもみじが紅葉していたが、数が少なく何とも
 寂しげに感じるのみだった。
     *
 バスが今日の宿『竹林院群芳園』に着くと,金峰山寺蔵王堂で行われる夕座参拝に参加するため直ちに旅館のマイクロバスに乗換えて出発する。
 夕座とは、法華八講など、朝夕二度の法座(説法を聞く集まりの座)のうち、夕方に行うもの。
 10分ほどで金峰山寺下に到着。本堂への階段付近の紅葉が見事だ。
 階段を上ると蔵王堂の格式ある建物が目に入る。ここで早速堂内に案内される。
     *
金峰山寺
 大和の国 、吉野山から大峯山山上ヶ岳にかけての一帯は古くは金峯山(きんぷせん)と称し、古代より世に広く知られた聖域でした。この金峯
 山に役行者神変大菩薩が白鳳年間(7世紀後半)に修行に入り、修験道独特の本尊・金剛蔵王大権現を感得されます。この姿を桜に刻んで、山
 上ヶ岳(現:大峯山寺本堂)と山麓の吉野山(現:金峯山寺蔵王堂)に祭祀されます。これが金峯山寺の開創と伝えられています。
 明治7年、明治政府により修験道が禁止され、金峯山寺は一時期、廃寺となり復職神勤しますが、同19年に天台宗末の仏寺として復興。
 昭和23年には、蔵王堂(国宝)を中心に、金峯山修験本宗が立宗し、その総本山として今日に至っています。山号は国軸山、宇宙の中心の山とい
 う意味を号しています。
蔵王堂Img_6301
 蔵王堂は、金峯山寺の本堂。秘仏本尊蔵王権現(約7m)三体のほか、多くの尊像を安置しています。
 重層入母屋造り、桧皮葺き、高さ 34m、四方 36m。堂々とした威容の中に、優雅さがあり、た
 いへん勝れた建築という高い評価を得ています。
 金峯山寺内では古くから、白鳳年間に、役行者が創建されたと伝えており、また、奈良時代に、
 行基菩薩が改修されたとも、伝えています。
 その後、平安時代から幾度か焼失と再建を繰り返し、現在の建物は天正20年頃に完成したもので
 す。大正5年から13年にかけて、解体修理が行なわれ、昭和55年から59年にかけて、屋根の桧皮
 の葺き替えを主として大修理を行ないました。          【金峰山寺パンフより】
     *
 今日の夕座参列は,蔵王堂の秘仏ご本尊金剛蔵王大権現特別御開張に合わせての意味合いもあり、堂内に入って座り,内陣後方の造り付けの厨子
 に安置されている本尊の蔵王大権現の三体の立像に目を向けて息を呑んだ。
 青黒い大きな顔の巨像が目をつり上げ,歯をむき出して怒っている。中央の一番大きい像は高さ7m28�あるという。胸の飾り,彩色も豪壮で,
 右手を振り上げ、右足を高く上げて左足で全身を支えている。
 ここで案内の僧侶から次のような説明がある。
 「金峯山寺にお祀りされる御本尊は、金剛蔵王大権現であります。今から1300有余年前、金峯山山上ヶ岳に役行者が一千日の修行に入り、感得
  された権現仏であります。権現とは権(仮り)に現われるという意味で、本地仏の釈迦如来(過去世)、千手観音(現在世)、弥勒菩薩(未来
  世)が権化されて、過去・現在・未来の三世にわたる衆生の救済を誓願して出現されました。」
     *                   
                   Img_3267_2
                                   【ツアー・パンフより】
     *
 5人の僧侶が内陣に入り,夕座が始まる。
 鐘を鳴らし、太鼓を叩き,法螺貝を吹き読経が続く。本堂の外からの冷たい風に、堂内の蝋燭の火が激しく揺れる。次第に寒気が厳しくなり,脱いでいたコートを羽織る。
 読経の終り頃になると,東日本大震災の罹災者や夕座に参列した方々に対する家内安全などのお祈りの文言が入る。
 参列者の焼香が済むと,30分ほどの夕座が終わり,堂内の両脇と裏手にある諸仏像(開祖 役行者、金剛蔵王権現、他)を順拝する。
     *
 貴重な体験をした後,竹林院群芳園へ戻る。
 冷えた身体を風呂で暖め,食事処・鳳龍で 夕食。
      +
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     *
竹林院群芳園
 世界遺産にも登録された、吉野山、上の千本、一万坪の敷地の中に、自然と溶け込みつつも凛とたたずむ宿。それが竹林院群芳園です。
 そもそも竹林院は椿山寺(ちんざんじ)と称して、聖徳太子建立の一寺と伝えられ、古来より、修験道に努める山伏の宿坊として利用されました
 豊臣秀吉や与謝野晶子など、数多くの文人墨客の宿としても愛され、昭和56年には昭和天皇皇后両陛下御宿泊の栄を賜った歴史を持ち、今に至る
 まで広く親しまれてまいりました。    【旅館パンフより】


下呂・飛水峡

2012-11-06 00:00:00 | 旅行記
 起床すると昨夜来の雨が降り続いている。飛騨川を挟んだ山々も雲に覆われている。
 部屋から見える紅葉も濡れて色が冴えない。
 天気予報では9時頃までには雨も止む見込みという。
     *
 朝食は別室のお食事所で和食。椅子席なのは昨夜と同じで、ゆっくりと食事を楽しむ。
     *
Img_3221Img_3224  出発までの時間は、館内の案内をして下さるとの
 ことでお願いする。
湯之島館
 昭和6年創業の湯之島館は、下呂の街並みを見下
 ろす敷地5万坪の庭園に佇み、その自然を活かし
 ながら建てられた。
 創業昭和6年当時の玄関、渡り廊下、木造三階建
 て本館は登録有形文化財に指定されている。
 本館の部屋は、1部屋ごとに飛騨の名工が想いを
 込め、随所に銘木を使用し、現代のように詳細な
 内装設計図もない当時、棟梁たちのインスピレー
 ションによる意匠を造り、一方、目に見えぬ細部にいたるまで技術にこだわり建てられたもので、簡素でありながら品位がある。
 また同時期に建築された洋館では、手焼きのタイルや窓ガラス、ステンドグラスを今もなお楽しむことができ、まさに和洋の意匠の粋を結集した
 往時の浪漫と贅を今に伝えています。
     *
Img_3220Img_3219  『七重八重の間』は、昭和33年秋 、昭和天皇・
 皇后両陛下が泊まられた部屋、本間31帖に控えの
 間を備えた純和風の部屋。
 『雲井之間』は、昭和51年夏、 今上天皇・皇后
 両陛下が泊まられた部屋で、天然温泉檜風呂と茶
 室を備えた部屋。
 左は『七重八重の間』の廊下から下呂市内を撮っ
 た画像です。
 昭和初期のロマンを秘めたサンルーム、クラブ
 『ムーンライト』、その他ビリヤード、卓球台、
 カラオケルームなどを見物して館内の案内が終
 わる。        
     *
Img_3227Img_3222
 左の画像は左が玄関、右が館内にある山の足湯で
 す。







     *
 幸いにも旅館を出発する頃には雨も上がり、今日は先ず縄文公園へと向かう。
 一昨日訪問した下呂温泉合掌村を過ぎてからの標識がよく分からず、大分先まで行ってしまう。
 山の中の道から引き返し、途中の道路工事の方に聞いてやっと場所が分かる。
     *
Img_3232 Jloweb 縄文公園・峰一合遺跡   
 縄文時代の竪穴住居2軒と弥生時代の住居1軒が復
 元されている。
  縄文時代前期から弥生時代にかけて集落があった
 峰一合遺跡からは、おもに「下呂石」を使った石
 器類や土器類が発見されているという。
 縄文公園横には「下呂ふるさと歴史記念館」が建
 ち、湯ヶ峰もあわせてこの一帯を「歴史の森」と
 呼んでいる。
 下呂温泉合掌村と縄文公園を結ぶ縄文橋からは、
 下呂の街並みが一望できる。
     *
Joumonkouen Img_3229 下呂ふるさと歴史記念館
 1966年から1970年の間に発掘調査された峰一合遺
 跡の調査成果公開の機関として、1972年5月1日
 に中部山岳考古館という名称で開館。
 その後1995年に下呂ふるさと歴史記念館に館名を
 改称、2012年3月20日リニューアルオープン。
 展示品は旧下呂町の範囲に限らず、下呂・萩原・
 小坂・金山・馬瀬の注目すべき考古・歴史資料を
 展示する「総合型博物館」に生まれ変わったとの
 ことだ。

     *
Img_3230Img_3231  左の画像は『下呂石』の記念碑で、右は縄文橋の
 入口付近のものです。
     *
 下呂石
 下呂石は正式には『湯ヶ峰流紋岩』と呼ばれ、約
 10万年前の湯ヶ峰噴火の際に生成された岩という
 縄文時代遺跡から出土する石鏃などの石器に、黒
 みを帯びた石材が共通して用いられており、湯ヶ
 峰山麓の崩壊で黒みを帯びたガラス質の石材の露
 頭が確認され、それが下呂石と命名されたという
     *
Img_3233湯のまち雨情公園 
 次いで下呂市内へ戻り、『湯のまち雨情公園』へ。
 歌謡詩人野口雨情にゆかりの公園で、温泉街から程近い、阿多野谷上流に広がるところにある。
 野口雨情は昭和初期に下呂温泉を訪れた際に下呂歌謡14章を残されその碑を建立している。
 ところが、ここでは駐車場が見付からず、井口橋付近から上流方面を眺めた程度で済ます。
     *
 以上で3日間に亘る下呂付近での観光を終え、国道41号線を南下して出発点へ戻ることにする。
 途中、飛騨金山のドライブインで昼食。
     *
Img_3239 その後は、往路で見逃した飛水峡を観るべく『道
 の駅 ロック・ガーデンひちそう』に停車。
 「日本最古の石博物館」と道の駅の間に小さな展望台ができており、そこから飛水峡の一部を眺め
 る。
 飛水峡と並行して走る国道41号線より、対岸へと飛騨川を渡るように架かる上麻生橋の上流側と下
 流側から眺めることが一番良いと案内書にあったが、駐車場が無いのがネックだった。





     *
Img_3236Img_3237 飛水峡
 岐阜県の飛騨木曽川国定公園内を流れる飛騨川の
 加茂郡七宗町~白川町にかけて見られる約12km
 に渡る峡谷で、険しい断崖が迫る景観で知られる
 ところ。
 岩場には「ポットホール」と言われる円形状の穴
 が多数見られ、その数は約1000個とも言われる。
 日本有数の甌穴群であり、「飛水峡の甌穴群」と
 して国の天然記念物に指定されるとともに「日本
 の地質百選」にも選定されているという。
 この他、飛騨川沿いには「赤池弁財天」の鳥居が
 建つ甌穴群を望む展望台がある「飛水峡ロックガーデン」や、約20億年前のものとされる日本最古の石が発見された「日本列島最古の石発見地」
 などがあるとのことだ。  
     *
Img_3241 少しばかり物足りない気分を残して南下を続け、最後に立寄ったのは美濃太田宿脇本陣。
 現在そこに住む女性の方からお話を伺う。
 現在は美濃加茂市の一つの町となった太田は、伏見宿から二里ほどの距離にある。
 太田宿は美濃国ですが交通の要衝でしたので尾張領だったとのこと。
 「太田の渡し」から木曾川沿いを下り枡形の道を通り国道21号線へ出ると、そこが中山道と飛騨
 高山道と善光寺道の追分です。木曽川は、我々の進む右手に流れているとのこと。
 「木曽のかけはし、太田の渡し、碓氷峠がなくばよい」と、古くから俗謡にうたわれたという木
 曽川の太田の渡しは、中山道の三つの難所の内の一つであったという。
     *
 以上で3日間に亘る兄弟姉妹旅行を終える。
 紅葉には少しばかり早かったが、天候に恵まれそれなりに自然の美しさを感じさせられるととも
 に、日頃のコミュニケーション不足を補うこともできて、楽しく満足した旅でした。

下呂市内観光・巌立峡

2012-11-05 00:00:00 | 旅行記
 朝の天気予報では「午後からは雨具の用意を」と言っていたが、昼過ぎまで青空が広がる好天となってくれた。
 朝食も部屋食(和食)とは有難い。
 今日の午前中はボランティア・ガイドによる下呂市内の案内を依頼していたので、集合場所の白鷺橋へ行く。  
     *
Img_3168Img_3169  約束の9時前には、既にガイドの細江氏が待ってお
 り、早速案内図により今日のルートの説明がある。
 その橋の中央下流側には『チャップリン像』、上
 流側には『林羅山像』がある。







     *
Img_3174Img_3171  上流側の林羅山は下呂温泉を日本三大名湯と紹介
 された人だが、「チャップリンは何故ここに」と
 細江氏に尋ねると、「町の映画好きの方が世界の
 名優の像を町の各所に建てれば、映画ファンが訪
 ねてくれるだろうと考えて、先ずチャップリンの
 像を建てたが、その費用が1,000万円もかかり、
 資金的に後が続かなくなったためです」と説明さ
 れる。
 チャップリンが町を訪ねた記念ではないとのこと
 で笑いを誘う。
     *
41118  観光の最初はその白鷺橋の近くにある下呂温泉神
 社へ。
下呂温泉神社
 下呂温泉神社は、これまでの歴史に感謝するとと
 もに、下呂温泉の繁栄を願って1989年から出羽
 三山の湯殿山神社の分霊を祀っているとのことだ。
 豊かな温泉の恵みに感謝の気持ちを捧げる下呂温
 泉神社例祭が毎年行われ、観光関係者らが裃姿で
 「お旅行列」を行い、温泉街を練り歩くという。
 ここには『噴泉塔』もある。
     *
 温泉神社から川沿いの道を少し上ると、さるぼぼ七福神社がある。
 さるぼぼ七福神社内には、さるぼぼ黄金の足湯がある。さるぼぼの七福神と金をモチーフとしており「運気」、「幸運」をアップさせることがで
 きるというが……。
さるぼぼ 
 猿の赤ちゃんのことで、昔飛騨地方では、この「さるぼぼ」を、孫にはぬいぐるみとして、娘には良縁子宝、夫婦円満で、病気や事故が去る
 (猿)ように願いを込めて作ってやる風習があったそうです。
     *
Img_3175湯之島の高札場
 江戸時代、ここ下呂郷湯之島から、富山、高山や金山、関、中山道太田宿を結ぶ飛騨街道と、中山
 道中津川宿に至る南北街道が分かれていました。         
 このように交通の要所のため、湯之島(下呂宿)には本陣や荷駄の取り次ぎのための馬繋場として
 伝馬宿が置かれ賑わいをみせていたという。
 幕府はこの場所に高札場を設け、荷駄高札や湯治客に関するお触れを掲示したとのことです。
     *
 この通りは温泉街のメインストリートであり、道路も特殊な舗装をしている。
 日本三名泉発祥碑のある交差点から右折し、急な坂道を上がった処から、さらに173段の階段を昇
 ったところに温泉寺がある。
     *
Img_3179温泉寺
 下呂温泉に伝わる白鷺伝説の薬師如来が祀られた寺。
 下呂には昔、湯の峰から湧き出る温泉が突然止まってしまい村人が困りはてていた時、薬師如来の
 化身といわれる白鷺(しらさぎ)が舞い降りて
 新しい温泉を村人に知らせたという伝説があるという。
 ここにはその伝説の薬師如来が祀られている。
 また温泉の歴史を記した「湯文」など貴重な文化財も所蔵されているとのことだ。
 寛文11年(1671年)に臨済宗妙心寺派の禅寺として建立され元禄期以降、蝦夷地開発に力を尽くし
 た武川久兵衛のお墓があることでも知られているとか。
 毎年秋には紅葉ライトアップが行われるが、今年はこの10日から開催されるとのことだ。
     * 
 階段を降りて元の道に戻り、少し先の右手に加恵瑠神社がある。
加恵瑠(かえる)神社
 平成22年7月、下呂温泉街の新しい観光名所として「下呂温泉加恵瑠神社」が誕生。
 「下呂(ゲロ)」に因んだネーミングと「無事帰る」など語呂合わせのユーモア、縁起やご利益を楽しむスポットとして多くの方に参拝されてい
 るようだ。     
 そういえば、街の所々に蛙の置物が目立ち、道路にも所々に蛙の顔が描かれている。 
     *
Img_3181Img_3182  その少し先の同じく右手の坂を上がった処には温
 泉博物館がある。
温泉博物館
 温泉を化学と文化の両面から紹介する全国でも珍
 しい温泉専門の博物館。
 館内の展示内容は、「温泉の科学」「温泉の文化」
 「ようこそ下呂温泉へ」「温泉博士の部屋」「お
 もしろ温泉チャレンジ」の5つのコーナーからな
 り、分かり易く学べる展示になっている。
 また、歩行浴が楽しめる足湯も併設されている。
     *
 さらにその先に進むと左手に『湯の街ギャラリー さんぽ道』がある。ここにはこの街でロケした韓国ドラマ『赤と黒』の写真が展示されている。
 現在NHKTVで放映中とのことだが……。
     *
Img_3184Img_3185  午前中の最後は道を高札場まで戻り、その反対側
 にある『湯の街ギャラリー 木精(こだま)』で展
 示中の福井正郎作の版画を観賞する。








     *
Img_3186Img_3188









     *
 ここで午前中の観光は終わり、ガイドの細江氏から午後の観光地として巖立(がんだて)峡を勧められたので、昼食の後行くことにする。
 飛騨川沿いの国道41号線を北上するにしたがって、次第に山々の樹々の色づきが濃くなってくる。
 飛騨小坂から右折して小坂川沿いの道を進む。
 御嶽パノラマラインへの道を左に分け、下島温泉を過ぎて杉林の中の道を進むと突然視界が開けて巖立峡の駐車場に到着する。
 車を降りると、先ず目の前にそそり立つ巖立の迫力に圧倒される。
     *
Img_3203巖 立・日本地質百選、岐阜県天然記念物
 荒々しい山肌を見せる巖立は、御嶽の火山活動新規の噴出物である摩利支天溶岩が、兵衛谷に沿っ
 て流下し、溶岩の弱い部分が椹谷によって数万
 年かかって流出し、溶岩流の断面が露出したものです。
 岩質は、両輝石安山岩で、溶岩が冷えて固まる時に柱状の節理となります。
 この断崖の高さは谷から 72m、幅約 120mもあり直立した雄大な岸壁は壮観です。
 小坂川発電所工事の際発見された溶岩流中の木炭片を、平成4年名古屋大学においてカーボン測定
 したところ、約 54,000年前という結果が巖立形成の年代が判明しました。
                            【飛騨小坂観光協会パンフ】


     *
Img_3199Img_3193  小坂町はその豊かな水と急峻な地形により、日本
 一滝の多い町といわれている。
 その数は落差5m以上のものだけで 216も存在し、
 大きさや形状が異なる様々な滝を楽しむことがで
 きるという。これらの滝を巡る13のコースが設
 定されているとのことだ。
 ここ巖立の前を流れる椹谷にも三ツ滝コースがあ
 るのでそれを歩くことにする。

 

     *
Img_3194Img_3195  三ツ滝コースで汗を流した後、再度巖立を眺める。
 その下流には小坂水力発電所があり、その付近の
 紅葉がようやく見頃を迎えている。








     *
Img_3204Img_3201  この頃から雨がパラつき始めたので、下呂へと引
 き返すことにする。
 飛騨小坂から国道41号線に戻ると、こちらでは雨
 は降っていない。どうやら雨は山の方だけのよう
 だ。





     *
 途中、創建は1600年ほど前で、応永19年(1412年)再建の本殿と、天正9年(1581年)再建の拝殿とともに国の重要文化財で、中世の代表的
 な建築様式「三間社流造」を今に伝えているという久津八幡宮を車窓左手に見ながら進み、今日の観光の最後に禅昌寺に立寄ることにする。
     *
Img_3209Img_3212 禅昌寺
 平安時代の創設と言われる臨済宗妙心寺派の禅寺
 で、中国宋朝の様式を伝える建築物は「天下の名
 刹」として威容を誇っています。
 境内には金森宋和が作庭した岐阜県指定の名勝で
 ある庭園「萬歳洞」や茶室、雪舟筆の大達磨像な
 どの多くの寺宝の他、樹齢約1200年を数える国
 指定天然記念物の大杉や勅使手植えのゆかりの梅
 など、貴重なものを多数所蔵しています。


     *
 境内ではちょうど雪吊りの作業中で、ここでの雪の多さが窺える。
     *
Img_3214Img_3215  寺院の見学では、先ず大書院での雪舟の『大達磨
 像』、一名「八方睨みの達磨」が目に入る。
 『筆致の雄勁(ゆうけい)なる、眼光の炯々(け
 いけい)たる、観る人をして粛然として襟を正さ
 しむるものがある』とのパンフの説明が頷ける。
 その他、白隠禅師の書など寺宝を数多く拝観する
 ことができました。




     *
Img_3217 かくして長い一日の観光を終えて下呂に戻り、今日の宿『湯之島館』へ。
 この旅館はかって同窓会(平成17年4月)で利用したことがあり二度目のことになる。
 下呂市内を見下ろす高台にあるので、部屋からは勿論、大浴場からも露天風呂からも見晴しは抜
 群だ。
 夕食は今日も部屋食で、今日の出来事などを思い出しながら、たっぷり時間をかけて充分に楽し
 むことができた。