4世紀までの日本では、青々と繁茂する樹木の生命力に大いなる敬意が払われていました。宮殿や神殿には蔦が絡まり、屋根には草木が繁茂し、まさに大地に根付いた樹木のように見えていたのです。5世紀初頭、そこに頭上を覆い尽くす“天”に、絶対神が住むという「天孫降臨」思想がもたらされます。この天という新たな思想と従来の樹木に対する人々の態度とはどのように関係していったのでしょうか。
5世紀中頃の雄略天皇の時代を記した日本書紀の「雄略紀」のなかに、伊勢の国の三重の采女(うねめ)の歌が紹介されています。そこでは天皇の宮殿を、竹の根、木の根が十分に根をはって繁茂しているように、大地にしっかりと根づいた宮殿であると歌っています。この時の宮殿もまさに草木に覆われていたのでしょうか、樹木の繁茂にことよせて皇室の繁栄を寿いでいるのです。そして宮殿の屋根に生ひたてる、多くの枝の繁茂する槻を指して、その上の枝は天を覆い、中の枝は東を覆い、下の枝は鄭を覆っている、と歌います。ここで東(国)を覆うというのは、「神武東征」にもみられるように、大和朝廷の東方に対する意識の強さをしめしている*01と川添さんは指摘します。また鄭(すなわち田舎)を覆うというのは、大和朝廷にとっての西を意味し、都に対する鄭ということで、大和朝廷の支配圏を示している、というのです。
このように宮殿を覆う樹木の姿は、天下・宇宙を覆う大木に見立てられており、まさに世界樹であるといってもいいのではないでしょうか。それは4世紀以前の、樹木の生命力に大いなる敬意が払われていた伝統に、あらたな支配原理として導入された天が、見事に合体した姿だったといってもいいでしょう
巨木の並ぶ鹿島神宮参道
*01:伊勢神宮-森と平和の神殿/川添登/筑摩書房 2007.01.25