おりょうの万葉浴

おりょうの万葉浴展・ ギャラリー香・2017年12月  

ご先祖様の贈り物

2009-10-05 | moblog


     私の 

  母 

   吉岡俊が  

     生まれたのは

                           明治39年

                       小さい頃は 

                        ランプの生活で

        毎日 

 ランプを 

みがくことが 

 お手伝いだったようです

                母( 旧 山崎俊 )の 

                     父 

   私の 

おじいちゃんは 

 山崎信次郎で

        母の 

                                母

                           私の 

                        おばあちゃんは 

                          山崎すみえ

        という

   名前です

 おじいちゃんは 

   とてもユニークな 

       発想をする 

                           家系のようで

                       三重県伊賀 

                        阿波の 

 山奥で 

   木を切り出して 

      製材所をしていました 

                         明治の 

                          最初の頃

                      三重県伊賀 

        阿波の 

  馬野という 

場所に行って 

  水流のある川で

                          自家 

                       発電機を 

                         作ったりする人でした 

   けれど

 申告を 

   していなかったので 

        やめて

                            名張で 

                            材木商を 

                              始め

  伊賀上野の 

 農人町に 

   自宅があり

                            おばあちゃんは

                           助産婦と 

                            和裁の先生を 

                          していました

   その後

 材木商をやめて 

   名古屋に出て

                             お菓子問屋

                            専用の 

                             旅館業を

    名古屋城の見える

 名古屋駅前の 

   明道町で営みました

      その頃

                             母の 

                            兄の 

                             山崎一夫さんは

    誰も

 持っていないような 

   バイクに乗っていて

                            母の  

                             山崎 俊も 

                                お嬢様育ちでした

   母は 

名古屋の 

  高等女子専門学校を卒業後

                      愛知県立 

                   犬山高等女学校に 

                      11年間 

                         勤めさせて頂いた 

   後に

私の父となった 

  吉岡治平さんの 

                         もとに 

                          嫁ぎました

  名古屋の 

旅館をしていた 

  おじいちゃんは

                            第二次 

                         大東亜戦争中に 

                           次男の戦死と 

                          ともに 

  亡くなりました

 私は 

   小さい頃

     この旅館に

                           戦争が

                         終わる 

                           9才の頃まで

 頻繁に 

   預けられていました

       ので

                              木の

                         横長の 

                       火鉢の前に 

                         おばあちゃんが

  女将として 

   座っていたのを

                              うっすらと 

                         覚えていて

                        おトイレが 

                          水洗式だったのを 

                        よく覚えています

       次は 

 名古屋が危ない

という情報で 

  空襲の前に

     目の前の 

                        名古屋駅まで

                      貨車を出して 

                        布団など

   一切の 

 財産を 

   汽車に乗せておいて

                         おばあちゃんは 

                           伊賀上野の 

       丸の内の

   私の 

 家の 

   長屋に 

 引っ越して来ました

                                ら

                            次の 

                           日に 

                             名古屋の 

                          大空襲で

 旅館も  

   汽車に積んでいた

     財産も

                           一切 

                           丸焼けになりました

       その時

  おばあちゃんは

自分の 

  助産婦院の

                              看板の 

                             板 

                               一枚だけ

 つかんで 

  逃げてきたのが

                            私は 

                              面白かったです

      その後

 おばあちゃんは 

川で 

 さつまいもを作ったり

                            やみ市で 

                     商売を始めたりと

                                              なかなかたくましい 

                                                     女性だと 

                                                  感じていました

       おじいちゃんの 

 兄弟の 

   山崎金五郎

                 という人は

                                                               戦時中に

                                                                    軍人さんの 

                                                                      靴の

           皮を 

  なめす薬を 

   発明

      いたしました

                                                          それから 

                                                          30年程して

                              その 

              金五郎さんが 

  大阪のロイヤルホテルで 

亡くなられた時に 

  子供さんが

    おられなくて

                         親戚中に 

                           財産が配られまして

 私

にも  

  転がり込みました 

                             ので

                          書画材や 

                            勉強費用となって 

                全部 

                  消えましたけど

   技術として 

 この身体に 

   残すことが

      出来たのは

                        ご先祖様の 

                      おはからいと 

                        思います

                           感謝しています

     近い 

 ご先祖様の

生きざまも 

  たくさんの

                            ご先祖様の 

                          贈り物 

                           ですね


    ありがとう於良


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