今日は公休日。家で昼飯を食べていたら我が家の張り切り婆さん(私の母親らしい)が、やってきて、いきなり「見たんな?見たんな?」(讃岐弁ですみません。見ましたか?の意味)と言ってきて「主語がないぞ」と私が言うと「越路吹雪じゃ」と、やっと意味が分かった。
要は先週の金曜日の夜にBS-TBSで放送された「越路吹雪、愛の讃歌スペシャル」を婆さんが見て、私も見ているのか確認したのである。
幸運にも私も見ていました。そして、しっかりと録画までしていた。
越路吹雪の名前を聞いても若い人で知っている人は、もういないであろう。おそらく私が最後の世代かもしれません。
私死んだ父は、生前いろいろな音楽を聴いていましたが好きだったのはミュージカルとシャンソンだったようだ。(演歌は全く流れてこなかった。レコードもなかった)だから私は越路吹雪の名前は小学生の時から知っていた。
越路吹雪は大正13年生れで昭和55年に56歳で死去。元宝塚歌劇団男役トップスターで、「日本のシャンソンの女王」と称された存在。
番組では彼女のライフワークだったと言える日生劇場でのロングリサイタルの映像が放送され、正に圧倒される思いだった。
スケールの大きさ、表現力、そしてステージマナーの見事さ。
このような歌手(シンガーと言うべきか)はもう今の歌手には見当たらない。いないと言っていいでしょう。
さてさて婆さんの話。
婆さんが小学生の時(昭和20年代前半)、大阪の親類の所へ遊びに行った時に宝塚劇場へ連れて行ってもらい宝塚歌劇団を公演を見て、終戦直後の貧しい時代だっただけに、その華やかさに驚いたとの事。そして、その公演で主役だったのが越路吹雪だったとのことで、今日は昔話をさんざん聞かされてしまった。
最後にお宝映像として昭和47年に日本レコード大賞特別賞を受賞したときの映像のこと。
歌ったのは「誰もいない海」。作曲は越路吹雪のご主人の内藤法美。
物凄い貫禄。会場を圧倒する歌声。
さて越路吹雪と言えば「愛の讃歌」。越路吹雪が歌っていたのは岩谷時子の訳詩によるもの。
「愛の讃歌」のオリジナルはエディット・ピアフが歌っていた曲。オリジナルの歌詞との違いを指摘されることがありますが越路吹雪を知り尽くしていた岩谷時子。当然、私はエディット・ピアフの生涯を知っていますが、私は岩谷時子による歌詞は越路吹雪にふさわしい歌詞だと思っています。
その越路吹雪も昭和28年にパリで初めてエディット・ピアフ聴いた時、たいへんな衝撃を受けたそうだ。
「ピアフを二度聴く。語ることなし。私は悲しい。夜、一人泣く。悲しい、寂しい、私には何もない。私は負けた。泣く、初めてのパリで」と。
それ以降、ピアフは越路吹雪の終生の目標となる。
越路吹雪の圧倒的な歌の力。
また時間があれば録画を見直したいと思います。
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