川塵録

『インテグリティ ーコンプライアンスを超える組織論』重版出来!

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水俣出張 ー日本の縮図

2024年05月16日 | 旅行記
水俣出張。

日本の縮図、水俣を肌で感じに。

インテグリティ・エバンジェリストとして、インテグリティを大事にした写真家・ユージン・スミスが、3年棲みついた水俣を肌で感じに。

 ユージン・スミスのインテグリティ(過去記事



なぜ水俣が「日本の縮図」か。

同調圧力。

水俣闘争は、同調圧力との戦いであった。

人口5万、半分くらいは、敵方チッソの社員。

水俣の被害を訴えることは、世間・ムラを敵に回すことだった。

後ろ指を刺されることだった。

村八分に近い、社会から爪弾きにされることだった。

ゼニ目当てか。

親族からも、「障害者の親族と思われたくないから、訴えるな」。

そんな目、目、目、、

「障害者」どころではない、当時は「キチガイ」呼ばわりされ、蔑まれた。

だから、補償を求めて裁判する人は、患者・被害者の、3分の1か4分の1くらいしかいなかった。

残り3分の2とか4分の3は、泣き寝入り、である。



「水俣の被害者である」と声を上げること自体が、とっても、人生を賭けるくらいの、勇気と覚悟がいることだった。

勇気を出して正義の声を上げることが、憚られた。

今の日本の某宗教と、似ていないか。

 ↓  白いビルが、チッソの工場。
   JNCと名前を変えている。



水銀のヘドロがある海は、「水俣エコパーク」という広大な埋立地に。

東京ドーム13個分。



ソフトボール場が4面もある。



この埋立地の下に、3381缶のドラム缶の、水銀に侵された、死んだ魚が眠っている。

水俣病の魚の、墓場でもある。



水俣病が発見されたのが、昭和31年の5月1日とされている。

チッソの運営する病院の院長、東大出の、細川一(はじめ)医師が、チッソの排出する水銀が原因ではとレポート。

 ↓  水俣市運営の、水俣病資料館。



その入り口。



 ↓ 青が、チッソの敷地。年々広がって、1980年には、市街地の半分をチッソ敷地が占める。



「細川一レポート」の5月1日を記念して、今でも、水俣病被害者の慰霊祭は、毎年5月1日に行う。



 ↓ 歴史的な、細川レポート。原物。



 ↓ 細川レポートから3日後、5月4日に、熊本県が、その「チッソ原因説」を取り上げた。歴史が動いた。



政府は「チッソが原因ではない」と論陣を張り、御用学者が曲学阿世的なレポートをしたりした。

 ↓  水俣病患者が、断末魔に、壁を、爪で、掻きむしった。
   その生々しい痕。


政府が「チッソ排出の水銀が原因」と認めたのは、細川レポートから12年も経った、昭和43年。



だから、12年も、水銀が、垂れ流された。

政府が、悪を、10年以上、垂れ流した。

 ↓ 「親の仇」「この仇」が生々しい幟。


昭和43年に政府が「チッソの水銀が原因」と認定してから、裁判で勝利するまで、実に、5年。

昭和48年3月20日に、賠償を認める歴史的判決。


政府が認定してから、賠償までになぜ「5年」もかかったのか、、



いろいろ理由があろうが、被害者団体の相思社の方の説明によれば、「被害を訴えること自体も大変だった」。

法的には、ま、たくさんの原告のそれぞれの被害認定も大変だったのでしょう。

 ↓ 資料館から臨む不知火海(八代海)。綺麗な海でした。



 ↓ 被害者の無念。累計被害者は(公式には)3000人。



 ↓ 水俣エコパークのソフトボール場を臨む。



水俣は天然の良い漁場。

魚湧く海(いおわくうみ)と言われていた。

こういう ↓ 食事を摂っていた。

刺身すごい。















 ↓ ある患者が半年に飲んでいた薬。た、大量、、、



昭和31年5月1日の歴史的な「細川レポート」を受けて作成された報告書。














 ↓ 水俣病犠牲者の慰霊碑。

  毎年5月1日には、ここで慰霊祭をする。




 
 ↓ 相思社(被害者団体)の施設。

  『苦海浄土』を著した石牟礼道子も、創設メンバー。

  石牟礼道子の印税は、ほぼ、この相思社に寄付された。






 
 ↓  相思社の歴史考証館。見応えありました。



 ↓ チッソは今の北朝鮮の興南(フンナム)にも工場を置いていた。

  戦前は、人口20万人の、東洋一の工業都市だった。



 チッソ創業者は、日窒コンツェルン総裁の、野口遵(したがう)。



 細川一医師は、チッソが水俣病の原因ではない、と立証するために、猫の人体実験をした。838匹。

 しかし、400号の猫が、「チッソが水俣病の原因である」ことを示した。

 ↓ 猫の実験の箱。









「怨」の幟は、石牟礼道子のデザイン。

 シンプルで、刺さる。
















 ↓ 石牟礼道子の直筆。達筆。 



 ↓ 12年くらい前に刊行された、石牟礼道子全集。いつか買いたい。



 ↓ 水俣病の「爆心地」。百間排水口。



 すべてはここから始まった。



 ↓ 百間排水口から、水俣港へ。



 ↓ 細川医師は、イプセン『民衆の敵』が好きだったらしい。

 『民衆の敵』は、水俣病とそっくりのイプセンの戯曲。


 

 ただ独り立つ人間が、最も強い。

 山本七平も息子に伝えた。

 「独りで荒野に行け」。




昨年できたばっかりの熊本空港(阿蘇くまもと空港)から、阿蘇外輪山を臨む。





阿蘇くまもと空港の作り、デザインは、勉強になった。

とってもおしゃれ。お土産を買わざるを得ないレイアウト。





 ↓ TKG 630円!!

  原価63円くらいでは、、



 Bye-bye 熊本、アテンドしてくれたMさんOさん、ありがとうございました!



水俣で一番インパクトがあったのは、「自然の美しさ」でした。

八代海(不知火海)、空、内海、天草の島々、、 

この自然を、耳掻き1杯で致死量と言われる、水銀で、チッソが汚染した。

この「自然」と「工業」とのコントラスト。

「天然」と「文明」とのコントラスト。

鮮やかすぎるコントラスト。これは文字では絶対に分からない。

この、今回の、心に刻んだコントラストは、私のなかで醸成して、何かに役に立つはず!


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2 コメント

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家庭連合弾圧と水俣 (一粒の麦)
2024-05-17 20:48:15
家庭連合に対する弾圧と水俣の不思議な繋がりを感じます。
文鮮明氏が既成キリスト教会からのいわれのない告発により1948年5月に収監されたのが、興南窒素肥料工場特別労務者収容所(元の日窒コンツェルン朝鮮窒素肥料株式会社興南工場)でした。その後朝鮮戦争勃発により、1950年10月国連軍によって奇跡的に解放されました。2021年3月、韓国の時事政治Youtubeチャンネル ニュースタウンTVが、同時期に収監されていた金仁鎬氏が著した書籍の中で文鮮明氏を「監獄の中の聖者」として証ししていることを紹介しています。個人のYouTubeにおいて、それとともに同氏の他の書籍やインタビュー内容からさらに詳しく文鮮明氏に関する証言が紹介されています。
https://m.youtube.com/watch?v=iGXKNky3OVw&feature=youtu.be
Unknown (05tatsuは)
2024-05-17 21:17:31
へぇー! だから、家庭連合の方はフンナムをよく知ってるんですね!

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