己れを愛するは善からぬことの第一なり。
修行のできぬも、事の成らぬも、過ちを改むることのできぬも、功にほこり驕慢の生ずるも、皆自ら愛するがためなれば、決して己を愛せぬものなり。
──西郷南洲遺訓 二十六条
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令和の価値観とは違うけれど、明治初期、大西郷が「己を愛するなかれ」と説いていた。
西郷はキリスト教の洗礼を受けたのではという伝説があるほど、キリスト教に触れていた。
「自分が幸せではないと他人を幸せにすることができない」、これが令和の価値観。
その令和の価値観と、真っ向からバッティングしそうなのが、西郷の「己を愛するな」。
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いずれを取るか、正解はないんでしょうが、みなさんの参考に。
私達の教義の中で、重要な概念で堕落性本性という概念があります。これは人間堕落時に偶然に本性のように人間に着いた性質なのですが、「愛の減少感」により①神の立場に立てない②自己の位置を離れ③主管性を転倒し➃悪の繁殖をする、という内容です。
これを一般的な言葉に言い換えると、周囲の愛が足りないと自己愛に走り、①相手・公共のことを考えらず②自分だけの考えに凝り固まり(怒りなどに囚われることです)③相手・公共を自分と自分の考えに従わせようとし➃自己正当化し正当性を訴えて周囲を巻き込んでいく。
というような性質のことを指すでしょうか。
問題を起こす人を観察すると、ものの見事に一致します。
「自分が幸福でないと人を幸福にできない」
これは確かに、一方の真理なんですが、しかしながら、幸福とは何か?ということが判らないとこういう堕落性本性に流れてしまうのではないかと思います。
で、幸福とは何か?と考えるためには人間存在とはどういうものか?ということ考える必要があります。
人間存在というものをよくよく見ると、人間は個であり、自立します。従って、人は人として個として単独で成立するかと言うと?よく人間は社会的動物であると言われるように、人間関係の中で成立するということも一方の真理です。
だから、人間の幸福とは、例えば、美味しい食事をとって幸福を感じるという、個の欲望充実による幸福もあるのですが、しかしながら、深い幸福感というものは、対人関係から得られるようになっています。
親から、妻から、夫から、子から、友人から等々。つまり、幸福とは周囲の人間関係、社会、国家、世界からもたらされるものである、というのも真理であるわけです。
そしてこれが、神の創造理想であり、個が幸せになるためには全てが幸せになる必要があるのだ・・・というのが、私達の教義だと私は理解していますが、
従って、個の幸福と他の幸福は切っても切れない関係であり、私が幸福になるために皆を幸福にしないといけないと私は思っています。
その為には、自分が愛されないと不満に思うのではなく、相手・公共のことを先に思い、相手・公共に対する責務に従い、相手・公共のために行動し、相手・公共を良くしようと努力することが必要だと、私は思っています。
長々と失礼しました。