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Take a Pleasure Seriously

幸せのものさし

2011-08-05 13:06:32 | Weblog
これからは(ほんとはこれまでもだろうけど)、
経済の時代は終わり、
思考や哲学の時代だそうです。
ぼくもそう思います。
この過渡期に生きるぼくらは、
人生自体がとても難しいことのように思えて、
「思考」や「哲学」なんてさらに難しいように一見みえますが、
語弊をおそれず簡単に言ってしまえば、
要は下記の文章のようなことなんじゃないかなと思います。

日本は、
政治や経済の足かせを外し、
文化の成熟したイギリスやフランスのようになるためには、
今がとても大切なような気がします。

ポジティブなひとやことのまわりには、
ポジティブな思考しかあり得ません。
まずはポジティブに、
自分のできることを精一杯できる毎日でありたいですね。


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 「日本は、幸せのものさしの種類が少ない。」

 男ならたくさん稼いで成功すること。
 女ならお金持ちでイケメンでやさしい旦那さんをもらって子どもに恵まれること。
 日本人の幸せは、大きく分けてその二つしかない。

 そして、その二つのものさしで、自分を測っては、 「わたしの人生ってイケてる!」「俺の人生終わった…」 と一喜一憂をしている。

 これはあまり良くない状況かもしれない。

 昔、オーストラリアに長期滞在したとき、
 「日本に帰ったら、また現実がはじまる。帰りたくない」
 と海辺で仲良くなったオッチャンに愚痴ったことがあります。

 そしたら、オッチャンは、ビールを片手に
 「元気だしな。幸せは一つじゃない。もっとたくさん種類がある」
 と完全に酔っ払った状態で教えてくれました。しかし、その言葉には真実味があって、とても胸に響きました。

 そこから先は、英語だったので、あまり覚えていないけど、たぶん次のようなことを言われました。「誰かが決めた幸せのものさしにハマらないからって、落ち込むな。幸せのものさしは、自由に決めて満足すればいい。」

 目からウロコでした。
 たしかにオーストラリアを見回すと、そうでした。
 いろんな幸せな人がいました。自給自足を楽しむのもアリ。男が子育てを楽しむのもアリ。ホームステイで世界中から子供招くのを生きがいにするのもアリ。 昼から浜辺でビールを飲むのもアリ。会社を4時に終えて、そのあとサーフィンを楽しむのもアリ。バーベキューを生きがいにするのもアリ。

 日本でも、こういう人はいると思いますが、まわりから認められてなかったり、痛々しかったりします。

 オーストラリア人は、それを心から楽しんでいる感じでした。
 幸せのものさしを、みんながそれぞれ作って、尊重しあっている。

 早く日本もそうなって欲しい。壊れたものさしは捨てて、みんながそれぞれ作ってしまえばいいのに。そうすればもっと、幸せになる人が増えるかもしれない。

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1 コメント

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terasima@gold.ocn.ne.jp (noga)
2011-08-05 20:05:58
英語圏に行けば、片言の英語でも通じる。暮らしてゆける。
完全な英語でなくても、英語環境がととのっているから通用するのである。
英語環境がととのっている環境で生活していれば、そのうちに、英語も上達する。

我が国においては、どんなに英語が堪能であっても就職先に困る。
それは、人々が英語を使わないからである。これでは、暮らしそのものが成り立たない。

日本の学校で6年間英語の授業を受けてもまず話せるようにならないのは、英語環境が整わないからである。
一歩学校の外に出ると英語を使わないのでは、せっかく習った英語も錆ついてしまう。
日々の学習努力も賽の河原の石積みとなっている。

日本の学生のために英語環境を整えることが、語学力を増すことにつながると考えられる。
それには、英語を我が国の第二公用語にするのがよい。
国民も政治指導者も、英語の使用を日本人のあるべき姿と考えることが大切である。

国際社会において、我が国を代表する政治家にも英語の堪能さが見られない。
日本語のみを使用する社会において、実用にならない言語の学習は空しいばかりである。それにもかかわらず、我が国においては英語教育に名を借りた序列争いばかりが激しく行われている。
英語の学習を民間に奨励するだけでは充分ではなく、英語を習得したことに対する国家の強力な報奨(incentive)が必要であります。
英語を実用の言語とする政治指導者のさきを見据えた努力が大切です。
たとえば、公務員採用試験に英語の能力にすぐれた人物に優遇処置を施すなどの法的裏づけなどが効果的でありましょう。

英米人には、手先・目先の事柄に神経を集中する特技は得られないようである。かれ等は、生涯、歌詠みにはなれないでしょう。
日本人には、英語を使って考えることはきわめて難しい。しかし、これは不可能ではない。全員ではないが、知識人には為せばなる学習であると私は考えています。
わが国民の作る細工物は出来栄えが良い。なおその上、英米流の哲学にも良き理解を示す民族となれば、未来の日本人は鬼に金棒ということになるでしょう。
だから、英語を我が国の第二の公用語とすることには大きな意義があります。実現の暁には、我が国民のみならず、世界の人々に対しても大きな未来が開けることと考えられます。

一見我が国は教育大国を目指しているようであるが、大人の教育はない。つまり、子供が大人になるための教育はない。
我が国においては、教育といえば子供の教育のことを指している。目先・手先のことのみを述べる人は、子供のようである。
大人には考える教育が必要です。一人一人に哲学が必要です。
現実と非現実の間に区別を置くことなく語る人の内容には意味がない。だから、日本の知識人には価値がない。

「感情的にならず、理性的になれ」と国民に訴える指導者がいない。
「国民の感情に反する、、、、、」と言うのでは、主張の論拠にならないが、それのみを言う。
感性 (現実) あって理性 (非現実) なし。我が国は、一億総歌詠みの国にとどまっている。

大学生は入学しても、キャンパスで4年間遊んで過ごすことになる。
無哲学・能天気の大学生は、平和ボケ・太平の眠りの中にいる。
「入学を易しく、卒業を難しく」というような教育方針は現状を観察すれば空しい限りである。

日本人は、国連中心主義が好きなようだ。
国連の議場で世界の人々を説得するためには、自己の言葉が冴えわたる必要がある。
議論のできない人があえて国連中心主義を唱えるのは、自己の他力本願を表明するための手段ということになるのであろうか。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

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