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フルシチョフのスターリン批判

2010年09月09日 05時46分34秒 | 言葉の説明

 

 

フルシチョフのスターリン批判

 軍事的な覇権と、政治的な指導性から離脱し、民族独立の民主制を築こうとした戦いがありました。1956年のことですから今から半世紀以上前のことです。昭和31年の日本ではソ連との間で9月に共同宣言がおこなわれ「ソ連は平和条約締結後歯舞諸島と色丹島を引き渡す」ことが約束されました。

                                                   

 脱水装置付洗濯機や自動ホップアップ型トースターが売り出され、「もはや戦後ではない」
という言葉が聞かれるようにもなりました。終戦から11年が経過して、食糧や衣料品は行き渡り、電化製品も次々と新しいものが市場に出てきています。

 

 スターリンの死後3年経ったのが1956年2月のこと、ソ連共産党第一書記フルシチョフは、歴史的なスターリン批判の演説をおこないました。

 個人崇拝を推奨し独裁政治を行い、大粛正をおこなった悪逆のありさまを批判したのです。
特に大粛正で殺された人たちの数は、あまりにも多くその実態を知ればすべての人が戦慄します。詳しくは スターリンの大粛正 の抄出の記事紹介をご覧下さい。

 

ハンガリー動乱

フルシチョフのスターリン批判は1956年の2月です。当時も今もハンガリーは人口が1,000万人であり、日本に比べれば小国ですが、民族の歴史と誇りは負けてはいません。

ヒトラーの枢軸国がわで戦ったハンガリーはソ連軍に全土を占領され、政府はスターリンの傀儡政権に取り替えられていました。民主的な政権を作ろうと、ハンガリーの学生、労働者そして知識人がデモをおこないました。その中でソ連軍の戦車と衝突が発生してしまいました。火焔瓶やライフルでの攻撃を受けて、いったんソ連軍は撤退しました。

なにかこの構図はタイの政情不安とも、似ている部分があります。米国のアイゼンハワー大統領の周辺では、「鉄のカーテン」からハンガリーを救い出す等と言ったにもかかわらず、政変が実際に暴力的な対立の中で進み出すと、アメリカは口先だけでした。只、傍観するばかりです。そんな中で、体制を立て直したソ連側は戦車隊を押し立てて、革命騒ぎを押し潰しはじめました。

結果、10月の25日には革命騒ぎの鎮圧の大部隊が投入された。都合一千両を遥かに越える戦車と2万名以上の戦闘部隊が投入されることとなった。まさに「戦争」の配備であった。これに対して、火付け役のアメリカ、資本主義陣営では、口先だけでソ連とことを構える気配はない。これで現場では1,000名以上の革命家が命を落とし、ソ連等の制圧がわも数百名が落命しました。

 

 

支那チュウゴクの野戦軍司令官

小沢民主党幹事長は、支那の野戦軍司令官なのだそうな。中国の富裕市民や豪農の金蔵や穀物倉庫をおそって、金品を略奪するのはお手の物。しかし此処は日本国です。法と秩序の蔑(ないがし)ろにされる荒野の支那ではありません。政党助成金を盗み、ダム建設の見返りに賄賂を強要する無法は通りません。

コミンテルンのスパイや、飴ポチの多数生息する司法界は、油断がなりません。そこで新しく検察審査会の制度が作られました。そこで小沢の不起訴はまちがいで、本当は起訴が妥当との決定が下されたのです。

手放し運転の鳩山由紀夫首相はあいかわらず、政府最高責任者の指導責任を放擲したままです。巨額脱税を謀り、検察の追求を潜り抜けたずるさでは天下一品のズル夫です。すべてなりゆきまかせなのでしょう。小沢が「犯罪者」の指標をつけたまま泳ぎ回れば、参院選挙では民主党は多くの浮動票を失うでしょう。結構なことです。司法試験も通れない夜盗のアホウが執行部の長では、大きく議席を減らすのでしょう。これで売国の野望は打ち砕かれることでしょう。

 

一般市民に圧力をかける、汚沢の手下は醜い よりの抜粋記事です。

 

 
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