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日々の雑記

タスクシュートに足りないものは

2021-02-27 11:31:00 | 日記
昨日は頭が割れるように痛く、薬を飲んで即寝ました。本当に頭が割れてしまったらどうしようかと。

さて、タスクシュートをやっていたらそれで万事okかというとそんなこともないような気がする。
記録のその先で、とは言うけれど現状を変えたかったからその記録というボトムとどういう人生にするかというトップが必要になってくる。
逆にそれがないんだったら記録をするもしないも現状に対する満足感の違いでしかないと思う。いや、結局のところそれが大事なのだということもわかりますが。
つまり現状がそのまま続いても特段破滅もなくそれなりに幸せに生きていけるという人にはタスクシュートだけで事足りる気がします。
記録したら人生に安心感をもたらすことは確か。

記録というのは取り出すためのものだと昔何かで読んだことがある。
保存という機能にはただそれを置いておくだけではなく取り出すことも含意されているのだと。
ブログも同じことでなぜ書くのかというと自分で後で読むためでもある。

トップを作ってボトムを安定させて引き上げていく、言うなれば積分ですわな∫
多くの現実主義的な方法論はボトム重視でトップダウン式のものは理想論または妄想と言って退けるし、トップダウン系のものは得てしてそのようになりがちだしボトム系の努力を蔑ろにしすぎでもある。
目の前のことだけコツコツとやっていたらいずれすげえことになりましたというのは適切なものが与えられていた場合のみの話である。
海に出てオールを必死に船を操縦していたら運良く綺麗な島に辿り着くみたいなもんである。
いくら必死に漕いでも必ずそうなるとは限らない。
目標地があってそこに向けて漕がねばならない。
逆に目標地だけあって船を漕がず流れに任せていたら着くという可能性も同様に低い。流され流され気がついたらわけのわからんところにいるということの方がほとんど。

したがって理想を持つことと努力は両輪必要という当たり前の話が、努力型の人には理想は高邁な妄想見え、理想型の人には努力が荒唐無稽に見えるということである。

タスクシュートをやりながら、絶えず理想の生活を考えることは必要不可欠に思う。
その理想的な生活から今の生活がどれほど離れているか、どうやって到達するのか、そういう目線が必要になるんだろう。
レビューとはそのためにある。



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