二・二六事件と日本

二・二六事件を書きます

ふざけた三行半

2020-12-14 18:37:00 | 二・二六事件

安藤輝三大尉の夫人、房子さんが事件を知ったのは、二月十六日の午後であった。
当時、安藤夫妻は、東京世田谷の上馬に大尉の両親と一緒に住んでいた。そこへ満州にいた大尉の長兄から、「変わりないか」という意味の電報が入った。
この日、国内では、一切の報道機関が沈黙を守っており、都民でさえ、近くに住む一部の人を除いては、事件の発生を知らずにいたのだ。ところが、ニュースはいち早く大陸に流れ、弟の身を案じた長兄が、父栄次郎氏に問い合わせの電報を打ったというわわけである。
しばらくして、知り合いの新聞記者が駆けつけ、大事件の発生を知った。だが、当の大尉が事件に参加しているかどうかは、はっきりしない。
前の晩の八時ごろ、大尉の使いの前島上等兵が来たときは「演習用のクツを出してくれ」ということと「家に変わったことはないか」という伝言だけだった。しかも大尉は一週間前から週番指令で、ずっと家をあけている。二児の母とはいえ、まだ二十五歳の房子さんは、いても立ってもいられなくなった。
そのとき、親類の朝日新聞記者が来訪、大尉の事件参加は明白となった。
ほかのみなさん(事件に参加した将校たちをさす)もおそらくそうだろうと思いますが、うちでも、あとで考えてみれば、ヘンなことがございました。そういって、房子さんは、思い出を一コマ一コマたぐりよせるように話しはじめた。



安藤輝三大尉



「十年の十一月末に二男を静岡の実家で産んだのですが、月末に帰ってみると、もっと静岡にいればよかったなんていうんです。子どもにもわたしにもやさしかったし、こんなたぐいのことは言ったことなかったものですから、ヘンだなとは思いましたが、さして気にもとめなかったんです。
それからこれも冗談で、おぜんのうえにサラサラと三行半だけ指で字を書くまねをして、『これをやろうかな』などと言ったこともありました。三くだり半ですね。もちろんふざけ半分で言うものですから、私もいいかげんに受け流していましたが、やはり、本人としては、それなりに思い詰めていたのですね。
たしか十八日だったと思いますが、磯部さんがお見えになって帰られたあと、主人は私を部屋に呼んで『磯部はえらい。軍をやめさせられてもまだ奔走している。お前磯部をどう思うか。もしおれがあんなふうになったら。』などと聞かれたことがございました。
このときは、えらく思い詰めた様子だったので、そのふんい気におされて、なんて答えていいかわからず、うちの両親は平和な暮らしのほうを好むんじゃないかしら、と答えました。きっと、このとき主人は、私のある種の結論を聞きたかったのかもしれませんが、何しろ若いし経験も浅いものですから、ちょっと聞かれて、先のことまでとても考えられませんでした。」
世田谷の安藤家は、時間がたつにつれ、人の出入りが激しくなっていった。取材にくる記者、見舞い客、それに憲兵。情報は、くだんの親類の記者が逐一知らせてくれる。しかし、房子さんや両親の、祈りにも似た想像とはうらはらなものばかりだった。
そして二十九日、大尉が山王ホテル前で自決に失敗し、陸軍病院へかつぎ込まれたという知らせが入った。房子さんは両親とともに、とるものもとりあえず、病院へ向かった。ところが病院側は、がんとして面会を許可しない。
すでに房子さんは、帝国陸軍歩兵大尉夫人ではなく、反乱軍の一家族にすぎなかった。
大尉の軍籍は二月二十六日をもって抹消され、二月分の給料のうち、二十七日以降の分は返却を要求される(だいぶ後のことだが)身分になっていたのだ。
つぎに房子さんが大尉と会ったのは、七月七日のたなばたの日であった。事件発生後四か月あまり、やっと面会が許されたわけだが、しかしこれは“処刑の日近
”ということを意味するものであった。

前の日、大尉から
家族や親類あてに長文の手紙がきた。その中ほどに「本日判決カアリマシタ 固(もと)ヨリ死ヲ命トスル心境ニハ些(いささ)カノ波動モ御座イマセン」と書いてあった。
この手紙のなかから、房子さんに関係深いところだけを抜粋してみよう。
「……御笑ヒニナルカモ知レマセンカ房子ハマコトニシッカリシタ立派ナ夫人テコサイマスカラ私ハ安心シテオリマス トウソ御指導下サヒマス様御願ヒ申上ケマス
房子オ前ハ私ニ今迄モ私ニ代ッテ大変御両親ニ孝養ヲ尽シテクレタカ今後ハ尚一層私ノ不幸ノ分ヲ償ヒヲシテクレ 両児ノコトハヨク皆様ト相談シテ立派ニ育テゝクレ(中略)刑ノ執行マテニ多分面会ヲ許サレルコトト思ヒマスカ両児トハ会ハナイ方カヨイト考ヘテ居リマス(後略)サヨウナラ

上馬
静岡ノ皆々様
大連 輝三」

それから五日間、房子さんは大尉のもとへ日参した。面会は午前、午後と三十分ずつだったが、あるときは、午前の面会をすませ、午後の面会まで待ったこともあった。しかし、まわりのふんい気が、プライベートな会話を許さず、「ききたいこと、いいたいことが山ほどあるのに」それらしい会話は、とうとうせずじまいだった。
この短い時間のなかで、大尉が房子さんに何度もいったのは「堂込と永田(行を共にした曹長)のうちへ、かならずおわびに行ってくれ」ということであった。そして、七月十二日、他の十七名の将校(※1)とともに、二十九歳(※2)の生涯を閉じた。
房子さんは、二十五歳の若さで二児をかかえた未亡人となりそれまで味わったことのない生活苦がのしかかってきた。「はじめのうちは、主人の父と私の実家に面倒をみてもらいましたが、そうばかりもしていられず」かつて、共立女子学園で学んだ洋裁をいかそうと、長男を大尉の母に預け、二男を房子さんの実家に預けて、さらに洋裁学校に入学、寄宿生活にはいった。
二年の寄宿生活の後、房子さんは生家のある静岡に戻り「安藤洋裁学院」を設立。戦時中は一時中止したが、戦後ふたたひ開校、現在に至っている。
当時乳飲み子だった二人の子どもも、今はサラリーマンになり、長男は東京で、二男は房子さんと静岡で暮らしている。

(※1)この日処刑されたのは安藤含め15名
(※2)正確には満三十一歳、数えで三十二歳

1968年 週刊読売より抜粋


離縁をチラつかせ、愛する我が子に最後まで会わない選択をした安藤さんの心情は如何なものだっただろうか。
離縁してしまえば、少しでも家族への負担が減ると考えただろうか、今となっては想像でしか語ることはできない。

「妻たちの二・二六事件」の安藤夫妻に関する項目のなかで著者の澤地久枝は、「夫は妻子を切り捨てた」という表現をしているが、この表現はあまりに失礼ではないだろうか。
未亡人含めご遺族、事件関係者からこの著書が不評を買ったのは、こういう所が原因ではないかと考える。
私は、彼等は家族を含め国民を救うために立ち上がったのだから、切り捨てたとは全く思わない。むしろご家族に関しては信頼していた、感謝していたからこそすべてを託したのだと思っている。




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