9月30日
コース:民宿なぎさ-県道566-県道68-R269-南蛮船係留の大くす-R269-R220-桜島港フェリーターミナル-鹿児島港フェリーターミナル-鹿児島市街-仙厳園-鹿児島西IC-南九州道-薩摩川内都IC-R3-新田神社(可愛山陵)-R3-薩摩川内都IC-南九州道-鹿児島西IC-鹿児島IC-九州道-溝部鹿児島空港IC-R504-R223-史跡洞窟 日本武尊 熊襲隼人-R223-祝橋温泉-R223-R504-鹿児島空港-成田空港-我が家
いよいよ最終日の朝である。早朝、目を覚ました我々夫婦は、民宿の目の前の海岸を散歩しに出かけた。朝の海風が優しく吹いていて気持ちが良かった。丁度朝陽が東の空を明るく染め出して、海岸の景色も夜から朝にお色直しを始めていた。
散歩から帰ると、民宿の朝ご飯ができていて、直ぐに朝食を食べることができた。漁師さんのやっている民宿らしく、魚介類の新鮮さは最高だった。
荷物をまとめると、出発の準備に入った。
宿を出発して少し行くと、南大隈町の町中に入る。ナビの指示に従って進んで行くと、橋を渡った交差点の目の前にかなりの樹齢と思われる大木が1本目に入った。木の根元には「南蛮船係留の大くす」と題する説明版が立ててあった。説明には「南蛮船係留の大くす 町指定文化財(天然記念物)昭和43年12月10日指定 今から約500年前の頃、雄川の河口はこのあたり(木のある付近)まで水も深く天然の良港であった。唐や南蛮、琉球の船が出入りする貿易港で入港した異国船はこのくすにともづなを結び珍奇な交易品を荷揚げしたと伝えられている。また唐船と南蛮船との間に争いが起こり池端弥次郎重尚がこれを仲直りさせようとして唐人の火矢に当たって戦死したと古い記録に見える。 この頃この附近一帯には唐人町もでき港は繁栄した。この大くすは樹齢約千年を重ね、南大隈町根占の栄枯盛衰の歴史を見守ってきた老木である。 大事に保護していこう!! 平成8年2月 南大隈町教育委員会」と書かれていた。
大くすを後にして更に海岸線を北上すると、やがて桜島に到達する。一昨日宿泊した「桜島シーサイドホテル」の前を通過し、「桜島フェリーターミナル」に出る。
当初”フェリーは高い”という先入観があり、湾に沿って陸路を行くことしか考えていなかった。しかし、考えていたよりも1桁ほど安いということが判明し、しかも今回借りているトヨタの「ヴィッツ」は、全長3,885mmと4mを切るため、フェリー料金も千数百円とメチャ安であった。ならば・・・ということで、鹿児島港までのフェリーをチョイスすることになったのである。
公営のフェリーということで、その料金は非常にリーズナブルで、住民の足として繁用されているようである。フェリーの船内で小腹を満たしてくれたのが写真の”うどん”である。Wikiによれば「やぶ金」といううどん屋らしい。”さつま揚げ”が載せられたものだが、結構いけるものだった。
鹿児島港までは僅かな時間だったが、天気も良く、非常に気持ち良いクルーズができた。
鹿児島港に着くと市内を目指した。嫁様のお約束である”お買い物”タイムである。
市内のスーパーを2カ所ほど見て回り、地元の美味しそうな産物を手に入れると少々早目の昼食を摂り、島津公ゆかりの庭園「仙厳園(せんがんえん)」に向かった。
鹿児島には仕事を含め数回来ているが、当地は初めてだった。錦江湾沿いに造られたこの公園(?)はWikiの「仙巌園」によれば「鹿児島県鹿児島市吉野町字磯にある薩摩藩主島津氏の別邸跡とその庭園。別名磯庭園(いそていえん)。敷地面積は約5ha。」とのこと。非常に贅沢な場所に、贅沢に造られている。
尚、同園には”世界文化遺産”となった「製鉄・鉄鋼」「造船」の施設が併設されている。
「仙巌園」の入口 写真後方が駐車場となっている。駐車場には、何台かの関西ナンバーも見られたが、流石に関東ナンバーは発見できなかった。
博物館「尚古集成館(しょうこしゅうせいかん)」 「仙巌園」入口の直ぐ左手にあった。
「磯庭園」の入口 「仙巌園」が別名「磯庭園」と呼ばれる所以である。
「猫神」神社 解説によれば、「猫神(ねこがみ) 猫神は朝鮮出兵の際に従軍した猫を祀る祠(ほこら)です。17代島津義弘(よしひろ)は、陣中で猫の瞳孔(どうこう)の開き具合をもとに時刻を推測したと伝えられており、「時の神様」といわれています。また、百日咳(ひゃくにちぜき)に御利益があるともいわれています。」とのことである。
「島津義弘公所用鎧写」 第17代藩主 島津義弘公の鎧(よろい)のレプリカ。
「仙巌園」を後にすると、今回の”天孫降臨”シリーズ最後(?)となる「天孫瓊瓊杵尊(てんそんににぎのみこと;天津日高彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと))」を祀る「新田神社(にったじんじゃ)」と「可愛山陵(えのやまのみささぎ)」に向かうことにした。
鹿児島県薩摩川内市にある「新田神社」は薩摩の国の一の宮とされ、 その「本殿」「拝殿」「舞殿」「勅使殿」「両脇摂社」は県の指定文化財とされている。解説板には「鹿児島県指定文化財 新田神社本殿 拝殿 舞殿 勅使殿 両脇摂社 平成二年三月二十三日指定 新田神社は薩摩国一宮(さつまのくにいちのみや)とされ、古くから薩摩国を代表する神社です。創建は神亀二年(725)など諸説ありますが、はっきりしたことは分かっていません。 社殿は、中腹にありましたが、承安三年(1173)に消失後、安元二年(1176)に山頂へ遷座され、その後、慶長六~七年(1601~02)、島津義久の命により、現社殿のもとになる改築が行われました。本殿・幣殿・拝殿・舞殿・勅使殿が一直線に並び、本殿両脇に摂社を置き、互いに回廊でつなぐ配置は県内唯一です。また本殿は、仏教寺院の建築様式と類似しており、神仏習合の名残が窺えます。 平成二十一年十二月 薩摩川内市教育委員会」と書かれていた。階段を上った正面(勅使殿)の手前に置かれた狛犬は珍しい「子だき狛犬(安産狛犬)」として「この子だき狛犬は昔から安産に大変霊験ある狛犬と言われております」と解説されていた。「阿(あ)」「吽(うん)」の両犬とも子を抱いている。
「可愛山陵」は「天孫瓊瓊杵尊」の墓所とされているが、今回の旅行で初日(9月28日)に行った「高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ)」と同様宮内庁の管理下にあり、特に解説板などは見当たらず、ただ立ち入りを禁止する立て看板があるだけだった。
「高屋山上陵」「吾平山上陵」「可愛山陵」は神代三山陵とされているとのことで、今回の旅では3つとも見て回ることができた。
新田神社、可愛山陵を後にすると、飛行機搭乗までの時間調整の意味も含めて、温泉を楽しむことにした。ここで目指したのが、空港からあまり遠くない鹿児島県霧島市にある「祝橋温泉」という所である。温泉に向かう途中で「史跡洞窟 日本武尊 熊襲隼人」の看板が目に入り、急遽寄ってみることにした。正直、当地は予め調べてあった訳ではなく、全くの飛び込みで寄ったため詳しいことが分からないまま見学に入ってしまった。
とはいうものの、実はこの地にはある意味有名な話が残されている。古事記、日本書紀ともにほぼ同じような話を載せており、概略はWikipediaをご参照戴きたい。とにかく、この地で日本武尊が熊襲建(くまそたける)を討ったその舞台が当地ということである。
そして「祝橋温泉」に着くと早速目に入ったのが「日本武尊祝宴之地」の碑である。先の熊襲猛討伐の地から近い当地に、討伐を祝った祝宴の地があっても不思議ではないと思われた。碑の近くに立てられた解説には「「祝橋」「日本武尊祝宴の地」の由来 古事記・日本書紀によると、景行二十七年(97年)第十二代景行天皇は倭(やまと)朝廷に服従しなかった熊曾(くまそ)の征伐を第二皇子であった小碓ノ尊(おうすのみこと)に命じました。 まず小碓ノ尊は、伊勢神宮に立ち寄られ、女装や短剣などを受け取り持参されました。次に熊曾の住む隼人国分の動静を探るため、牧園麓の当地の裏山にある寺山を本拠地としました。そして熊曾の頭領熊曾タケルの新築祝いに女装して紛れ込み、短剣で征討されたということです。以降、尊は日本武尊(やまとたけるのみこと)と称されるようになりました。 見事、目的を果たされた尊は本拠地に戻られ、ここ祝橋温泉入口の橋付近で祝勝の舞「久米舞」を踊られたと伝えられています。その頃以降、この橋を「祝橋」、また、この地付近を「踊郷(おどりごう)」と呼ばれるようになったと伝承されています。 一句 いにしえの倭(やまと)の時代(みよ)の久米舞(くめまい)の 昔へいざなう祝橋かな」と書かれていた。
この「祝橋」のすぐ横に「祝橋温泉」があり、宿泊もできるようだったが、今回は日帰り利用にさせてもらった。ここの温泉は「単純泉」ではあったが温度も丁度良く、鹿児島旅行最後の”一っ風呂”には最高の締めとなった。
鹿児島という土地を訪れたのは、過去にも何度かあるが、正に「神々の地」を実感したことは今までなかった。そういう意味で、今回の旅行はいつもとは一味違った趣の旅をすることができた。