プラチナのように輝いて!

定年生活も軌道にのってきました。
シニアー夫婦の日々を綴ります。

原爆の日に寄せて

2008年08月06日 | 家族
私達夫婦は生まれも育ちも 広島 です。
今日8月6日は私達、特に私にとっては、重たい重たい忘れられない日です。

私の父母、姉、そして夫、義父、全て 被爆者 です。
私の父母、姉は爆心地から直線距離で3キロ地点の自宅で被爆しました。
私はといえば、その翌年の8月に生まれ、辛うじて胎児被爆も免れました。

父母は悲惨な被爆体験を多くは語ろうとしませんでしたが、裏覚えに覚えている
父母の話をここに記します。
平和を考える何かのきっかけになってもらえればという思いで・・・。

      昭和20年8月6日の朝 
広島は晴れわたっていました。
原爆が投下される少し前、空襲警報が解除され、大勢の人々が戸外にでていたそうです。
父は前日が出張であったため、会社の規約で30分出社を遅らせていました。
玄関先で靴のゲートルを巻き上げていたその時、午前8時15分
       
       突然の閃光とドカーンという爆音 !

父は自宅の裏庭にB29が爆弾を投下したと思ったそうです。

一瞬にして家の中はめちゃめちゃになりました。
つぶれることはありませんでしたが、家は傾き、ガラスは粉々に飛び散りました。
実家の2階の部屋に知人夫婦が間借りして住んでいましたが、
奥様は全身に飛び散ったガラス片が刺さり、生死をさまよわれたそうです。

実家の2階の柱にはそのままガラス片がいくつか刺さったままで、
障子や襖と柱は合わさることなく、隙間だらけでした。
このことは私の子供達(父母にとっては孫)もよく覚えています。

父はその後、即会社(爆心地のすぐそばにありました)へ向かいましたが、
その爆弾が新型爆弾の ピカドン であることは当然知りません。
(広島の人は原子爆弾のことをピカドンといいます)
ただ会社へ向かう道すがら、これはただごとではないと気がついたといいます。
道には焼けた丸太のように、沢山の人たちがごろごろと転がっていたそうです。

その中の一人、全身焼けただれた若い女性が、
「○○さん、私は○○課の○○です。父母に知らせてください」と住所を言い、
助けを求めました。
あまりの惨さに誰だかわからなかったそうです。

その住所は爆心地、ど真ん中、父はどうすることも出来なかったと悔やんでいました。
会社は跡形もなく、父は無念にもまた着た道を引き返し、
黒い雨を全身に浴びながら、助けを求める人々や転がる死骸をまたぎまたぎ、
母や姉のもとへ急いだそうです。
その 地獄図 は想像にあまりあるものがあります。

幸いに母も姉も怪我ひとつつなく、無事でした。
父が前日出張でなければ、普通通りに出社していたら、父の命は無かったでしょう。
 
父は運の強い人です 


もうひとつの偶然があります。
当時 建物疎開 というのがありました。
あらかじめ特定の建物を取り壊し、空襲の折、火災がひろがるのを防ごうという目的で、
多くの主婦、学生、一般市民が強制動員されました。

母の属していた班(路地ごとに区切ってあったようです)は翌日がお当番でした。
お気の毒に8月6日がお当番にあたっていた一本前の筋の方たちは、
全員お亡くなりになったそうです。
原爆投下がもう一日後だったら・・・。

 母もまた運の強い人です 

この二つの偶然と強運が重なって、私が今ここにいます 


昭和20年 8月6日、父はその命を強運によって救われました。
しかし12年前、まるでその命をその日にお返しするかのように
8月6日その日に、静かに 他界 しました。享年80歳。

今日は父の 命日 でもあります。合掌。


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明日から2日間箱根でを楽しんできます。


                


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10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ご冥福を心よりお祈りします (スキャット)
2008-08-06 20:33:00
今テレビのニュースで観てその話しをしていたところです
広島ご出身とのことで、被爆されていないといいけど・・なんて考えておりましたが
ご両親やお知り合いの方々が、こんなに生々しい体験をされていたとは・・・
衝撃で胸いっぱいになり、言葉が見つかりません
この日がお父様の命日だなんて・・・
けして忘れられませんね

心よりご冥福をお祈りいたします
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悲惨な物語ですね (hisa)
2008-08-06 20:33:17
いま、ちょうどNHKで原爆のスペシャル
番組をやっています。
同時に夢路さんご一家の生々しいお話。
しかもお父さんのご命日。
運がよかったとはいえ、憎むべき戦争
です。直接、原爆の被害を受けなかった
私たちも声を大にして叫びます。
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後世に伝えてください (だんだん)
2008-08-06 21:06:17
ご家族のことを、どうぞ朗読の時にも伝えてください。
私も「九条」の大切さを改めて噛み締めています。
戦争や原爆が分からない世代に、
分かるように伝えるために、
文章をあたためているところです。

以前、夢路さんご夫婦が広島出身なのだと言いかけましたね。
どんな偶然か、ブログで知り合いになる方が、広島なのです。
また、新たに出会う友達も広島で。
朝はラジオ族ですが、今日はNHKTVをつけて、皆さんと一緒に黙祷しました。


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もう戦争は嫌だ (ラッシーママ)
2008-08-06 21:56:58
夢路さんご夫婦が広島出身だという事を以前ブログで知りました。

今日のお昼の番組で広島出身の漫画家(名前は忘れました)「はだしのゲン」を描いている人が被爆され、その後上京して被爆した事を話したら、異様な目で見られた。

もう二度と被爆した事を話すまいと思ったと言っておりましたが、夢路さんご一家の生々しいお話に、ラッシーママが思っていた以上に悲惨で、本当に戦争は嫌だ!と声を大にして叫びたい・・・・
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スキャットさんへ (夢路)
2008-08-06 22:16:16
私も主人と共に、NHKTV原爆スペシャルを見て、改めて胸が痛くなり、いろいろ考えさせられました。
夫は今日のテーマともなっていました「入市被爆者」です。
原爆投下24時間以内に、父に抱かれ、父の妹を探しに、入市したそうです。
妹(夫にとっては叔母)は被爆後、亡くなったそうです。
夫は今はとても元気ですので、原爆症の申請など、考えたことはありませんが、今後はどうでしょうか。
義父は72歳で肺がんで亡くなりました。
私の父も膀胱癌でした。
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hisaさんへ (夢路)
2008-08-06 22:20:26
皆さん、ご覧になっていらっしゃるのですね。
見ていて、様々な幼少の頃の原爆にまつわる思い出が蘇ってきました。
もっともっと書きたいことがありますが・・・。
どうまとめてよいかわかりません。
また機会があれば、触れてみたいと思います。
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だんだんさんへ (夢路)
2008-08-06 22:29:38
若い方達、子供達に父の話を伝える機会があればよいと思います。
私の子供達は直接、父から聞いているようです。
以前から夫とも話しているのですが、孫達がもう少し大きくなって、平和や戦争について、真剣に考えられるようになったら、絶対広島に連れて行こうと!
だんだんさんも是非お孫さんたちを連れて広島を訪れてみてください。
原爆資料館には生生しい原爆の事実が存在し、最後まで見ることが出来ないほど悲惨です。

原爆死没者のご冥福を皆で祈りましょう。
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ラッシーママさんへ (夢路)
2008-08-06 22:38:45
私の両親も姉が被爆していることは余り知られたくなかったようです。
夫も東京へ出てきて、ず~っと周囲の者には被爆者であることは言いませんでした。
何か差別されるようで嫌だったのかもしれません。
身体が虚弱ではないかとか、いろいろ・・・。

8月6日を何の日か知らない若者が大半と聞いています。
もっともっと学校でも戦争の恐ろしさを伝えて欲しいですね。


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ご命日でしたか! (bonji)
2008-08-07 13:53:30
知人は子供を生みませんでした。
出来ないのとばかり思っていましたら、

作らなかったのよと最近告白してきたのです。
ご主人のご両親は長崎で被爆されて、
彼女のご主人は大丈夫の様子ですが、
弟さんはやはり被爆なさった義母の影響で身体が弱く重い喘息で30代で亡くなっています。

間接的に被爆しているご主人と相談、
この悲しさ、悲惨さは後世に語るが、血筋は残したくないと、
結婚当初からの約束だと聞きました。

この悲惨な戦争の終わらせかた、もう少し経ったら孫達にも伝えたいです。

             bonji
            
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bonjiさんへ (夢路)
2008-08-08 20:53:10
コメントのお返事遅くなりました。

そういう方もいらっしゃるかと思うと、あの戦争はまだまだ終わっていないのだな~と思います。
幸いに私の姉は健康で、二人の子供、3人の孫に囲まれて、毎日忙しく、幸せ元気に暮らしております。
あの戦争を間接的ではありますが、語れるのは私達が最後の世代かと思います。
知っている限りのことを後世に伝えていきたいですね。

今から平和のスポーツ祭典、オリンピック開会式を見ます。
応援しましょうね、日本!
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