因みに「Brown」という苗字の由来は、単純に「茶色」が気に入ったから付けたそうです。
しかし実際に茶色の目をしたイギリス人は多く、温か味があって好まれています。
これについてはピンク・フロイドも「Paranoid Eyes」で唄っており、これは戦争から帰って来た人達のPTSDについて歌ったモノですが、「光復党」のセカンド-アルバム「ヒーリング・ライト」に入れる価値のある名曲かと思います。
「ドクター-ブラウン」については、その「赤髭」的な名医の伝説が根強く遺っており、あなたがもしブラウンという苗字を名乗ったならば、その名家との繋がりを訊ねられると思います。
これは中国で「孫」姓を名乗るのと同じコトで、秀祥の父親である孫文徳は家業を継いで医聖としての道を歩みましたが、その善きカルマによって秀祥はアメリカのブラウン家と結び付けた、と描けます。
前置きは以上として、「使徒ジャック-ブラウン」の回想録に入らせて貰います。
因みにジャックは「トランプ」では王子なので、ジャック-ブラウンは「茶色の王子」と言ったニュアンスとなります。 −−
−− ここで私のミュージシャンとしてのキャリアを少し回想させて貰いますと、それはまずフォーク-ソングの「ドック-ブラウン」に影響を受けたと言えます。
私の父もそんな「赤髭」的な田舎のドクターで、ギターと歌は彼から教わりました。
私は軍隊や戦争に組したコトはありませんが、私の世代はその多くが無理やり戦わされて、心と体に傷を負いました。
その傷の深さは人それぞれで、体の傷は完治しても、心の傷はなかなか完治しないモノと私は知りました。
父はそうした心の傷をも癒す名医で、それに歌がよく効くと教えてくれました。
なので私も自然と、幼い頃から「心の薬」になる歌を作ろうとし、そんな私の歌に秀祥は感激してくれました。
私達2人はニューヨークで初めてのレコーディングを終えた後、セカンド-アルバムの着想を得る為にハネムーン的な旅に出ました。
それはまず、セントラルパークでのコンサートで出合った「旅聖ウィリー」に招待される形で、イロコイ-ネーションへと行きました。
そこはネイティブ-アメリカンの女系社会の伝統が強く遺っているネーション(自治州)で、男性は自由気ままな旅暮しをし、女性が社会の中核を担っていました。
私達2人はそこの女性達から特別な歓待を受けましたが、ネイティブ社会の中には存続の危機に立たされている所もあると聴いて、秀祥はそれが頭から離れなくなりました。
何故ならそれは、同じようにチベット民族も存続の危機に立たされており、祖国を奪われ荒野に追放されたナヴァホ族の宿命は、秀祥にはチベット人の宿命と重なって観えたからです。
その後、秀祥がナヴァホの地で起こした「奇跡」については、彼女を「ネイティブのキリスト」と祭り上げるモルモン教徒らによって、そうとう盛られたエピソードが沢山語られていますが、私はその「奇跡」を1番近くで見て来た者として、彼女の人間的な葛藤に焦点を当てたいと思います。
秀祥は確かに特別な女性でしたが、彼女の聖性は「無限の孤独と苦悩」から来ており、私はそんな彼女の苦悩を和らげるコトを使命と感じる様になりました。
私が吟遊詩人として成功したのこのお陰なのですが、これは「歌でしか言えない」(中島みゆきの名アルバム)と思うので、そちらに譲らせて貰い筆を置きます。 −−