この小説は、私が50歳前後から年ほど、時間の許す限り、少しずつ書き連ねて、実は400字詰め原稿用紙70枚程度になっています。完結させようと思っているのですが、未だに仕事を続けている私には時間的な余裕もなく、ストーリーは作っているのですが、途中、文章は歯抜けの状態です。とりあえず歯抜けの状態から、記事を掲載し、それから少しずつ編集と、ストーリーの変更を重ねていこうと考えています。
ひまわり畑 (2004年7月)
バスは右折するとオリーブ畑の中を抜けて海が見渡せる海岸沿いの道路に出た。すると急に大きく視界が開け、空と海、山並みや丘陵、水平線や岬や島影が焼き付くような鮮やかさで飛び込んできた。
道路は丘陵地が海に落ち込む海岸沿いの高台を走っているので、バスの窓からはビーチを見下ろすことができない。水平線近くの淡い水色から天空へ向かって次第に瑠璃色へと変化する空。エメラルドグリーン、コバルトブルー、群青色、藍色と様々な色彩を見せる海。空も海もいつも通りの吸い込まれるような青さで、深緑の島影、赤茶けた岬、黄土色の山肌、灌木に覆われた常磐色の丘、岬の突端に立つ白い灯台、朱色の屋根に亜麻色の外壁の別荘、小さな集落の目映いばかりの白い塗り壁と樺色や鳶色の屋根瓦を、それぞれに鮮やかなコントラストをつけて描き出している。
このあたりの海岸はコスタ・トロピカル(熱帯の海岸)と言われる地域で、コスタ・デル・ソル(太陽の海岸)と言われるマラガを中心としたスペイン屈指の観光リゾート地の東側に位置しているが、観光地化されたマラガやその周辺の町とは違って、昔ながらのスペイン的な風景が色濃く残っている地域である。海岸の背後には三千メートル級の山々が連なるシエラ・ネバダ山脈が見え隠れしており、その山裾が造る丘陵地に挟まれて、海岸沿いにはまるで箱庭のような小さな入江が点在している。
雨が少なく空気が乾燥しているためか、近くに見える山々は薄灰色の岩が剥き出しになっていて、岩の間にしがみつくようにして苔色の下草と灌木が広がっている。
バスは緩やかな下り坂を左にカーブしながら、ホテルのビーチが見える位置にさしかかった。それから右に曲がるとフリオが働くホテルが見えてくる。
白い外壁にオリーブ色の屋根。優子もスペインでの二年あまりの間に何度も通ったホテルだ。バスはこの少し高台にあるホテルから、海岸側にフェンスが続く道を少しずつ下りながら、フリオが勤めるリゾート会社が経営する長期滞在者用のアパートやバンガローやレストランやモバイルハウスなどの建物の横を通り過ぎていく。
バスはホテルの正面ゲート前で待つ男女二人を乗せるために停車した。
二人はガイドブックを見ながら運転手と何かを話しているが、発音が悪いためか運転手は何度も聞き返している。何度か同じやり取りを繰り返していたが、ようやく運転手も言葉の意味を理解したらしく、
「シー(はい)」
と短く答えて、不機嫌そうに首を座席の方に振った。
それでも二人は、言葉が通じたことが余程嬉しかったのか、お互いに微笑みを交わしながらバスに乗り込んできた。
顔見知りだとイヤだと思ったが、幸い先週末からホテルに宿泊しているドイツ人の熟年夫婦で、何度かホテルのプールサイドやビーチで見かけたが、優子とは言葉を交わしたことがない。夫婦は優子の大きな荷物が気になるのか、先ほどから何度も優子の方に視線を送っている。
バスがホテルの前を通り過ぎると、眼下にビーチが広がってくる。視界の奥の方は一般のビーチだが、このビーチの手前側一キロメートル弱がナチュリストを対象としたヌーディストビーチで、スペイン各地に点在するスペイン政府公認のナチュリストゾーンの中では中規模のビーチである。ビーチの全長は海岸にせり出した二つの小さな丘とそれに連なって海に突き出た岩場を挟んで三キロメートル以上に及んでいる。
道路側からホテルのリゾート施設に入るには、フェンスに隔てられて、二カ所に設けられたゲートで、事前に郵送された利用チケットを提示するか、チェックインの際にフロントで発行されるカードが必要なのだが、海岸側からは小さな丘から続く岩場を越えて進めばリゾート施設の利用客以外もビーチに入ることができる。ビーチは午前中だというのにかなり混み合っている。太陽が降り注ぐコスタ・トロピカルの夏はこれからが本番で、このリゾート施設も六月から九月にかけて予約客でほぼ満室の状態が続く。
浜辺で日光浴をする人たち。散策をする人たち。ビーチバレーを楽しむ人たち。波打ち際で波と戯れる人たち。木陰でビーチマットに身を横たえる人たち。その風景は世界中のどの浜辺にもある風景で、一般のビーチと違うところは大半の人たちが体を隠すものを身につけていないということだけである。それぞれが自由と開放感を満喫している。ここから人の顔を識別することはできないが、いつもの木陰で椅子に腰掛けて本を読んでいるのは、その体型からして(愛用のディレクターチェアからお尻がはみ出している)フェデリコと思われる。フェデリコは、それでも最初に出会ったときから見れば、間違いなくスリムになっている。
「・・・・・・・・」
「さよならフェデリコ・・・・」
「・・・・・・・・」
「さよならヌーディストビーチ・・・・・」
「・・・・・・・・」
「さよならフリオ・・・・・・」
「・・・・。さよならフリオ」
バスはホテルを過ぎて、しばらくコスタ・トロピカルの海岸沿いを走った後、近郊では比較的に大きな町であるモトリルに着いた。ここでドイツ人夫婦は席を立った。
ドイツ人の夫婦はバスを降りるときに、優子に軽く手をあげて会釈をした。それに答えて優子が微笑みを返すと、ホッとした表情で街中に消えていった。手を取り合った二人の姿が、白い石畳の坂道に次第に小さくなっていくのに呼応するように、優子の瞳に涙が溢れ、頬をつたっていった。
「しばらく日本に帰って、元気を取り戻したいの・・・・。このままスペインにいると、ますます気持ちが落ち込んでいきそうな気がする。フリオには申し訳ないのだけれど、これまでの色んなことを自分一人で考える時間がほしいの」
フリオは日本に帰りたいという優子を何とか説得しようとしていたが、これまでの優子との生活の中で、優子は一度言い出したら何を言ってもダメだと知っていた。それなら自分も一緒に日本に帰ろうと言ってみたが、今回は一人で帰りたいと繰り返すばかりであった。
優子はスペインでの生活に絶望していた。それはとりもなおさず自分自身に絶望していたのだけれど、そんなことをフリオに正直に伝えるわけにはいかない。
「必ず戻ってきてほしい。いつまでも待っている」
フリオの思い詰めた表情が脳裏を過ぎっていく。
それからバスはモトリルの町並みを山側に右折し、アンダルシアの一面のひまわり畑の中を北上していった。アンダルシアのひまわり畑は、優子の決断を思いとどまらせようとしているかのようにどこまでも続いていた。