フロムYtoT 二人に残された日々

私と妻と家族の現在と過去を綴り、私の趣味にまつわる話を書き連ねたいと思っています。

妻との旅行 1

2020-09-29 23:46:28 | 妻との旅行

 私は妻と結婚してから、3年前までは、妻と海外旅行をしたことは2回しかありませんでした。

 1回は40年以上前の新婚旅行で行った香港・澳門(当時はカメラはフィルムの時代で、途中でフィルムが引っかかり、うっかり開けてしまい、妻との大事な想い出の3分の1を失ってしまいました。・・・・私はいつも肝心なときにとんでもないミスをしてしまうのです)。そして、もう1回は台湾。国内旅行は家族を連れて良く出かけていましたが、当時は、仕事で一杯一杯の状態で、妻と長期で旅行する気持ちの余裕はありませんでした。

 私は、仕事で中国に3回、韓国に1回、台湾に1回、それとスキューバダイビングのライセンスを取りに息子とグアムに1回です。妻は台湾に数回、韓国に数回、ベトナムに1回、子供たちや友達と出かけています。

 私は銀行にいたときも大型のプロジェクト案件を担当させていただいていたのですが、今のグループに再就職してからも、大型案件は、その多くを私が手がけてきました。

 4年ほど前、新しいプロジェクトを立ち上げることとなり、私が指揮をとることになりました。

 60才を超えた年齢から、官庁相手の2年以上にわたるプロジェクトの指揮を執ることは体力的に無理があったのですが、やはり体中が悲鳴を挙げ始めました。

 元々の持病の糖尿病と脳動脈瘤のほかに、回帰性リュウマチ、座骨神経痛、不整脈、不眠症、高血圧などが加わり、体はボロボロでした。

 妻は、

 「仕事止めテ。youさん、死ぬヨ。仕事を止めて、収入がなくなっても、何とかなるヨ。youさん、いつも、仕事辞めたら、『おまえと海外旅行をしたい』と言ヨンヤン。二人で海外旅行に行こうヨ」

 と言うのです。

 それで、仕事が一区切りついた後に、私はトップに

 「12月末で辞めさせて頂きたい」

 と告げました。

 「辞めてどうするの」

 「妻と海外旅行がしたい」(馬鹿なことを言ったモンです。でも真実です)

 「辞めなくても良いじゃないか。休みは取らせるから、旅行が終わったら、うちに戻ってこいよ」 

 ということで、3ヶ月間、1ヶ月半を病院通いで、2週間を妻とスペインで、1ヶ月近くを台湾で過ごし、職場に戻って来ました。

 

 

 


3連休~その1~ここ1ヶ月で体重が3キロ以上増えました

2020-09-24 00:04:55 | 【過去】酔いどれサラリーマン日記

2006.01.10

 

 私は7日は、○○○○○会という集まりの新年会で、正午から夜の10時過ぎまで飲んでいました。その大半を家の近くのリゾートホテルで飲み食いをしていまして、途中、一時間ほどホテルの大浴場で風呂に入っていました。
 ホテルの最上階の見晴らしの良い部屋を借り切っての新年会で、部屋からは福岡市の南側と西側を一望することができます。
 南側は、遠くに、まるで水墨画のように中腹まで雪に覆われた背振山系の山並みが見渡せ、近くに、福岡市の町並みが広がっています。
 西側は、遠くに、博多湾に浮かぶ能古の島や糸島半島のなだらかな山並みや生の松原、近くに、私の住むタワーを中心としたベイサイドエリアが広がっています。景色だけでも幸せな気分になります。
 そのうえ、ホテルが北海道フェアを催していまして、北海道の幸を使った中華料理が最高でした。

 

 宴会の後、数人でホテルの岩風呂に入ろうということになって、小一時間を過ごしたあと、またホテルの32階の中華料理店で中華料理をつまみに酒を飲みました。ことわっておきますが、私は中華料理よりも和食の方が好きで、福岡の活きのいい刺身で飲むのが大好きです。しかし最近は何故か中華料理が多いのです。
 ホテル内にあるその中華料理店は福岡市の西側が望める場所にあって、ちょうど夕日が沈む頃で、夕焼けがとてもきれいでした。中華料理店まで残った数人のうちの一人が、宴会に参加していた人を何名か呼び戻して、また飲み始めたのですが、戻ってきたときと夕日が沈む瞬間とが一緒になり、夕日を見ることができなかったことが残念です。
 それからのことは記憶が途切れ途切れになっています。

 

 私は、ここ10年でダイエットとウェイトトレーニングで体重を15キロ落としているのですが、年末年始の1ヶ月近くの飲み食いで3キロ以上も体重を増やしています。

今月も飲み会が続きます。どうしよう!!!

 

2006.01.14

 

    10日は、私の支店に転勤してきた課長と女子社員の歓迎会。
 12日は、取引先との懇親会。
 13日は、新しく転勤してきた課長とその部下社員との飲み会。

 12日は記憶が残っていたのですが、11日と13日は、いつものように途中から記憶が途切れています。

 

 11日の歓迎会では、そのあとカラオケに行ったのですが、そこから記憶が途切れ途切れになっています。カラオケでは妻の携帯に電話を架けて、携帯をマイク代わりにして、妻に向かってチューリップの「青春の影」や吉田拓郎の「言葉」を熱唱していたそうです。

 

 翌朝、妻から、
「素敵な歌をありがト。でもあんまりみんなに迷惑をかけんでネ」
と言われました。


憧れのギター

2020-09-22 21:05:00 | 日記

 連休2日目

 私は50年近く前に、兄からヤマハのクラッシックギターを買ってもらいました。大学時代は読書とギターと麻雀に明け暮れていました。勉強は、ほぼ一夜漬けでした。

 妻と知り合ってからは、下宿で小椋佳やかぐや姫や井上陽水やさだまさしの曲をクラッシックギターで弾いて、妻と一緒に歌っていました。

 就職をした後、ギターを弾くこともなくなって、暫く経ってギターを出してみると、調弦をしてギターを弾いた後、何年もそのままにしていて、ネックが反って、とても弾けない状態になっていました。粗大ゴミと化していました。

 5年ほど前に、またギターを始めてみようと、初心者向けのギターセットを買いました。これがまた、○○国製で、弦高が異常に高く、コードを押さえても押さえられず諦めました。(今回、解ったのですが、このギターは定価1万円の合板製のギターだそうです。1500円で下取りしていただきました)

 今回は、妻のピアノと私のアコギでミスチルやエドシーランの曲を弾きたいと思い立ち、全国チェーンの楽器店に行きました。

 楽器店の店員さんに「弦高が低くて、ネットが細くて、日本製のアコースティクギターが欲しいのですが」と尋ねると、

 「ご予算は・・・」と聞くので、

 「5万円前後」と言うと、

 「日本製のアコースティクギターは全て15万円以上です」と言うのです。

 驚き・・・・。絶句・・・・。だんだん弱気になって、

 「中古で、良いのはありますか」と聞くと、

 「中古でも良い品だと10万円以上します」というのです。

 この会話だけ見ると定員さんが悪い人のようですが、熟練で、なかなかの応対をされる店員さんでした。今の現実がそうなのです。

 結局、6万円弱の、この全国チェーンの楽器店さんが○○国で作っている、私のリクエストに叶うギターを購入しました。板も合板ではなく1枚板のギターです。(最低限の私のリクエストです)

 まずは練習と思い一昨日から練習しています。FコードとBコードの音はポコポコですが、それ以外のコードは何とか音が出るようになりました。

 これから練習をして、日本製のヤマハやモーリスやヤイリのギターを買うことを妻に認めてもらえるように頑張ります。(無理かナ)

 


墓参り

2020-09-22 00:45:16 | 日記

 4連休の初日。私と妻は、妻の実家がある直方に出かけました。妻の実家にはこれまで1ヶ月に1回程度は行っているのですが、今回は、コロナの影響もあり、2ヶ月以上間隔が空いてしまいました。義父は、私たちが預けた携帯電話で朝起きたら必ず安否確認の電話をしてくれます。毎日、私が仕事に行く前に安否確認を知らせる電話があり、94才になった義父の変わらぬ気丈さが窺えます。

 妻は実家に戻った直後から義父に教育的指導を畳み掛けます。

 「お父さん。自分で梅の木やら柿の木やら切ったろうガ。ケガしたらどうするト」

 「畑も止めリィ。お父さんから貰ワンでも店で買えるトヤカラ。解ットウト

といった会話が続きます。

 義父は、

 「オウ。オウ。解トウ」

と繰り返しています。私は義父がかわいそうで、二人の話が聴きづらくなって、外にでました。私に妻が同じことを言ったら、

 「バカヤロウ」とキレてしまうか、無視して部屋に籠もります。

 暫くして、二人の笑い声も聞こえてきたので、家の中に戻りました。家の中に戻ると、義父と妻が、

 「カボチャいるか」

 「いらン」

 「ジャガイモいるか」

 「いる。包丁持ったきたから、磨イドッテ」

 「オウ」

  やはり、親子とは、他人の私とは違って深い絆でつながっているのだと思いました。

 それからお寺さんで彼岸のお参りをして、義父の妹(85才、一人暮らし)の家に行って、義父から頼まれた食品(リストが詳細でとても95才とは思えない)を 買って妻の実家に戻りました。

 途中の雑貨店で息子の嫁の母親と会いました。確率から考えるとあり得ないような事なのですが、これも縁なのでしょうね。

 妻の実家に戻ってから。妻が義父に庭の木を切るなと行っていたのを思い出し、義父は必ず娘に黙って自分で梅の木の剪定をすると思い、私が剪定しました。(おかげで2日後の今日になって、肩と手首と腰がチリチリと痛んでいます。)

 

 

 私は


ひまわり畑 (2004年7月)

2020-09-21 00:46:40 | 【小説】さよならヌーディストビーチ

 この小説は、私が50歳前後から年ほど、時間の許す限り、少しずつ書き連ねて、実は400字詰め原稿用紙70枚程度になっています。完結させようと思っているのですが、未だに仕事を続けている私には時間的な余裕もなく、ストーリーは作っているのですが、途中、文章は歯抜けの状態です。とりあえず歯抜けの状態から、記事を掲載し、それから少しずつ編集と、ストーリーの変更を重ねていこうと考えています。

 

ひまわり畑 (2004年7月)

   バスは右折するとオリーブ畑の中を抜けて海が見渡せる海岸沿いの道路に出た。すると急に大きく視界が開け、空と海、山並みや丘陵、水平線や岬や島影が焼き付くような鮮やかさで飛び込んできた。

    道路は丘陵地が海に落ち込む海岸沿いの高台を走っているので、バスの窓からはビーチを見下ろすことができない。水平線近くの淡い水色から天空へ向かって次第に瑠璃色へと変化する空。エメラルドグリーン、コバルトブルー、群青色、藍色と様々な色彩を見せる海。空も海もいつも通りの吸い込まれるような青さで、深緑の島影、赤茶けた岬、黄土色の山肌、灌木に覆われた常磐色の丘、岬の突端に立つ白い灯台、朱色の屋根に亜麻色の外壁の別荘、小さな集落の目映いばかりの白い塗り壁と樺色や鳶色の屋根瓦を、それぞれに鮮やかなコントラストをつけて描き出している。

    このあたりの海岸はコスタ・トロピカル(熱帯の海岸)と言われる地域で、コスタ・デル・ソル(太陽の海岸)と言われるマラガを中心としたスペイン屈指の観光リゾート地の東側に位置しているが、観光地化されたマラガやその周辺の町とは違って、昔ながらのスペイン的な風景が色濃く残っている地域である。海岸の背後には三千メートル級の山々が連なるシエラ・ネバダ山脈が見え隠れしており、その山裾が造る丘陵地に挟まれて、海岸沿いにはまるで箱庭のような小さな入江が点在している。

    雨が少なく空気が乾燥しているためか、近くに見える山々は薄灰色の岩が剥き出しになっていて、岩の間にしがみつくようにして苔色の下草と灌木が広がっている。

 

    バスは緩やかな下り坂を左にカーブしながら、ホテルのビーチが見える位置にさしかかった。それから右に曲がるとフリオが働くホテルが見えてくる。

 白い外壁にオリーブ色の屋根。優子もスペインでの二年あまりの間に何度も通ったホテルだ。バスはこの少し高台にあるホテルから、海岸側にフェンスが続く道を少しずつ下りながら、フリオが勤めるリゾート会社が経営する長期滞在者用のアパートやバンガローやレストランやモバイルハウスなどの建物の横を通り過ぎていく。

 

    バスはホテルの正面ゲート前で待つ男女二人を乗せるために停車した。

    二人はガイドブックを見ながら運転手と何かを話しているが、発音が悪いためか運転手は何度も聞き返している。何度か同じやり取りを繰り返していたが、ようやく運転手も言葉の意味を理解したらしく、

「シー(はい)」

と短く答えて、不機嫌そうに首を座席の方に振った。

    それでも二人は、言葉が通じたことが余程嬉しかったのか、お互いに微笑みを交わしながらバスに乗り込んできた。

     顔見知りだとイヤだと思ったが、幸い先週末からホテルに宿泊しているドイツ人の熟年夫婦で、何度かホテルのプールサイドやビーチで見かけたが、優子とは言葉を交わしたことがない。夫婦は優子の大きな荷物が気になるのか、先ほどから何度も優子の方に視線を送っている。

 

     バスがホテルの前を通り過ぎると、眼下にビーチが広がってくる。視界の奥の方は一般のビーチだが、このビーチの手前側一キロメートル弱がナチュリストを対象としたヌーディストビーチで、スペイン各地に点在するスペイン政府公認のナチュリストゾーンの中では中規模のビーチである。ビーチの全長は海岸にせり出した二つの小さな丘とそれに連なって海に突き出た岩場を挟んで三キロメートル以上に及んでいる。

 道路側からホテルのリゾート施設に入るには、フェンスに隔てられて、二カ所に設けられたゲートで、事前に郵送された利用チケットを提示するか、チェックインの際にフロントで発行されるカードが必要なのだが、海岸側からは小さな丘から続く岩場を越えて進めばリゾート施設の利用客以外もビーチに入ることができる。ビーチは午前中だというのにかなり混み合っている。太陽が降り注ぐコスタ・トロピカルの夏はこれからが本番で、このリゾート施設も六月から九月にかけて予約客でほぼ満室の状態が続く。

    浜辺で日光浴をする人たち。散策をする人たち。ビーチバレーを楽しむ人たち。波打ち際で波と戯れる人たち。木陰でビーチマットに身を横たえる人たち。その風景は世界中のどの浜辺にもある風景で、一般のビーチと違うところは大半の人たちが体を隠すものを身につけていないということだけである。それぞれが自由と開放感を満喫している。ここから人の顔を識別することはできないが、いつもの木陰で椅子に腰掛けて本を読んでいるのは、その体型からして(愛用のディレクターチェアからお尻がはみ出している)フェデリコと思われる。フェデリコは、それでも最初に出会ったときから見れば、間違いなくスリムになっている。

 

「・・・・・・・・」

「さよならフェデリコ・・・・」

「・・・・・・・・」

「さよならヌーディストビーチ・・・・・」

 「・・・・・・・・」

「さよならフリオ・・・・・・」

「・・・・。さよならフリオ」

 

 バスはホテルを過ぎて、しばらくコスタ・トロピカルの海岸沿いを走った後、近郊では比較的に大きな町であるモトリルに着いた。ここでドイツ人夫婦は席を立った。

 ドイツ人の夫婦はバスを降りるときに、優子に軽く手をあげて会釈をした。それに答えて優子が微笑みを返すと、ホッとした表情で街中に消えていった。手を取り合った二人の姿が、白い石畳の坂道に次第に小さくなっていくのに呼応するように、優子の瞳に涙が溢れ、頬をつたっていった。

 

 「しばらく日本に帰って、元気を取り戻したいの・・・・。このままスペインにいると、ますます気持ちが落ち込んでいきそうな気がする。フリオには申し訳ないのだけれど、これまでの色んなことを自分一人で考える時間がほしいの」

 

 フリオは日本に帰りたいという優子を何とか説得しようとしていたが、これまでの優子との生活の中で、優子は一度言い出したら何を言ってもダメだと知っていた。それなら自分も一緒に日本に帰ろうと言ってみたが、今回は一人で帰りたいと繰り返すばかりであった。

 優子はスペインでの生活に絶望していた。それはとりもなおさず自分自身に絶望していたのだけれど、そんなことをフリオに正直に伝えるわけにはいかない。

「必ず戻ってきてほしい。いつまでも待っている」

    フリオの思い詰めた表情が脳裏を過ぎっていく。

 

    それからバスはモトリルの町並みを山側に右折し、アンダルシアの一面のひまわり畑の中を北上していった。アンダルシアのひまわり畑は、優子の決断を思いとどまらせようとしているかのようにどこまでも続いていた。