フロムYtoT 二人に残された日々

私と妻と家族の現在と過去を綴り、私の趣味にまつわる話を書き連ねたいと思っています。

フリオとの別れ

2020-10-20 23:12:40 | 【小説】さよならヌーディストビーチ

「スペインに戻って仕事を見つけたら連絡する。必ずスペインに来てほしい。そしてボクと結婚してほしい。」

 フリオがスペインに戻って三ヶ月あまり経った。その間、優子の誕生日に家族と一緒に写った写真を添えた手紙が送られてきたが、写真の中に収まったフリオは見るからに幸せそうで、その中に優子の入り込む余地は無いように感じられた。

「なかなか就職が決まらないので、もう少し待ってほしい」

 手紙の内容は簡単なものだった。フリオとのことは夢の中の出来事だったのではないか。もし現実であったとしても、フリオがスペインに戻って、心変わりをしているのではないか。そんな思いが過ぎっていく。

 十月に入って、待ちに待った手紙が届いた。手紙には仕事も決まり、両親や家族も優子がスペインに来ることを待ちわびているという内容だった。

 無邪気に喜べない自分がもどかしい。優子にとって待ちわびた手紙なのに、待ちこがれていた知らせであるはずなのに、手紙が届くと躊躇してしまう。なかなか決心がつかない。両親になんと言おう。

 そんな時だった、幼なじみの潤一が食事に誘ってくれた。

「俺と結婚してくれないか」

「また冗談ばかり言って・・・」

「冗談何かじゃない。真剣なんだ」

「・・・・・・・」

「その気になったら、いつでも言ってくれ。俺、待ってるよ」

  潤一の真剣な表情をみていると、話さなければ申し訳ないと思った。

 「実は今結婚を考えている人がいるの」

 そのことを口にしたのは初めてだった。口にすることで、自分のフリオへの思いの深さを知った。

 潤一に背中を押される形で決心が付いた。そして福岡市の外郭団体も辞めて、両親には内緒でスペインに旅立つ準備を始めた。

 これまで、心配をする両親の問いかけを、いつでも好い加減な返事ではぐらかしてきた。

「仕事辞めてどうするの?」「彼氏ができたの?」「一生独身を続けるつもり?」

「わからない」「いない」「そのうち結婚する」

「どうしてでスペインに行かなければいけないの?」「いつ帰ってくるの?」「お金がなくなったらどうするの」

「スペイン語の勉強」「わからない」「なんとかなると思う」

 今回のスペインへの旅立ちにはこれまでとは違う目的があった。日増しに強まるフリオへの想いを断ち切れなかった。無茶をしているのは良くわかっている。我が儘な行動であることも良く理解している。

 スペインに出発する日が迫り、これ以上、両親を誤魔化し続ける訳にはいかなくなった。母親は泣き出し、父親は沈黙を続け、自室に閉じこもってしまった。 

 「俺はイヤだ。フリオが嫌いという訳じゃないし、外国人であることもおまえが愛しているのなら仕方がないと思う。しかしおまえが遠くへ行ってしまうことに耐えられない。どうしてもフリオじゃなければダメなのか?」

 何の私心もなく、ただ娘のことを愛し、心配してくれる母や父。そんな両親に申し訳ない気持ちで一杯であった。 

 優子がマドリッドの空港に降り立つのは三度目である。一度目は卒業前に大学時代の友達の尚子と有佳の三人で行ったフランス・スペイン・イタリアのツアー旅行。二度目は会社勤めをはじめて三年目の春にスペイン・ポルトガルを高校時代の親友の洋子と美咲と休暇をあわせていった旅行。

 優子はスペインに自分の何かと共鳴するものを感じた。それが何かは自分でもわからない。しかし空港に降り立った瞬間に自分の心がまるで音叉のように振るえはじめるのを感じた。


父への日記

2020-10-20 00:08:05 | 【過去】私の過去

 今日は帰りが遅くなり、孫たちがいなくなったらギターの練習をしようと思っていたのですが、食事をして自室に戻ったのは10時近くで、近所迷惑になると思い控えました。週に2回から3回は練習をしていて、左手の指にタコができはじめているのですが、まだコード進行がスムーズにできるレベルにはありません。

 過去の日記を見ていて、この日記をコピペして更新をしようと思い、投稿しています。

 父は90歳で他界しました。その前は、母が父の介護で体を壊し、父は老人ホームに入っていました。時折、母や妻や子供や孫を連れて訪れていたのですが、体調を壊して亡くなる前に母と妻と訪れた時に、

 「おまえ、今、なんしヨウトカ。名刺もっとるならクレンカ」というのです。

 休日なので名刺入れは持ってきていないのですが、免許証入れに万が一のために名刺を入れていたので、父に渡すと、父は大粒の涙を流しました。

 それが父の意識がある前に見た最後の姿でした。

 以下は私が父への想いを50歳前半の頃に書いた父への日記です。

 

父さんへ

 この手紙をお父さんに読んでもらおうとは考えていません。お父さんは、40歳代後半から30年以上の間、良き夫であり、良き父親、そして僕の子供達にとっての良き祖父でした。ですから30年以上も前のことを蒸し返して、80歳を超えたお父さんを悲しませるようなことをするつもりはありません。

 僕たちが子供の頃、お父さんは、とんでもない夫でした。父親としても失格でした。

  酒乱で、女癖が悪くて、博打が好きで、意志が弱くて、家庭を顧みることはありませんでした。

  酔っぱらっては、お母さんに暴力を振るい、家を飛び出し、酒と女と博打に現を抜かし、放蕩のかぎりを尽くし、すってんてんになってお母さんに泣きを入れる。そんな時代がありました。

  お母さんは、時には怒って、時には泣きながら、

  「you。お前は大きくなってもお父さんのような家族を泣かせるような人間にはなってはダメよ」

  「you。お前はお父さんとは違うんだから、家庭を大事にして、真面目で立派な大人になりなさいヨ」

  と何百回となく、僕に言って聞かせました。しかし、大人というものがどういうものか理解できない自分にとって、お母さんの言葉は、ただ単に自分の将来に恐怖を抱かせるものでしかなかったような気がします。

「お父さんの子だから、自分もお父さんのようになるかもしれない」

「お父さんのようになってしまったら、どうしよう」

 僕はそんな恐怖心と戦いながら、それからの人生を生きてきました。

   今になって考えてみれば、それはそれで僕の人生にとって良かったのだと思っています。

 お父さんの子供だったから、その恐怖心と戦いながら生きてきたからこそ、今日まで自分は幸せな人生を送ることができたのだと思うのです。


5人目の孫

2020-10-19 01:21:54 | 日記

2020.10.18 (日曜日)

14日に長男の第3子が生まれ、長男の嫁が入院中、孫2人を預かっていました。

長男の子供たち2人は天真爛漫で、10分ごとに喜怒哀楽をくり返しています。微笑んだり、怒ったり、泣いたり、笑ったり、そして、走ったり、跳んだり、叫んだり・・・・。

妻は、いつもより朝早く起きて、2人を幼稚園に送り出す準備をしています。昼間は洗濯や掃除をしても幼稚園のお迎えに出かけます。

孫が帰ってくると、妻の言うことを聞かない孫を、妻は叱ったり、抱きしめたり、抱っこしたり、たべもので-服従させたり、いつもとは違った姿で頑張っています。気疲れしていると思います。(妻の母性には頭が下がります。私のことは、そっちのけで、孫に対する母性を全開にしています。私にとっては、少しだけありがたい・・・・)

 

私と妻の家族は、私たち夫婦を含め13人となりました。

今日、5人目の孫と対面しました。まだ、生まれてから5日目なので、顔は遮光土偶のようですが(ごめんなさい)、時折薄目を開け、首や唇を動かす姿を見て、私は心が熱くなりました。

昨日、長女夫婦がやってきて、孫2人を預けて帰りました。昨夜は、私たち2人と孫4人の6人で夜を過ごしました。まるで修羅場でした。子供たちが走り回り、大声で笑い、泣き叫びます。妻は食事の用意しながら、泣き叫ぶ孫をあやしたり、風呂に入れたり、飛び回り走り回る子供を叱ったり大変です。(私も頑張っているつもりなのですが、私の手には負えません。ごめんなさい。私の言うことは聞きません)

 

時折、私の長女の長女が3人を叱ります。現在小学校3年生なのですが、次は長男の長女の幼稚園年長で4年間が空いています。不思議なことに、我々夫婦が注意しても聞かないのに、長女の長女のSIOちゃんの言うことは聞くのです。

「大声出したらダメヨ」

「走らないで、下の人から怒られるヨ」

 

孫たちがいなくなり、また二人きりで夕食を迎えました。いつもの2人だけの静かな夜です。

「お疲れさん。大変やったネ」

「うん。大変ヤッタケド。楽しかった。でももう少し言うことを聞くと思ったけど、全然聞カン」

「そうヤネ。俺たちも40年前は同じような状況の中で子育てをしていたと思うけど、俺たちの両親はどう感じていたンだろうネ。同じように感じていたのかも知れないネ。今日は疲れているヤろうケン早く寝リイ」


「セカンド ステージ」

2020-10-12 23:40:42 | 【過去】私の過去

 以下は私が50歳、20年近く前に妻に書き連ねた日記です。このときに考えていたような人生は歩んでいませんが、妻とはケンカをしながらも仲良くやっています。

 私は心理学でいう「自我同一性の確立」を果たしたのでしょうか。私は67歳に近づいていますが、自分が何者かについて、自我同一性の確立を果たしたかどうかについて自信はありません。未だにフラフラと思い悩んでいます。

 まあ、人生とはそんなものだと思っています。

 

「セカンド ステージ」平成十五年十一月一六日

僕は後一ヶ月余りで五十歳を迎えようとしている。 

 小学生の頃、僕は社会科の先生になりたかった。建築家になりたかった。

 中学生の頃、僕は小説家になりたかった。映画監督になりたかった。

 高校生の頃、僕は自分が嫌で嫌で仕方なく、自分自身を見失っていた。

大学生の頃、僕は商社マンになって世界を駆けめぐりたいと思っていた。

 おまえと出逢うまでの僕の将来の夢と言えばこんなものだったと思う。

 中学生の頃からおまえと出逢うまで書き続けてきた何冊もの日記帳も、今では何処に行ってしまったのかも分からなくなって、その頃の自分の心の中を覗くことはできなくなってしまった。

 これまで、仕事にかまけて家庭を顧みず、時には目的と手段が入れ替わってしまって、おまえにつらい思いをさせたこともあったと思う。しかし、結果から言えば、銀行員として、そこそこの出世もしたし、お互いにとって、まあまあの、これまでの人生であったと思う。

 僕はこのまま銀行が奨める出向先で、第二の職場で、これからの人生を送るべきなのだろうか?確かに経済的な問題はある。銀行が奨める第二の職場の方が、おそらく安定した生活が望めるであろうし、それはそれで有意義なのかもしれない。しかし、人生の終わりを迎えるとき、僕は自分の人生を振り返って、満足のいく人生であったと、心から思えるであろうか。僕は自分の人生に及第点を与えることができるであろうか。

 こんなことを言っていると、「相変わらず、馬鹿なことばかり考えている。人生なんて点数をつけるようなものではない」と、困った顔をしているおまえが目に浮かぶようだ。

 しかし、二度とない人生を、病気や事故に見舞われることさえなければ、まだ二十年以上も残っているこれからの人生の大半を、銀行からのお仕着せの仕事で費やしてしまいたくはない。

 これまで僕は自分の人生は自分で切り拓いてきた。人生の終わりを迎えるその日まで、自分の人生は自分だけのものであるという実感を抱きながら生きていたい。勿論、最愛の妻であり、僕の人生の拠り所であるおまえを蔑ろにするようなことはしない。おまえに対するリスクは最大限に回避しながら、これからの新しい人生を創り上げていきたい。

 人と優しく関わる仕事に就きたい。地位とか名誉とか金銭とか、そんなこととは無縁の世界で、これからの人生を過ごしたい。人との利害関係が対立する職場で、自分自身にそのつもりはなくても、結果的に他人を裏切ることとなったり、また、他人から思わぬところで陥れられたり、梯子を外されたり。そんなことで自分の心をすり減らすことには、正直に言ってウンザリしている。少年ではないのだから、そんなことは社会人として生きていく以上は、避けられないことであることは十分理解している。しかし、人に優しくすることで、これからの生活の糧を得られることができたら、どんなにか素晴らしいことだろうと思う。僕は、これから二十年は働く。

 今までの、おまえを好きになり、おまえと結婚し、銀行員として頑張ってきた人生とは違う、自分のための人生、自分の心にも優しい人生を精一杯生きてみたい。自分の第二の人生に悔いを残さないように思いのままに頑張りたい。これからの二十年を、今までの自分とは違う生き方で過ごしたい。

僕は今、自分のセカンドステージの目標として、臨床心理士を目指そうと考えている。

十一月十八日

 これから自分のための人生を送るためには、銀行からのお仕着せではない人生を過ごすためには、資格が必要だ。自分の経験を活かすとすれば、公認会計士、税理士、司法書士、行政書士、社会保険労務士といったところだろう。しかし、どれも今までの仕事と本質的な違いはない。僕の性格からすれば、また、人一倍、頑張ってしまい、結果的に人を傷つけたり、自分が傷ついたりしてしまう。おまえは「第二の人生だから、精一杯頑張らずに、肩肘張らずに、これまでの自分の人生を活かした職業で気楽にやればいい」と言うだろう。 しかし、おまえも知っているとおり、僕には多分それができない。

十一月十九日

 おまえは僕が十九歳の時から僕のことを見続けているので、良く分かっていると思うけれど、僕は若い頃から、哲学とか、心理学とか、そういった人の心に関わるような分野に興味を示していた。ここ何年かの間では、アダルトチルドレン、多重人格、脳の仕組み、男と女の違いを説いた本に熱中していた。僕が何故そんなことに興味を示すのか。それは多分、未だに自分自身の存在に自信を持てないでいるからだと思う。心理学の用語で言えば「自我同一性の拡散」。そんな状況を未だに引きずっているのかもしれない。自分が自分であることをいつも否定している。自分の存在の唯一の拠り所は「おまえ」でしかない。しかも、そのことについても時折不安になる。

 おまえのことだから、もうすっかり忘れてしまっているかもしれないが、随分と昔、お互いにまだ若い頃、おまえが僕に、「あなたは生き急いでいる。」と言ったことがあった。確かにそのとおりで、僕はいつも焦燥感に駆られながら人生を生きている。

 僕が臨床心理士を目指そうと思った背景は幾つもある。

十ニ月一日

 「アダルトチルドレン」

 「アダルトチルドレン」という言葉は、本来、アルコール依存症家族のなかで育って大人になったアダルトチルドレン・オブ・アルコホリックスに由来する。また、現在では家庭がうまくいっていない「機能不全家族」に育った子供(アダルトチルドレン・オブ・ディスファンクショナル・ファミリー)にも適用される。」

 「アダルト・チルドレン」は、心理学や精神医学の分野では精神的な障害として認められていない。また、自分自身、自分が精神的な障害を患っていると思えるほどに病的な状況にあると考えてもいない。しかし、「アダルト・チルドレン」の心理的な特徴としてウォィティツが示した十三の「狭義のアダルトチルドレンの特徴」は、大半が自分にあてはまると考えている。

「アダルトチルドレンに認められる十三の心理的特徴」

①正しいと思われることに疑いを持つ。

②最初から最後まで、ひとつのことをやり抜くことができない。

③本音を言えるようなときに嘘をつく。

④情け容赦なく自分を批判する。

⑤何でも楽しむことができない。

⑥自分のことを深刻に考えすぎる。

⑦他人と親密な関係をもてない。

⑧自分が変化を支配できないと過剰に反応する。

⑨常に承認と賞賛を求めている。

⑩自分と他人は違っていると感じている。

⑪過剰に責任を持ったり、過剰に無責任になったりする。

⑫忠誠心に価値がないことに直面しても、過剰に忠誠心を持つ。

⑬衝動的である。行動が選べたり、結果も変えられる可能性があるときでも、お決まりの行動をする。その衝動性は、混乱や自己嫌悪や支配の喪失へとつながる。

 そして、混乱を収拾しようと、過剰なエネルギーを使ってしまう。

 また、ジョーンズのアダルトチルドレンと認定するスクリーニング・テストの十五項目についても、全てではないにしろ大半が自分にあてはまると考えている。

 「ジョーンズのスクリーニングテスト」

①あなたの両親のどちらかに、飲酒問題があると思ったことがありますか。

②親の飲酒のために眠れなかったことがありますか。

③親の酒を止めるように勧めたことがありますか。

④親が酒を止められなかったために、独りぼっちに感じたり、おびえたり、イライ ラしたり、怒ったり、失望したりしたことがありますか。

⑤飲酒中の親と口論したり、喧嘩したりしたことがありますか。                                                                                  ⑥親の飲酒が理由で、家出すると脅したことがありますか。

⑦あなたの親は、飲酒してわめき、あなたや他の家族を殴ったことがありますか。

➇両親がが酔っているときに、両親が喧嘩するのを聞いたことがありますか。

 ⑨飲んでいる親から、他の家族を守ったことがありますか。

 ⑩親の酒瓶を隠すか、中身を流して空にしたいと思ったことがありますか。

 ⑪飲酒問題のある親が起こすいろいろな困難について思い悩みますか。

 ⑫親が酒を止めてくれたらどんなによいだろうと考えたことがありますか。 

  ⑬親の飲酒に関して自分自身に責任があると思ったり、罪悪感を持ったことがありますか。

  ⑭アルコールのために両親が離婚するのではないかと心配したことがありますか。

  ⑮親の飲酒問題に関する当惑や恥のために、戸外の活動や友人たちとの付き合いを避けて引きこもったことがありますか。

 僕は多くの部分で当てはまる。つまり、僕は「アダルトチルドレン」なのだと思う。

十二月四日

 とは言え、僕は精神障害者でもなければ、性格異常者でもない。母や姉やおまえや、僕を支えてくれた人たちのおかげでもあるけれど、しごく全うに生きている。「アダルトチルドレン」とは、心のあり方であり、自分自身の認識の問題であるのかもしれない。しかし、たぶん、おまえの言うとおり少し変態気味であるかもしれないが、社会に害を及ぼすような精神状態ではない。


優子とフリオ 出会い(2001年4月)

2020-10-11 22:23:56 | 【小説】さよならヌーディストビーチ

   今日は8時半に起きて朝食を済ませたのち、午前中を妻とだらだらとテレビを観ながら、途中うとうとしたりして過ごしていました。昼食の後、妻はソフトバンクの試合をテレビ観戦をしたいというので、私は一人でお気に入りの糸島の浜辺の一つへ出かけました。

 台風14号の影響か、浜辺には強い北西の風が吹ていて、押しては返す波の騒めきや、吹き付ける風の唸り声を浴びながら、玄海島や糸島の小高い山並みを眺めて、一時を過ごしました。(心が洗われました)

 帰って来ると、長男から、孫2人の幼稚園の運動会の様子を様子がラインで送られてきており、2人で孫の動画を何度も繰り返し見ていました。

 

第三章 優子とフリオ 出会い(2001年4月)

 優子は大学を出てから何度も職を変えている。最初は地元最大手の銀行。その銀行にはちょうど三年間働いた。それから四年間は、三ヶ月から長くても半年余りで地場企業を渡り歩いた。 職場に不満があったわけではない。また辞める時は大半の職場で慰留を迫られた。 しかし新しい職場について暫くすると、優子の心の中に焦燥感が芽生えてきて、だんだんと大きくなり始める。やがて、この焦燥感に耐えきれなくなって辞表を提出してしまう。この繰り返しであった。

 一年半ほど前から福岡市の国際交流の促進を目的とした外郭団体で通訳兼事務員として働いていた。優子の最近の勤め先の中ではとびっきり長続きをしている。長続きをした理由は、スタッフのみんながフランクで肩肘張ったところがなかったこと、自分の得意な語学力を活かして様々な国の人々と交流の機会があったことから、居心地が良かったことと適度な刺激が得られたからかもしれない。

 フリオとは、そこが主催する海外留学生と地元市民との交流会で出会った。

 福岡の大学は中国、韓国、台湾といったアジア諸国からの黄色人種の留学生が大半で、白人は少ない。ましてスペインからの留学生は彼一人だった。色白で、金髪に近い髪の毛から北欧諸国かイギリスからきた留学生だと思ってみていた。英語も英語圏の留学生とほとんど変わらないくらい流暢に話している。

 「ハイ、ユーコ。フリオのことだよ。顔は見かけたことあるよね。イギリス人かと思ったら、彼、スペイン人なんだって・・・・」

 韓国からきた留学生のキムも優子と同じように思っていたらしい。

「ユーコを紹介してほしいそうなんで、つれてきたよ。付き合ってあげる?」

 キムは魅力的な大きな目を好奇心で一杯にして優子に話しかけてきた。キムは伯父が在日韓国人で、福岡市でパチンコ店を何カ所も経営しており、幼い頃から何度も日本にきたことがある。

「彼氏はいますか。いなければボクと付き合ってください」

 フリオは人なつっこい笑顔を見せて唐突に聞いてきた。スペイン人はもっと情熱的な告白をするものだと決め付けていたので、優子は拍子抜けしてしまった。少し太り気味で、身長も日本人の平均的な高さと変わらない感じだが、少しくぼんだ大きな瞳と、高すぎない整った鼻と、ブラウンとブロンドを掛け合わせたような亜麻色の肩まで掛かる長い髪が、繊細さと大らかさの両方を醸しだしていて、好感の持てるタイプではあった。キムに紹介されて、ノコノコとキムに連れられて告白に来たフリオに少しだけ失望したが、黄色人の多い福岡の留学生の中では、目立つ存在であったフリオに選ばれたことは、誇らしくもあった。

 「突然そんなことを聞くもんじゃないわ。付き合ってほしいんなら、キムの力を借りないで、男なら正々堂々と独りで私の前にきて、告白してほしいわ」

 「僕は独りで行くと言ったんだけど、キムが無理矢理、引っ張って来たんだ」

 フリオは白い顔をピンク色に染めながら、拳を振り上げて、キムに詰るような視線を向けた。

 優子はフリオのまるで中学生が初恋の女性に告白をするときのような、オドオドとして初々しい仕草に胸の高鳴りを覚えた。