フロムYtoT 二人に残された日々

私と妻と家族の現在と過去を綴り、私の趣味にまつわる話を書き連ねたいと思っています。

息子の15才の頃

2020-09-09 21:04:22 | 【過去】息子への想い

 今日はgooブログで、いろんなところの旅の話や自分が買っているネコの話などを題材にしておられる女性のブログを拝見しました。爽やかな話が多くて、感激して、異常なくらいに、ポチッを送りました。たぶん「誰だ、コイツ」と思っておられると思います。(私です)まだ、このブログを初めて2ヶ月あまりなので許してください。

 これから何回かに分けて、息子の記事をアップしようと考えています。

 息子は中学時代、県下でトップの高校(毎年、国立の医学部だけでも、かなりの数が合格します)に一番合格者を出す中学校に通っていました。身長は私に似てホビット族に近いのですが、顔はカワイイ(私に似て?)、成績は常に10番前後、スポーツは万能、生徒会では2年間副会長を務めていて、妻も私も、末は博士か大臣(トンビが鷹の子?)かと思っていました。妻は近所のママたちからも羨望のまなざしを浴びていたと思います。

 中学3年生の終わり頃から反抗期に入り、高校に入ってからは成績も落ち、遊び回って、見る影もなくなりました。(トンビの子は、トンビ。でも私はトンビの哀愁に満ちた鳴き声が大好きです)

 その頃から妻と長女との諍いが多くなってきました。二人とも言葉がきついのです。(今でも??) 聞きづらいほどの言葉で息子を責めていました。それで、責め立てられた長男が言葉を無くしてキレてしまうのです。

 二人の言葉に反論できなくなった息子が、私には許せない言葉を妻に吐くのです。

 その言葉に、

 「おまえ、お母さんに何イヨウトカ!!!!。お母さんに謝れ!!!」

 そして、長男と私の、男を賭けた取っ組み合いが始まりました。

    妻は「やめて。喧嘩センデ。喧嘩センデ」と繰り返して いました。

 それから数分たって、長女が、

 「お父さん、もうやめたら」なんてことを言いました。

 私は、諍いの原因を作ったのはおまえたち3人で、主因は息子にあるにしても、長女が自分の弟を諭すでもなく、私に非があるような言い方をしたのがショックで、それから私は自室に籠もって、泣いていました。

 息子も部屋で泣いていたと思います。

 それから、性懲りも無く、もう一度、息子と取っ組み合い喧嘩をしました。

 私は、今、息子と話をしても、必ず喧嘩になると思い、私の思いを手紙で伝えようと思いました。息子がいない時間を見つけて、息子の机に手紙を置きました。息子からの返事は一度もありませんでした。ただ、私の気持ちは伝わっていると思います。

1つめの手紙、

 

今回のこの課題を与えられる前から、お父さんはおまえに、お父さんの思いをいつか伝えたいと思っていた。だからこの課題を与えられたとき、今の時点で、15歳というおまえの年齢を考えた場合、どれだけ、どこまで、おまえに話したらいいのか、逡巡を繰り返した。しかし、もしこの機会を逸したら、なかなか伝える機会は来ないかもしれない。そう考えて、堅苦しい話になるが、ちょっと真面目な話をさせてもらう。

 

 まず、おまえは、これから本当の意味で、「自分の人生」を歩み始める。今までの自分の人生が、本当でなかったわけではない。しかし、おまえがこの世に生を受けて、これまでの間、おまえの人生はごく限られた環境の中にあった。家族とか、仲の良い友達とか、そういった自分を庇護してくれる人間、自分を愛してくれる人間、自分を好んでくれる人間とともにあった。時にはおまえの嫌いな人間との確執や、自分が好きだと思った人が自分を好んでくれないという悲哀も味わったかもしれない。だがそれは不特定多数の人との関わり合いではなく、あくまでも限られた自分以外の人間との関わりであったと思う。そして、それはどちらかといえば受動的なもので、世の中に対する積極的な、能動的な関わり合いではなかったと思う。今おまえは、世の中(社会・おまえが置かれている環境)とか、これから先の自分の人生とか、ひとりの人間としての生き方とかいったものを考えはじめて、積極的に世の中と関わっていこうとしているように思える。それは、お父さんから見れば、おまえという人間の最近の目に見える変化で、お父さんはとても嬉しく思っている。

 

 「個人は、自分一人で生きるのではなく、いつの時代にも他の個人とともに存在し、他の個人となんらかの形でかかわりあいながら生存する。そしてそれこそが、人間が生きていく上で最も基本的な、歴史を超えた普遍的条件なのである。」

                                                       -スターン-

おまえが、これからどう世の中と付き合っていくのか。それはおまえ自身の問題だ。おまえが世の中をどう捉えるか、どう捉えてどんな生き方をするか、それはおまえが選択していかなければならない。それをお父さんやお母さんが決めることは出来ない。なんとかおまえが賢明な選択をして、幸福な人生を送って欲しいと願うばかりだ。

 

 「幸福な人生を送るためには、まず第一に、心が健全であり且つその健全さを絶えず持ち続けることである。第二に、心が強く逞しく、また見事なまでに忍耐強く、困ったときの用意が出来ており、自分の身体にも、身体に関することにも、注意は払うが、心配することはない。最後に、生活を構成するその他もろもろの事柄についても細心であるが、何事にも驚嘆することはなく、運命の贈り物は活用せんとするが、その奴隷になろうとはしないことである。」            -セネカ-

 

エーリッヒ・フロムという心理学者(哲学者)がいる。フロムはお父さんが大学時代に読んだ「愛するということ」という本の中で、「愛は技術である」そして「熟練を要するものである」と説いている。お父さんは「生きる」ということも、技術であり、熟練を要するものであると考えている。お父さんのいう「生きる」ということは単に生存するということではなくて、「いい人生を生きる」「満足度の高い人生を生きる」「幸福な人生を生きる」ということだ。

 

 チャップリンの「モダンタイムス」という映画の中で、主人公が大きな機械の歯車をロボットのように機械的に次から次に締めて回っている場面がある。そしてやがて主人公がその歯車の中に巻き込まれていくシーンがある。お父さんは、その場面が今でも印象に残っていて、あんな風な生き方はしたくないと思っていた。この世に生まれてきて、この世の中で生きていく以上、少しでも大きな歯車に成りたいし、少しでも重要な歯車でありたい、出来れば機械を動かす立場でありたいと思っている。

 

 お父さんの人生はある意味では既に決まっている。銀行員としての自分、おまえ達の父親としての自分、お母さんの夫としての自分、世の中でのお父さんの位置は、ほかの物で置き換えることの出来ないものである程度固まっている。

 

 だが、おまえの人生については、ほとんど何も決まっていない。これから自分で社会のなかでの自分の位置を見つけていかなければならない。それも少しでも高い位置、少しでもいい位置を目指して欲しい。高い位置を目指すには、低い位置で満足している人よりも何倍も努力が必要だ。苦痛もより多く味わうこととなる。しかしその努力を怠って、平々凡々と日々を過ごしていたとしたら、高い位置に到達することは絶対に出来ない。

 

未開の地に生まれた人間は幸せだろうと思うことがあるだろう。確かにそこに住んでいる人々は、日々の糧さえ窮することがなければ、幸せだと思う。受験戦争もなければ、自分を翻弄させるような誘惑もない。しかし、重要なことはそこで暮らす人々がそこしか知らないということだ。その環境が幸せな環境なのではない。我々がその環境で過ごしたとしても、彼らが我々の環境で過ごしたとしても、とても幸せと感じられるものではない。ひるがえって考えて見れば、我々もここしか知らないのだ。いま自分が置かれている環境(世の中)から逃れることはできない。そうであれば、いま置かれた環境のなかでどうすれば「いい人生」「満足度の高い人生」「幸福な人生」を送ることができるか、そのために何をすればいいのかを考え、そして、具体的に、積極的に行動を起こしていくことが必要だと思う。

 

 「人生について我々は短い時間を所有しているのではなく、実はその多くを浪費しているのである。人生は十分に長く、その全体が有効に費やされるならば、最も偉大なことをも完成できるほど豊富に与えられている。けれども放蕩や怠惰のなかに消えてなくなるとか、どんな善いことのためにも使われないならば、結局最後になって否応なしに気づかされることは、今まで消え去っているとは思わなかった人生が最早すでに過ぎ去っていることである。」                -セネカ-

 

 知識は生きていくうえでの自分のもって生まれた能力の不足を補う道具(ツール)だ。そして、その道具を使いこなすためには技術(スキル)がいる。どんな知識でも役に立たないことはない。かならず自分のもって生まれた能力を補ってくれる。ただし、この道具を使いこなす技術を習得する必要はある。また、いくら知識が豊富でも、それを使いこなそうとする意欲がなければ宝の持ち腐れだ。知識の豊富な人間になって欲しい。そして「いい人生」をおまえが生きることが出来るように、それをうまく使いこなす人間になって欲しい。

 

 

 

「何も知らない者は何も愛せない。何もできない者は何も理解できない。何も理解できない者は生きている価値がない。だが、理解できる者は愛し、気づき、見る。

・・・・・ある物に、より多くの知識がそなわっていれば、それだけ愛は大きくなる。・・・・・・・すべての果実は苺と同時期に実ると思いこんでいる者は葡萄について何一つ知らない。」                                                -パラケルスス-

 

 いい大学に入るということ、そのことだけを考えれば、それでおまえという人間が価値のある人間ということにはならない。しかし、いい大学に入れば、それだけ志の高い人間、自分と考え方を共有出来る人間に出会う可能性も高くなる。そして、そんな人間と出会うことにより、おまえの人間性も磨かれる。また、豊富な知識を自分のものにする機会も多くなる。そして、社会に出た場合、おまえはそれだけ努力をしてきた人間、勉強をする苦痛に耐えてきた人間、知識が豊富な人間として、そうでない大学を出た人間より、より多くのチャンスを与えられるだろう。(そのチャンスを活かすことができなければ、それまでだけれど・・・・・・)与えらたチャンスを見事に自分のものにしたならば、社会がそれを認めたならば、また、さらに大きなチャンスを与えられるであろう。それは自分の人間性をさらに大きくし、そうして、少しづつ、おまえは社会のなかで人間として高い位置に登っていくことになろう。

 

地位や名誉や財産が「幸福な人生を生きる」ための必須条件ではない、しかし、大切な条件のひとつであることは確かだ。

王侯貴族がかならずしも幸せとは限らないが、現代のように誘惑の多い、情報に溢れた時代にあっては、ある程度の地位や名誉や財産なしで、「満足度の高い生き方」をすることは難しい。地位や財産や名誉に目がくらみ、その奴隷のような生き方をするならば幸福を感じることも少ないだろうが、それを自分が身につけた道具のひとつとして、うまく使いこなす技術を持っていれば、より高い満足を得られることも間違いない。おまえが「満足度の高い人生を生きる」ために、目標は高く持って欲しい。志は大きく持って欲しい。

 

 

 

最近、おまえが急に大人びてきて、お父さんは少し戸惑いを感じている。意志的で気力に溢れた眼、妙にイライラして自分を持て余している様子、お父さんは、あわてて自分がおまえと同じ年頃だったときに自分がどう考えていたかを思い出そうとする。そして、おまえも、あの頃のお父さんと同じようなことで、悩み苦しんでいるのかもしれないと考える。

ほんの些細なことで・・・・・・、しかし、とても重要なことで・・・・・・。

 

 自分の能力を信じて精一杯生きていって欲しい。前のめりに生きていって欲しい。

そして、おまえひとりだけではなく、おまえの周りにいる人も自分が幸せにするのだという気概をもって生きていって欲しい。

 

欠陥ある社会は能力を要求する

現代は能力の時代である

あらゆる社会が能力を探している

空位空名は更にかえりみていない

活躍すべき自由の天地が待っている

腕がふるいたくば

まず能力をつくれ

能力の前には不平がない

わが悲運に泣かんよりは

無力無能の悲哀に泣け

               -後藤静香-

 

                                         お父さんより 

  

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台風10号 狂騒曲 2

2020-09-08 23:45:47 | 日記

 今日、妻と一緒に部屋の整理をするために、少し早めに会社を出て自宅に戻りました。

 自宅に戻ると、部屋に残ったベランダの残置物は、燃えるゴミ、燃えないゴミ、大型ゴミに仕分けされて、大型ゴミの回収も、妻は手配済みだというのです。

 「よう、頑張ったね。ありがとう」というと、妻は、鼻をヒクヒクさせて、満面にドヤ顔を浮かべていました。(チョットだけカワイイ!!!)

 ベランダ沿いの窓に貼ったガムテープは、そのままだったので、

 「窓のガムテープ、俺が剥がそうか」というと、

 「もう一回、台風が来るかも知れんケン、当分、残しトコうと思っトウト。」(なるほど)

 夕方、とりあえず4袋の「燃えるゴミ」を二人で捨てに行きました。

 総括すると、これまでの台風被害の中では、被害に遭われた方々には申し訳ないですが、我が家にとっては最小限の被害でした。これから天災は幾度も私たちに襲いかかるでしょう。そのことを考えれば、「備えあれば、憂いなし」です。

 被災地の方に心よりお見舞い申し上げます。

 

 

 

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台風10号 狂騒曲

2020-09-07 22:41:22 | 日記

 妻は金曜日から頭の中は台風10号でいっぱいです。

 妻は、おそらく、マスコミや気象庁の、「かって経験したことがない」とか、「特別警報級の勢力」とか、「命を守る行動」とかいった報道に怯えています。

 金曜日、仕事から私が帰ってくると、LINEで子供たちや友達との台風10号に関する情報交換(LINEが頻繁にピコピコとなっています)や、義父に電話で防災に関する詳細にわたる教育的指導を行っていました。

 (義父は94才ですが、頭はしっかりしています。妻の父親に対する愛情からだと思いますが、子供扱い、言葉がきつい!! かわいそう!! 聞いている私がつらい 。私が義父だったら、黙って、そっと電話を切ります )

 妻は、既に買い物リストを作っています。

 「youさん。明日、10時前には出て行って、○○ラパスと、○○ディと、○○○タウンに買い物行くョ。頑張って起きてョ。9時前に起こすョ」

  「明日は、皆んな同じ考えで、混んでるかもしれンから、行くとこ毎にメモを作っトッタほうがいいよ」 

 私は、その夜も、酒を飲みながら、休日前のルーティン(ネットサーフィン、音楽を聴きながらの読書)に時間を費やして、風呂も入らずに、午前2時前に寝ました。

 私たちは10時少し前に、家から一番近い○○ラパスに着きました。案の定、駐車場はいっぱいで入り口には列ができていました。

 「おまえが○○ラパスで買い物している間に、俺は車で○○ディと、○○○タウン行っトクヨ」

 私は、それから○○ディに向かいました。○○ディも駐車待ちで、ようやく中に入れたのは小一時間後。買い物カートも残っていませんでした。入ってみると、メモに書いてある品物は殆どスッカラカン。いくつかの商品をゲットしてレジに向かうと、これがまた長蛇の列。30分ほど待ちました。

 ○○○タウンはもっとすごい駐車場待ち。諦めました。

 帰ってから、土日を二人で台風対策のために費やしました。2面あるベランダの10年以上溜まった置物の整理したり、窓にガムテープをはったり、ゴミを片づけたり、風呂に水をためたり、いくつもあるPCやスマホやタブレットの充電をしたり・・・・。おかげで和室と玄関口は物置状態になりました。ペランタ゛は綺麗になりました。

 そして夜を迎えました。朝方、3時過ぎから6時過ぎまで、断続的な暴風に何度も起こされました。

 朝、妻に起こされて目が覚めると、

「風が酷かったネ。何度か起きて、眠られンケン、テレビつけたら目が冴えてしまって、寝不足・・・」(「バカヤロー。当たり前タイ。夜中にテレビなんかつけるか」と思いましたが、言えませんでした)

 私はその後、私の2つの職場の被害状況を見るために仕事に出かけました。大した被害はなくて良かったです。

 

 

 

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幸福について

2020-09-04 00:30:14 | 日記

 過去の日記を見ていて、「幸福について」(ショーペンハウアー著)に関することを書いている日記を見つけました。最初は私の日記の一部かと思いましたが、全く私の文章と違うと、もっとお偉いさんの文章だと思いググりました。そして、かって私が好きだった大哲学者ショーペンハウアーの著書だと解りました。

(私の中では記憶の彼方でした)

 懐かしい想いに駆られました。私の抜粋ですが、内容は素晴らしい論文だと思います。

 大先生は「人間は幸福になるために生きているという迷妄」であると書いていますが、私は、「人間は幸福になるために生きているという迷妄」ではなくて「人間は幸福になるために生きている」と思って生きてきました。

(誰の翻訳であるかは定かではないので、著作権を侵害するのであればごめんなさい)

幸福について(ショーペンハウワー)

人間は幸福になるために生きているという迷妄

三つの根本規定----無常の人間の運勢に現れた差別の基礎

 1. 人のあり方 すなわち最も広い意味での人品、人柄、人物。したがってこのなかには健康、力、美、気質、道徳的性格、知性ならびにその完成が含まれている。

 2. 人の有するもの すなわちあらゆる意味での所有物。

 3. 人の印象の与え方 印象の与え方というのは、ご承知のとおり、他人の抱く印象に映じた人のあり方、すなわち結局他人にどういう印象をいだかれるか、という意味である。したがってその帰するところは人に対する他人の思惑であり、名誉と位階と名声とに分けられる。

 第一の見出しのもとに考察すべき差別は、ほかならぬ自然そのものが人間の間に設けた差別である。こう言っただけでも、人間の幸不幸に対して及ぼす自然の影響が、ほかの二つの見出しのもとに掲げた単に人間が設けた規定から生ずる差異によって引き起こされる差別よりも、はるかに本質的であり、根本的であろうということは、想像がつくはずである。精神の偉大さとか、心情の偉大さとかいうような真の人物上の利点に較べれば、位階とか、生まれとか、富とか、何とかいうようないっさいの利点は、現実の王様と較べた芝居の王様のようなものだ。

 エピクロスの一番弟子だったメトロドロスはつとに「われわれのうちにある幸福の原因は、外界から生ずる幸福の原因よりも大きい」と題した一章をものにしている。いうまでもなく人間の幸福なあり方、いや、人間の生き方全体にとって主要なものが、人間自身のなかに存するもの、人間自身のうちに起こるものだということは明らかである。ここにこそ内心の快不快が直接宿っているわけだ。というのは内心の快不快は、ともかく、人間が感じたり意欲したり考えたりする働きの結果だからである。これに反して外部にあるいっさいのものは、何といっても間接的に内心の快不快に影響を及ぼすにすぎない。だから人間が外部的な推移ないし事情によって触発される具合も各自各自で全く異なっているし、同じ状況のもとにあっても各自の生きる世界は別々である。なぜかといえば、各自が直接に交渉をもつものは、自己のいだく観念とか、自己の行う意思活動とかいうものだけであって、外界の事物は、ただこうした観念や感情や意志活動を引き起こすものとして、各自の上に影響を及ぼすにすぎないからである。

 各自の生きる世界は、何よりもまず世界に対する各自の見方に左右され、頭脳の差異によって違ってくる。頭脳次第で、世界は貧弱で味気なくつまらぬものにもなれば、豊かでおもしろく味わい深いものにもなる。たとえば他人の生涯に起こった痛快な出来事を羨む人があるが、そういう人はむしろ、他人が痛快な出来事として描写しうるだけの重要性をその出来事に認めたというその把握の才をこそ羨むべきであろう。けだし聡明な頭脳にはかくも痛快に映ずる出来事が、愚鈍平凡の頭脳から見ると、日常茶飯事の世の中のおもしろおかしくもない一場面にすぎないであろうからである。このことが如実にうかがわれるのは、明らかに現実の出来事を根底にしたゲーテとバイロンの幾多の詩である。こういう詩を読んでも、愚かな読者なら、詩人の経験した惚れぼれするような出来事を羨みこそすれ、ごく平凡な出来事をかくもすばらしいものに造りあげた逞しく旺盛な想像力を羨ましく思うなどということはない。多血質の人間から見れば痛快な葛藤に見え、粘液質の人間から見れば他愛もないことに見える場合にも、憂鬱質の人間なら悲劇の一くさりを見ているような気になるだろうが、これも同様の理屈である。こうしたことは、およそ現実というものが、言い換えればおよそ内容の充実した現実というものが、主観と客観という二つの面から成っているということによるのである。だから客観的な半面が全く同じでも、主観的な半面が異なれば、主観的な半面が同じで客観的な半面が異なる場合と同様に、現在の現実が全く別なものになってしまう。客観的な半面がいかに美しく、いかに良くても、主観的な半面が鈍くて悪ければ、美しい風景を悪天候のもとに眺め、あるいはがらくたのカメラのレンズで見るように、劣悪な現実、劣悪な現在と化するのだ。もっと平たくいえば、人間はそれぞれ、自分が皮膚をまとっているのと同様に、自分の意識のなかに嵌まりこんで、直接には自分の意識のなかだけで生きているにすぎない。だから人間は外部から救いの手を伸ばしてもたいしてもたいして救われないものだ。

 舞台の上では王侯を演じたり顧問官を演じたり、下僕になったり兵卒になったり将軍になったりなどするが、こうした差別はただ外面にあるだけで、内面に、こうした現象の中核となって潜んでいるものは、誰の場合にも同じである。すなわち憐れな喜劇役者である。悩み、苦しみをもつ喜劇役者である。人生またかくのごとしである。

 位階や富の差別が、各自にそれぞれの役割を演じさせはしているものの、決して役割に比例して幸福や愉楽の内面的な差異ができているわけではなく、この場合も一皮剥けばみな同じ憐れむべき愚者である。苦しみ、悩みをもつ愚者である。中身は人それぞれに異なってはいても、本来の姿すなわち本質から見れば、まずまず誰もが同じ愚者である。潜む愚者に大ばか小ばかはあっても、決して身分と富とに、すなわち役割に応じた違いではない。つまり人間から見て存在し推移進展するいっさいの事物は、直接的には結局人間の意識のなかに存在し、意識に対して推移進展するのであるから、明らかに意識そのものの性質状態がなによりもまず重要で、大抵の場合、意識のなかに現れる事物の姿よりも、意識の性質状態が物を言うのである。

       ・・・・・・・・・・・・・・略

 現在および現実の客観的な半面は運命の手に握られている。したがって可変的なものである。主観的な半面はほかならぬわれわれ自身である。したがって根本的には不変的な物である。だから人間各自の生き方は、いかに外部からの変化があっても、終始一貫同じ性格を帯び、同一主題をめぐる幾つかの変奏曲にたとえられる。

         ・・・・・・・・・・・・・・略

 個性によって、人間に与えられる幸福の限度が、あらかじめ決まっている。ことに精神的能力の限界によって高尚な享楽の能力が永遠に釘づけにされている。精神的能力の限界が狭ければ、その人間のために周囲の人々がどんなに骨を折っても、福の神がどんなに力瘤を入れても、要するに外部からいかに面倒を見てやっても、人間としては普通の、半ば動物的な幸福や愉楽の程度以上に引き上げることは不可能である。官能的享楽、家庭生活の団欒、低級な社交、卑俗な遊楽などに頼る生活を抜けきれない。教養でさえも、総じてこの種の人間にとっては、こうした限界を拡げるうえに、多少は役に立っても、そうたいした貢献はもたらさない。なぜかといえば、最も高尚で最も変化に富み最も持続的な享楽は精神的な享楽であり、若いときにはいかに精神的な享楽について誤った考えを抱いてはいても、それが大体において持って生まれた精神的な能力に左右されるからである。

   ・・・・・・・・・・・・・略

 幸福がわれわれのあり方すなわち個性によってはなはだしく左右されることが明らかである。ところが大抵はわれわれの運命すなわちわれわれの有するものあるいはわれわれの印象の与え方ばかりを計算に入れている。けれども運命は好転するということもある。そのうえ、内面的な富をもっていれば、運命に対してさほど大きな要求はしないものである。・・・・・・・・・・・・略

 まことに健康な乞食は病める国王よりも幸福である。完全な健康と身体の好調とから生まれる落ち着いた朗らかな気質とか、闊達自在で明敏な狂いのない透徹した知性とか、中庸を得た温和な意思とか、ひいては一点疚しからぬ良心とかいったようなものは、位階も富も取って代わることの出来ない美点である。それはそのはずだ。一個の人間の自己自身としてのあり方、たった一人になってもどこまでもつきまとい、誰からも与えられたり奪われたりすることのないものこそ、その人間のひょっとしたら所有するようになるかもしれない何ものよりも、まして他人の目に映じた自己のあり方などよりも、本人にとって本質的であることが明らかだからである。才知に富む人間ならば、全く独りぼっちになっても自分の持つ思想や想像にけっこう慰められるが、愚鈍な人間であってみれば、社交よ芝居よ遠足よ娯楽よと、いかにひっきりなしに目先が変わっても、死ぬほどつらい退屈は、どうにも凌ぎがつかない。善良で中庸を得た温和な性格は、環境が貧弱でも、満足していられるのだが、貪欲で嫉妬深い邪悪な性格は、巨万の富をいだいても、満足はしない。

・・・・・・・・・・・・略

 人生の幸福にとっては、われわれのあり方、すなわち人柄こそ、文句無しに第一の要件であり、最も本質的に重要なものである。

・・・・・・略

   汝のこの世に生まれたその日、

   日輪を迎えた惑星のそのときの星配りそのままに、

   生まれたときの掟に従い、

   早すくすくと育ってきた。

   これよりほかに道もなく、おのれを捨てるすべもない。

   こういうことはその昔、巫女どもが、予言者どもが言うたげな。

   形を具えて、さかえゆく生命は

   時にも、力にも、砕かれはしない。

                                            ゲーテ

 われわれとしては、与えられた人柄を最大限に活用するだけである。したがって柄にあった計画だけに努力を集中し、柄に応じた修行の道に励み、他のいっさいの道を避け、柄にぴったりとくる地位や仕事や生き方を選ぶことである。 

人のあり方について

 個性が下劣であれば、どんな享楽も、胆汁をぬたくった口に美酒を含むようなものである。だから善事につけ悪事につけ、特別な災難はともかくとして、自己の生涯にどういうことが起きるかということよりも、その起きたことをどう感ずるかということ、すなわち自己の感受力の性質と強度とが問題なのである。人の内面のあり方と人の具有するもの、つまり人柄と人柄の価値とが、人の幸福安寧の唯一の直接的な要因である。

 ・・・・・・・略

 意識の性質ばかりは不動不変であり、個性は継続的・持続的に、多かれ少なかれ一瞬も働いていないときはないが、これに反して他のいっさいのものは結局、時折、機に臨み折に触れて、一時的に働くにすぎず、そのうえ世の有為変転にも服している。・・・・・略

 全く外部だけから襲ってきた不幸が、みずから招いた不幸より、平然と耐えられるのは、このためである。というのは、運命は変わることがあっても、自己の性質は決して変わることがないからだ。してみれば、主観的な財宝、たとえば優れた性格と有能な頭脳と楽天的な気質と明朗な心と健康そのもののような頑丈な体格、要するに健全な身体に宿る健全な精神が、われわれの幸福のためには第一の最も重要な財宝である。だからわれわれは外部的な財宝や外部的な名誉を得ようと努力するよりは財宝の維持増進にうんと力を入れたほうがよかろう。 

 感受性が異なる結果、甲の人間ならほとんど絶望するようなことに出会っても、乙の人間は平気で笑っているというようなことがある。しかも不快な印象に対する感受性が強ければ強いほど、快的な印象に対する感受性は弱いし、またその逆も言えるとしたものだ。或る事件の幸福な結末と不幸な結末が五分五分の可能性をもつ場合、陰気な人間は不幸な結果を見て腹を立てたり悲しんだりするが、幸福な結末を見て喜ぶことはしない。これに反して陽気な人間は不幸な結末に対して腹を立てたり悲しんだりはせず、幸福な結果を喜ぶであろう。陰気な人間は十の計画のうち九までが成功したとしても、この九は喜ばず、一の失敗に腹を立てる。陽気な人間は、これとは逆の場合にも、一の成功でみずから慰め、自分を明朗な気分にする骨を心得ている。ところがおよそ災厄にはそれ相当の埋め合わせが全然伴わないことはまずありえないとしたもので、この場合でも陰気型の人間、すなわち陰鬱なくよくよした性格の持ち主は、朗らかな呑気な性格の持ち主に較べると、想像上の災難や苦悩を多く経験させられはしても、現実の災難や苦悩を嘗めさせられることはむしろ少ない。なぜかというに、万事を悲観的に見て、絶えず最悪の場合を気遣い、したがって適当な予防策を講ずる人間は、いつも朗らかな色合いと朗らかな展望とを添えて事物を眺める人に比して、誤算をしていたということが少ないであろうからである。 

 幸福と享楽の外部的な源泉は、いずれもその性質上さっぱり当てにならない不確実なはかないものであって、偶然によって左右されるから、どんな有利な状況にあっても、とかく閉塞しがちなものだといえよう。いや外部的な源泉はどう考えても、いつも手の届くところにあり合わせるというわけにはいかないから、こうしたことは避けがたい。まして年でも取れば、この源泉はまず一つ残らず涸れてしまう。・・・・・・・・略

 人間世界には困窮と苦悩が満ちている。たまたま困窮と苦悩とをのがれた者があれば、至るところに退屈が待ち受けている。おまけに大抵は邪悪が人間世界の支配権を握り、愚昧が大きな発言権をもっているとしたものだ。運命はむごく、人間はいじましい。・・・・・略

 対外的な利益を得るために対内的な損失を招くこと、すなわち栄華、栄達、豪奢、尊称、名誉のために自己の安静と余暇と独立とをすっかり、ないし、すっかりとまではいかなくてもその大部分を犠牲にすることこそ、愚の骨頂である。・・・・・略

 人間の幸福は自己の優れた能力を自由自在に発揮するにあるというアリストテレースの説は、ストバイオスも逍遥学派の倫理学を叙述したなかでそのまま述べている。たとえば、幸福とは、願ったとおりの成功を収めるような仕事に従事し、しかも徳に適った活動をすることである、と言い、その徳とは練達した技能だという注までつけてある。・・・・・・・・・略

 人間能力のあらゆる発現の根源に遡って、問題を系統的に検討することも可能である。その根源とはすなわち三つの生理学的な根本能力である。したがってこの三つの根本能力の無目的な遊びを考察しなければならない。この場合、その根本能力はありうべき三種類の享楽の源泉となる。人間はそれぞれ三つの根本能力のいずれが内面の主流をなすかによって、享楽のなかから自己に適したものを選ぶわけである。さて第一は再生力の享楽である。飲食、消化、休息、睡眠の享楽である。第二は刺激性の享楽である。遊歴、跳躍、格闘、舞踊、撃剣、乗馬、その他あらゆる種類の運動競技、さては狩猟、はなはだしきは闘争や戦争、などの享楽である。第三は精神的感受性の享楽である。考察、思惟、鑑賞、詩作、絵画彫刻、音楽、学習、読書、瞑想、発明、哲学的思索、などの享楽である。・・・・・・略

 したがって精神的感受性が圧倒的に多ければ、認識することを本質とする享楽、すなわちいわゆる精神的享楽が出来るようになり、しかも精神的感受性が断然圧倒的に多ければ多いほど、それだけ大きな精神的享楽が得られる。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・略

 自分以外の者は個々の部分を中途半端に理解する通りがかりの傍観者にすぎない。・・・・・・略

 われわれの実際の現実生活は、煩悩に動かされるのでなれれば、退屈で味気ないものである。さりとて煩悩に動かされれば、たちまち苦痛なものになる。それゆえ、自分の意志のご用を勤めるのに必要な程度以上に有り余る知性を与えられた人だけが、幸福な人間ということになる。それは現実生活のほかに、もう一つ知的な生活を営み、この知的な生活が苦痛を伴わずにしかも溌剌とした仕事と慰安を与えてくれるからである。ただ余暇があるというだけでは、すなわち知性が意志のご用勤めに忙殺されていないというだけでは、まだ足りない。それには能力が実際に有り余っているということが必要だ。・・・・・・・・・略

 ところが普通の人間は、事、人生の享楽となると、自己の外部にある事物を頼みにしている。財産や位階を頼みにし、妻子・友人・社交界などを頼みにしている。こうしたものの上に彼にとっての人生の幸福がささえられている。したがってこうしたものを失うとか、あるいはこうしたものに幻滅を感じさせられるとかいうことがあれば、人生の幸福は崩れ去ってしまう。このような人間の重心は彼の外部に落ちる、というような言い方で、この関係を表すことができよう。・・・・・・略

 自分と自分の家族の生存に必要なものの獲得に時間を費やすことが、人間の自然の定めだからである。人間は困窮の子であって、その本質が自由な知力にあるとは言いがたい。・・・・略

俗物とは精神的な欲望を持たない人間である。・・・

 第一に、俗物その人について見るに、先に掲げた「真の欲望がなけれは真の快楽はない」という原則のとおりに、精神的な享楽をもつというこのとがない。認識と洞察とを、認識と洞察そのもののために求めようとする止むにやまれぬ衝動もなく、またこれと全く類縁関係にある真に美的な享楽を求める衝動もないから、これによって生活が活気づくこともない。けれども流行とか権威とかいったようなもののために、こうした種類の享楽を否応なしに押しつけられる場合にも、いわば一種の苦役としてなるべく早くすませてしまうであろう。俗物にとっての現実の享楽は官能的な享楽だけである。・・・・・・

 第二に、その他人に対する方面について見るに、俗物は精神的な欲望を持たず、肉体的な欲望だけをもっているから、その求める相手も、精神的な欲望を満足させてくれる人ではなく、肉体的な欲望を叶えてくれる人である。だから他人に対する要求のなかにも、精神的な能力に重きを置いた要求が含まれることはさらにない。いやそれどころか精神的な能力を見せつけられると、むしろ嫌悪か、はなはだしきは憎悪を感ずるくらいである。なぜかというと、そんな場合ただ耐え難い劣弱感をいだかされるだけで、そのうえ心中ひそかに潜在意識的な嫉みを感ずるけれども、なるべくそれを抑えるようにして、ひた隠しに隠すため、かえってこうした嫉みが昂じて、時には無言の怨みとなることさえもあるからである。したがって自分のおこなう人物評価や尊敬の念を、そうした特性を基準にして測ろうなどという考え方は、金輪際起きない。富や権勢こそ唯一の真の美点と見て、自分もその店で傑出してみたいと願っているのだから、人物評価や尊敬ももっぱら富や権勢のみによって測ろうとする。

・・・・・・・略

 俗物どもの大きな悩みは、理想によって慰められることがなく、退屈からのがれるのに必ず現実を必要とする。

・・・・・・・略

・・・・・・・略

人の有するものについて

 第一、自然で、しかも必要な欲望。これは満足させなければ苦痛の原因となるような欲望で、したがってこれに属するものは食と衣だけである。これを満足させるのは容易である。

 第二、自然ではあるが必要でない欲望。これは性的満足の欲望である。第二の欲望は第一の欲望よりは満足させることが困難である。

 第三、自然でもなく必要でもない欲望。これは奢侈、耽溺、栄耀栄華の欲望である。無限で、その満足はなかなかむつかしい。

 

 富は海水のようなもので、飲めば飲むほど喉が渇く。名声もこの点は同じである。

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私の過去の日記

2020-09-02 22:54:10 | 日記

 私がブログでカテゴリーに【過去】をつけているものは全て、過去の私の日記から転載・校正しているものです。

 母から、中学1年の時の誕生日に、いわゆるキャンパスノートではなく、少し洒落た装丁を施したノートを買ってもらいました。

「このノートに日々の出来事ではなく、出来事について、その時に自分が、どう思ったか、どう考えたかを書くトヨ」というようなことを言われました。

 それから私は大学に入って妻と出会うまで、20冊近くの日記(随筆のようなもの)を書きためていました。しかし、就職した後に、転勤の際に、失ってしまいました。

(残念)

 今、残っているのは妻との出会い以降の日記です。就職をして、日記を書く余裕もなく、途切れ途切れの日記なのですが、今でも、読み返すとこころが熱くなります。

 

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