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春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

ハンカチ王子も神の子には勝てず

2021-02-02 07:34:00 | イベント
このコロナ渦の影響か、ヤンキーズで契約出来ず田中雅弘が
急遽楽天に戻ってくる。
契約は大凡9億と言われ日本プレイヤーで最大である。
既にその評価は既に、国際級の代表する選手の一人なのである。


(2006年当時を振り返る)
◇酷しい地方予選を戦い抜いた早実
あれよあれよと言う間に早実が頂点を登り詰めたが、その足どりは決して順風満帆ではなかった。地方大会の西東京大会での初戦は都立昭和高校と3:2の僅差で辛勝している。
判官贔屓ではないが一都立高が名門校に伍して戦い、苦しめた事実とその相手が全国制覇をなし遂げスポットを浴びる早実であったことは破れたとはいえ、誇るべき事ではなかろうか。
準決勝では日大鶴高と5:4の僅差、決勝では日大三高11回の延長戦で5:4で西東京の代表をもぎ取っての出場であった。

◇甲子園で斉藤投手と田中投手球史に残る投げ合い
甲子園での早実は全国区の群雄割拠の代表校を破り、最後は駒大苫小牧校と延長引き分け再試合の末、その栄冠を勝ち取った。
その戦い振りは球史に残る名勝負に高校野球の純真さと爽やかさに感動を与えてくれた。
そんな背景の中で苫小牧、早実の戦いは力と力とのぶつかり合い、終わってみれば、苦しみに耐えた斉藤投手の涙と田中投手の総て出し終わった笑みが好対照にドラマの最後を飾り、スポーツの清新さと若者達のひたむきさから感動さえ生れた。


◇ハンカチ王子
壮烈な戦いの後、勝利を勝ち取った背景もあって、当時は斉藤投手
が、光を浴びて、フアンも斉藤になびいた。
ひたむきさと品性の中で、地方大会から一人で投げぬいたニューヒーロの誕生に一挙主が注目され、汗を拭うしぐさに、ハンカチ王子なんて言葉も生れるなど話題の多い大会であった。


◇現実の世界
劇的な戦いに湧き上がるもあれから、10数年、経過した。
対決した二人がどの道を歩むか、当人を含め、その成長ぶり
に、視線が注がれた。
しかし、結果が総ての世界、これほどの差異が生まれたのは
全く予測が付かない。

田中はプロへの道を歩み、順風満帆、恩師である故野村克也
元監督も「マー君神の子 不思議な子」といわれるぐらいに
神がかり的な力を発揮し、今日の評価に繋がっている。

一方の日本ハム斎藤佑樹投手は肝心の肩の異常もあって、
もがき、苦しみ、ここ数年、目立った活躍も見えなかった。
2,020年は1軍の出場機会もなくなってしまい、契約金も
田中の1割にも満たない1250万円で来季の契約をしている。
かってのハンカチ王子も語られることもなく、彼我の差は
絶大である。
プロに入る前のあの輝いた時期は既に遠い過去の事になって
っしまったかのか、余りにも酷しい世界と思わざるも得ない。
戦力外と無情な通告で野球界から大勢の選手が離れていく
中で未だ関わりを続けられる事は救われる。

◇青春をかけた王貞治記念グラウンド

当時、そんな天下を極めた、早実は此処で鍛えられた。
彼らの汗を染み込んだ練習グランドが"王貞治記念グランド"である。
多摩丘陵を挟んだ隣接の八王子市南大沢にある。
写真の通り、周囲は住宅地から外れた小山内裏公園に隣接する高台の一角で、外部からも隔離された場所だけに背後の鬱蒼とする自然の中、野球に没頭できる環境である。
両翼93m センター120m 黒土と砂の混合土 夜間照明付その名も"王貞治記念グラウンド"とされ、彼らにとっても偉大な大先輩王貞治がなし得なかった、優勝の歴史を刻んだ。
そんな優勝の余韻をじっくり確かめながらも、既に次の練習が始まっている。汗と涙の感動を生んだ甲子園の土もきっと、このグランドの土と混ざり、新たなヒーローの誕生を生むのであろうか、その土にまみれた若者達が輝いていた。
ハンカチ王子も此處で汗を流した。王子に繋がる輩の誕生を
見守りたい。


華の銀座でOB会

2018-12-17 17:38:00 | イベント
普段、都心に出る機会も少なくなった田舎者が晴れて華の銀座へ向かう。
現役を離れ、組織から解き離され悠々自適の世界に浸りきっている。
収入の道も閉ざされ厳しいが、それほど背伸びしなければ何とか生きて居られる。
そんな中、毎年のOB会の案内を受ける。上位下達の縦の世界に、身を置きどうしてもそんな慣習が拭いきれず、フリーで向き合えないなど、色々の人種が華の銀座に約90人程集まる。
一等地にそれなりの会費を払い、街角の一杯飲み屋とは全く違う、旧態の雰囲気に敢えて飛び込まなければと思うが、昔の苦楽を共にした仲間と会えるなど、相反することで、葛藤しながらついつい行ってしまった。

閉居で悶々として居る毎日に、いきなり人ごみにに入ることに別世界へ飛び込むようなもので、もうおのぼりさんで既に疲れを感じる。
JRで有楽町駅で降車、首都高八重洲線の高架道を潜り、放射状の交差点越え銀座通りへ向かう。


銀座4用目で見覚えのある銀座三越の看板を前に銀座通りに出る。人ごみの中それぞれの方向に向かう銀ぶらを楽しんで居るようであるが、中国語始め、外国語が飛び交い、その異となる言葉が自然に渦に溶け込んでいる。
おや此処は日本なのだろうか、と思えるほど外個人で渦巻いている。恐らく観光客であろうか大きな話し声が、嫌でも耳に入り、異国に来た様な雰囲気でもある。
おのぼりさんは、大小様々なビル群が目に映り、個性的な姿を追っかける。


その中の一つ、ガラス張り、何階もある多層下された窓腰に整列したマネキンが高いところから、通行人を見下ろす姿が、どうしても目に入る。
各階層ごとに服装の種別ごとにきちんと等間隔に据えられた姿が、生きた人間のようで、どうしても引き寄せられるのは集客効果を狙い、流石これぞ銀座と思い知らせる。

◇宴会場


銀座六丁目交差点に目的地の銀座ライオンに辿りつく。
レンガ色の壁のビルに黄色地に黒でライオンをあしらった旗が窓際に多数、翳され、LION文字の表記で目的地に惑わずに到達し、ホットする。
早速、エレベータに乗って会場へ
白塗り内装に三角状にデザインされたガラス窓、天井から吊るされ装飾された電灯から柔らかい明かりで照らされる。一つ一つが手の込んだ豪華な装飾品の中、古風な歴史の重みを感じる雰囲気造りの会場に一役かっている。
流石一等地での佇まい、伝統と荘重な中で普段接することの出来ない空気に自然と高揚感が高まってくる。
◇会場では

宴会場のステージから、現役幹部からご挨拶、演壇に向き集まった衆の見事に風化した後頭部がまぶしく輝き、見事な白髪に時代の経過を物語る。
起伏のある経済環境の中、戦後の復興期にプラント建設の中枢を担う、頭脳となる制御設備を収め、あらゆる産業分野でメーカとして関わりを 持った企業戦士である。
現役幹部から型どおりの挨拶。
現況は、世の中の景気動向、環境変化に荒波に揉まれ、企業の盛衰を味わいながらも、培った技術を継続し、頑張っている状況報告に安堵させられる。
入れ代わり立ち代わり、この日のためにしたため、詰めておいた色々な塊を一機に解き放し語りたいのである、そんなあれこれに、周りを気にしない仁にいささか辟易もする。直立不動で待たされ、何時、杯かざされるのか気がかりになってくる。


「さあ~それも終わったぞ」まわりのテーブルに盛られたご馳走に皿と箸をセットに、一目散、一心不乱に餌の収拾に取りかかる。
周辺のテーブルに群れが生まれ、ご馳走との間を往復し、対話も控えめに一気に飲食に集中する。
ある程度腹に納まると、空腹の中、アルコールが効き出し、ホットな気分になり、アルコールの杯を片手に島巡りが始まる。
90人の中、長い間ブランクがあっても、顔認識から、かっての関わりを持った戦士に声をかけ、あるいは声をかけられ、無事健在を確かめ会う。
会場内にあちこちに群れが生まれ、会場内は自然にヒートアップするが、僅か1時間数十分余りで、あっと言う間に散開となる。
寄る年波に立食で負担もかかる仁もあり中身のない挨拶に完全に顔見せ興行である。
赤く染まった顔で、一斉にライオンから吐き出された爺さんたちがそれぞれ雑踏の中、帰路につく。
折角の華の銀座、何となくこのまま、閉居に戻るのも後ろ髪を引かれる。

近場に住むMさんと一緒に、現役時の職場環境から自慢の銀座通を便りに、かっては二次会で語り付けなかった話の延長戦を交わした。
そのMさん病魔に包まれ、豪快な呑みッ振りも嘘のように断ち、人がかわった ように養生していたようだが、今年のOB会を前にして、病魔に勝てず高い所に昇華されてしまった。(合掌)
「ちきしょう!!俺も行きたかったのに」と今頃悔やんでいるのではなかろうか、そんな相方もなく、寂しく、雑踏の中へ・・・。

『神の坂』での出迎え

2018-09-27 09:29:00 | イベント

神域である山や森で、人が行方不明になったり、街や里からなんの前触れも無く失踪する、神の仕業として『神隠し』と言われる。
プロ野球某球団で全く予想し難い結果に『神ってる』なんて言葉が流行った。
『神』はこうして人間を超越した威力を持ちつ禍福(災いと幸せ)を降ろす隠れた慰霊と言われている。
こうした隠れた慰霊は昔から、今日も時代を越えて広く使われている。
その『神』が前回、当ブログで紹介した『川辺堀之内』の台地の一角に使われている。
◇『神の坂』

城館があった台地の東端部の全景である。バイパス道路の延伸工事で豊かな自然の風情もぶち壊され、無愛想なコンクリート壁がひたひたと此処まで迫り、建設重機が いよいよ樹林帯に入らんとしている。
樹林帯の縁がコンクリートの壁で仕切られ、その上が小道で緩やかな勾配で台地の頂部に繋がっている。
今は埋め立て高台になっているが、かっての周辺は全部田圃で、700坪位あったようで代々当地に住み農家を営んでいた。
台地は南側のゴルフ練習所にも繋がり、縄文式の集落で太量の遺跡が出たが、周辺は歴史の宝庫でもある。
しかし、伝来の土地を継続的に支えることが出来ず、やむなく、埋めてしまい建て売りなど都市化の波に呑み込まれてしまった。
台地の北側の脇道に入るとお稲荷さんがあり、お稲荷さんを囲むように続く山道を行くと、登りきった突き当たりに増田家の先祖の墓がある。
周辺の土地開発で様変わりしてしまったが、かっては台地の頂部に繋がる唯一の道として、人の往来があったようである。

現在は増田家墓参用の専用道なのか、利用も限られ、旺盛な雑草の前になかば埋もれている。
この道が雑草の藪からやがて竹藪に変わり、僅かな空間に人が通れる位の道が整備されている。
毎年、7月13日~15日を中心にお盆の時期にやってくる祖先の霊に供物を供え、冥福を祈る盂蘭盆が行われる。
この道は『神の坂』と言われ、その霊が迷走しないよう、道で藁を燃やし、迎え火、送り火を行った風習が残されていた。
迎え火は盂蘭盆の初日の夕方に祖先の精霊(死者の霊魂)を迎えるために焚く火であり。
送り火は盂蘭盆の最終日に祖先の精霊を送るためにたく火と言われている。
かっての生活道路も、利用頻度が限られ生い茂る自然の中に埋没しそうである。

◇お稲荷さん

パイパス道路の建設で先祖伝来の農業を営んでいた増田家の土地、家屋を奪われた。当地で暮らしを支える農業の五穀(米、麦、粟、黍または稗、豆の5種類の穀物) 豊饒(作物などが豊かに実ること)を祈る神様を残して置きたいと言う意志がこの稲荷さんではなかろうか。

内部には江戸時代の絵馬など、時代を越えた歴史を物語る逸品でもあるようである。
収蔵品は市の歴史担当が一時、 持ち返り、歴史視点から、のメスが入り、色々の歴史事実が明らかにされている。
道の右手に、お稲荷さんを見て、この幽玄の世界の竹藪を更に奥に進んで行く。
お稲荷さんの上に登って行くと、頂上付近の道脇に当時のお茶の木の植え込みが残っている。
この部分が大八車などの待機所で、昭和30年代まで使っており、その跡がしっかり残っている。
待機所は上下2ヶ所あり、下の待機所に樹齢300年余のさるすべりの木が植えてあり、この道が当時からあったことが推測出来る。樹齢が歴史を語りかける、さるすべりの木の切り株がお稲荷さんにある。

◇増田家先祖の墓

かってはこの地を桑田村と呼んでいた。しかし僅か12年で廃止された。この桑田村を支えたのが増田紋之助であった。
嘉永5年(1852)増田紋之助は誕生する。
本家に増田文書として多くの書物が、残されていたことから、勉強熱心であった。
幕末期、多摩地域では広い土地を背景に比較的豊かな豪農層を中心に『天然理心流』の剣術の流行った
その格となる日野宿名主、佐藤彦五郎が道場を持ち剣術師範となっているが、川辺堀之内からも門人の一人が、『村田紋之助』で往時から川辺堀之内を代表する名家でもあったのである
明治20年(1889)4月、豊田、川辺堀之内、上田、宮、下田、万願寺、石田の八ケ村と粟の巣村の一部が合併し、神奈川県南多摩郡桑田村が誕生した。
桑田村々会議院に桑田村助役に選任された。
当時の増田家の自宅はこの稲荷を含め延命寺の正面に敷地面積400坪、茅葺きの母家60坪が明治24年から翌年にかけて仮説役場として提供していた。
当時の栄華を物語る茅葺きの母屋の立派な家の写真が稲荷さんに貼ってあった。その周辺もバイパス路延伸工事に一切消されてしまった。

『神の坂』待ち構えたのが、獰猛な蚊の襲来である。くたびれかかった、不味い爺も相手を選ばず、格好の餌の到来と服の上からも襲撃された。
覚悟はして防虫も対策したが、敵中踏み入れは許されず攻撃された。どうやら、眠りの世界を目覚めさせ、普段の悪行の祟りに、『神』にも見放されてしまった。

こちらでも紹介しています。ご覧ください
日野バイパス延伸工事


消えた『蚕さん』

2018-09-17 15:12:00 | イベント

日野市内の 市内でも里の風情を残す「川辺堀之内」は台地の一角が森で覆われ、その部分がなんと城館であったと言われる報告がされている。
城館の台地は北側のネットがゴルフ練習場に変わっているが、台地の一角であった。
石積みの外壁に、南側の最下層は水路が走り、城郭の様子を備えている。
折しも輸送ルートの一つとして国道日野バイパス道路の延伸を控え 周辺に建設造機が入り、道路建設に自然の風情を含め大きく変わりつつある。
そんな環境変化を前に、僅かに残される、姿を捉え追って みた。

城館側は一面、竹林で覆われている。旺盛な繁殖力から、地面を掘りおこす「根切り溝」などの手入れが行き届かなく、 竹林は根を張り、この半世紀でも二倍以上の広さに拡大した。
未だ手の付けられない竹林から土器、石器、分銅、嘉永通宝、梅小鉢、醤油の壺、といった、歴史的な遺産が出土さ れている。
この鬱蒼とした竹林が開発の手を阻んでいる一方、城館に繋る歴史ロマンが眠っているのである。

◇農業を守った。
長年同地に住み、農業を通じて先祖伝来の家風を守り、未来に繋げ築きあげてきた遺産が,何の痕跡も止めず,つぎつぎと消されていくことに、悔しい思いであろう。
たまたま散策している折に、当時に長く住まわれている老人から、「これから壊される家が、蚕の跡が残っているよ」と言われ、既に幻想の世界にある『かいこ』の存在に驚き、その事実に駆り立てられた。
里の風情の一つとして養蚕を営んでいた事実を農家が消え去る前に、捉えてみた。

◇地域を支えた養蚕業
養蚕というと八王子は戸中期に産地として全国的知られ、幕末以降には生糸輸出の集積場としてもが有名である。文明開化の間もない時期に国産の生糸が国際的にも脚光を浴び、輸出品の花形であった。八王子と横浜に絹の道が誕生し、巨万の富を得た実業家も誕生した。
隣接する日野も養蚕業に適した土地で農家の米作りとともに、農家が養蚕業でも生活していた。
市内の仲田の森は、「農林省・蚕糸試験場日野桑園」で昭和55年まで蚕・桑を国策施設で研究し、日野も蚕業で関わりの深さを持っていた。
養蚕は,確実に現金収入が得られる手段としてかなりの農家が養蚕を手がけ,昭和40年代の前半まで続いたが、労力の割に経済的に割の合わないものになって自然に消えていった。

◇家屋に残された養蚕の痕跡
建設重機が入り、破壊される数日前に貴重な記録を留めることが出来た。
屋敷の入り口から入って右手の一角に農機具を収容し、作業が出来る、物置を兼ねた木造建物がある。平家だが、屋根下は採光を取り入れる窓を持ち、養蚕作業場に使われた可能性が高い、作りになっている。

敷地の奥で、背後に樹木が覆われる平屋建の母家がある。
当地の代表的な旧家に相応しい象徴的な建物がで~んと構えてあった。
屋根は茅葺きであったようであったが、維持できず、瓦葺き変わっている。
2度の葺き替えで、瓦が比較的真新しく輝き、入母屋作りの立派な屋根が目を引いた。
屋根の頂部から建物側面に当たる破風が結構高いのは外見は平家だが総2 階2 層の造りと想像する。
◇天井に見る、養蚕作業場

因みに天井部分はむき出しになっており、桁や梁が走り、その上の天井部分が格子状になっている所が、一般家庭とは大きく異なる部分である。
天井部分として強固な構造から明らかに屋根裏小屋を儲け,養蚕作業場であったことが明確である。
天井下の高い部分は換気のため開閉自在の障子様のものがはめこんであるものもあった,

◇かいこの世界(参考)

蚕と言われる蛾の幼虫が桑のはっぱを食う、蚕がさなぎになるとき糸を吐き、成虫するための部屋作りを始め綺麗な繭を作る。


繭の中で幼虫は脱皮をしてサナギになる。繭から出てサナギから脱皮して羽化し成虫になる。
吐き出された糸は1~1.5㎞が数本と言われている。
人間は蚕の繭を取り出し絹糸を作る一連のプロセスを養蚕と言われている。

幼虫が桑の葉を食べ、旺盛な食欲を前に其の数が多くなると雨の音のように聞こえると言われ、蚕様ファーストで寝食共にした世界が伝わってくる。


母家の側面は側柱と入側柱の間を開放して板張りとした広縁で、縁側で直接外気に触れている。
四季それぞれの庭先の風情を確かめ縁側に座って一休みする。外気と建物の空間を仕切る意識が全くなく、日本家屋独特の雰囲気がが縁側に表れている、素敵な空間である。
これらの和室建築も『かいこさん』と共に建設重機の前に消してしまった。

こちらでも紹介しています。ご覧ください
日野バイパス延伸工事

保谷こもれびホールでミュージカルの公演。

2018-08-26 16:28:00 | イベント

保谷こもれびホールでミュージカルの公演。
東久留米こどもミュージカルの団員の一人の孫娘(小4)が晴れ舞台を飾る。
20数名の出演者、主役の高校生から下は小3までの女子集団である。

幼少時の人見知りであった、控えめの印象がどうしても被ってしまうが、
大きいお姉さんに混じって、ステージに立つ姿が、別人のように輝いて
見える。
元々歌が好きのようで、カラオケなどで、最近のヒットソングを唄い
まくり終わった直後に出る、高得点にのりのりである。
そんな素地はあるものの、厳しい訓練があり、ただ好きだけでのいい
加減な気持ちでは当然、付いて行けず自然と堕ちてしまう。
大半が年長者の中、この集団の中、自立の芽生え、からか、今のところ
挫折もせず、チームワークなど学びながら、付いていってるようである。

大きなステージのこもれびホールで、大量な観衆を前に果たして、
どんな姿で演じられるか身内の一人 として、ワクワク、ドキドキ
しながら会場に向かった。

余り、馴染みのない保谷。都心と郊外を結ぶ鉄道網であるが、
多摩地域と西東京と直接繋がらず、不便で、小刻みに3回の乗り
継ぎで漸く辿り着く。


保谷の丸いドーム状に天涯の窓がガラス張りのアカデミックな
建物がこもれびホールである。


ホールに一歩足を踏み入れると、高い天井の吹き抜け、その巨大
な空間に数本の柱と回廊のようなユッタリとした階段で2階に繋
がっているエントランスに迎えられる。

文化・芸術の催し物に触れ合える雰囲気に、自然と吸い込まれる
感覚である。

自由席のためホールには大勢のスタッフに誘導され、開門前に
行列で、暫く待つ。
開門され、メインホールに、観客席は緩やかな勾配がついており、
背もたれに座っている限り前の席に視界が隠れることはなく、
ステージを観ることが出来、観る側を配慮した席造りであった。


こんな立派なステージに、果たしてどんな姿で表れ、演じら
れるのであろうか、バックライトの影絵で、ステージの背後の
壁に、巨大な蔭になって映し出され、コーラスが流れ、印象的
な幕開けとなった。
<さて、その物語は>
一人ぼっち我が儘、交遊もなく、追い込み荒れる少女がピエロ人形
との出会いから、生まれ変わってゆく『ピエロ人形の詩』の感動物語。
幻想の世界に消え去るピエロを少女が追う、泣きさけぶ迫真の演技は
思わず吸い込まれてしまい、自然と涙腺も緩んでくる。
「すごいなあ~」と思いつつ、主役を演じる高校生の役者としての素地
もあろうが、そこまで仕立て上げるスタッフの総力が、見事にこの物語
を造り上げている。

何処に付けているのか判らない高性能のピンマイクで漏らさずセリフが
拾われ、ダイナミックに伝わってくる。そんな装備から、CASTは広い
ステージに留まらず、観客席まで自由に駆け回り、スポットライトを浴
びながらダイナミックに飛び込んでくる。

当日の公演は13:00と17:00の2回で、それぞれの役割を変えての登場であった。
肝心の姫の出番はアンサンブルで「妖精」と「くも」役で登場した。
2回目のステージではサッカー少年の役であったが、残念ながら観ることが
出来なかった。
舞台の脇からステージへ、アンサンブルで登場、仲間と一糸乱れぬ優雅な
「妖精」姿で踊り、唄いミュージカルの大事な一幕を飾っていた。
出幕は判っていたが、チームでの登場は同じユニホームに、厚化粧
であった為、当人の識別は時間がかかった。
当人とのステージ上の繋がりが生まれ、一挙主一投足に、集中する姿は
逞しくも、頼もしく、何時も接する姿とは遥か彼方の別人のようであった。

2時間弱の公演にその熱気・興奮が覚めやらぬままのざわめきの中、
メインホールから吐き出される。

外には役回りの集団単位で並び、唯一観客と向き合い面会出来る時である。


「あっ!!いたいた」くもの仲間に、この糞暑い最中、真っ黒のコートを
頭からすっぽり被り、激しい踊りの余韻に汗びっしょりのようであった。
背中には大きなくもの足を背負い、くもに変身していた。、



会場には出演者の顔写真と来客に対する感謝のメーセージが書いてあった。
2度目の公演に役回りも、徐々に重く、晴れ舞台のデビューを前に
本人の率直に身構え、立ち向かってゆく意志も書いている。

集団の中に群れながら、当人の楽しんでいる様子と心ゆきに、安心して
育っているなあ~と、見納めたっぷりと、晴れ姿のお土産を貰い
「こもれびホール」を後にする。

ようこそ松崎家の世界へ

http://mzk.on.coocan.jp/