《以下引用》
【社説】北朝鮮人権団体を愚弄する統一部次官
「統一部の申彦詳(シン・ウォンサン)次官が先日、講演会で「世界各国の人権団体が、北朝鮮の人権問題について騒いでいるが、実質的にやっていることは何もない」とし、「プラカードを持ったり、デモを行ったり、声明書を朗読したりすることで人権問題が解決されるなら、こちらも声明書を100万枚くらい発表してやってもいい」と述べた。これが本当に大韓民国の統一部次官たる人物の口から出た発言なのか耳を疑う。これでは、国内と世界各国の人権団体に公然と「あなたたちは、無駄なことをやっているので、今すぐ止めなさい」と言ったも同然だ。
韓国政府は、北朝鮮の人権問題がまるで触れてはいけない問題であるかのように沈黙を守ってきており、こうした態度は国際社会から冷ややかな視線を浴びてきた。政府は、国連人権委員会の北朝鮮人権決議案の票決の際、3年連続で不参加もしくは棄権しており、昨年11月には国連総会の北朝鮮人権決議案の票決の際にも棄権している」(4月19日『朝鮮日報』)《引用ここまで》
それなのになんだ、人権問題をないがしろにしてきたのは、政府のほうではないか、という主張だ。この『朝鮮日報』もそうだが、韓国の主要紙はいまの盧武鉉政権からは煙たがられてきた。だが、ほかの国内問題はわからないが、こと韓国人拉致問題では、正直なところ拉致された本人やその家族や関係者に冷たい、と思われても仕方ない政策をとってきた。いや、無策だった。
北朝鮮に気兼ねをしているからだ。そうはいっても陸続きの韓国なのだから、戦争などといった事態になったら困る。 そこは日本やアメリカなどとは違うのだ。この韓国の地勢的・地理的位置関係も考えて欲しい、というのが、建て前として政府にはある。
拉致された韓国人被害者の話を聞いていると、それは政府の建て前の前になすすべもなく佇む姿だ。自国民を守ってこその外交ではないか・・・。
今日で『拉北者たちの沈黙』は最終回。政府の建て前の中で、自力で脱北した拉致された船員の独白である。
□拉致
拉北帰還者のひとりが語る。
事件が起きたのは夜だった。
船で寝ていたら突然起こされた。完全武装をした兵士が銃を突きつけて、手を挙げろ、というんだ。最初は韓国の海軍だと思った。そしたら今度は、手を挙げたまま船倉に行け、と脅された。そこで初めて北朝鮮の海洋警備隊だとわかったんだ。もう死んだも同然だったが、あいつらはただ私に銃を向けながら、北朝鮮に連れて行く、というだけだった。
理由なんか聞けないですよ。いうことを聞かなければ殺されると思って、ぶるぶる震えながらいわれるままにしていたからね。一緒にいた船員のひとりは、もう死ぬんだ、と船室の床を叩いて泣いてたが、私は私で、これで人生は終わりだ、とあきらめたね。
われわれ漁民に対するこんなふうな拉致が始まったのは1961年ごろからだった。1年に2~3隻が拉致されたけれども、いちばんのピークは1967、8年ごろだったかな。われわれの漁場といえば白翎島より南海域で、休戦ライン(北方限界線)から30マイルも下がった場所だった。だからあの夜は安心して寝ていたんだ。
今度、韓国に戻ってから知ったんだが、当時われわれが拉致された一時間後ぐらいに韓国の海軍が大砲を撃ち、照明弾を上げながら探したらしい。そのときにはすでにわれわれは境界線を越えていたので助けてはもらえなかったんだがね。
絶望ですよ。さっきもいったけれども、私の人生はこれで終わった、と思いました。あと1年働いてお金を稼げば、事情があって施設に預けていた息子を引き取れる条件が整うところだった。遠洋漁業に10年出て、せっせと貯めた金が80万ウォン、当時の80万ウォンは大きかった。そのお金と、あと1年働いて20万、そうすれば合わせて100万になる。その100万で息子を引き取ろうと計画を立てていたんだ。ところが捕まってしまった。私の人生は終わり、息子とは永久のお別れなんだと思ったね。
結局28年と5ヶ月ですよ。北朝鮮にいたのはね。
始めはわからなかったが過ごすうちになんで拉致されたのかがわかった。健康な人、頭の回転が速い人、中学卒業以上の学歴を持っている人、こういう人を選別して、武力統一、共産化統一、つまり赤化統一をするのに必要な人材を集めている、ということがわかったんだ。
私を拉致して勉強をさせる理由が、赤化統一のための工作員を養成するためだということが中央党政治学校(現在の金日成政治軍事大学)に入って3年間、主体思想とかを勉強するなかでわかったんだ。
ひとことでいえば洗脳教育ですよ。金日成について、朝鮮労働党の政策や社会主義制度の優越性などについて学ばされるんだ。残りの時間は格闘技、射撃。射撃も最後は10発のうち9発は真ん中に当たらなければならない。そういう訓練を受けました。
それに人を拉致する方法。もし党が韓国に行ってある要人を拉致してこい、といったら、どうやって拉致し、もし殺さなければならないときには、どうやって殺すかを習った。殺すといっても刃物を持っていないときにはどこを殴ればいいかとか、そんなことだった。
無線電信の操作もあった。無線も最初は1分間に5~6字しか打てないが、3年も練習すると400字も打てるようになる。400字打つということは相当すごい腕前です。
水泳もあったね。卒業のころには東海に行って20時間ぶっ続けで泳がされるんだ。苦しいったらありゃしない。どんなに苦しいかというと、寒いのに汗が出てくるんだ。指導員はこういう苦しさを見てなにをいったかというと、人を鋼鉄に例えていうならば、これは銑鉄(固いがもろい)で鋼鉄を造るようなものだ、そう思え、というんだ。お陰で水泳だけは政治学校では1番だった。
それは変わりました、28年もいればね。しかし自分の心までは変わらなかった。なぜかというと、3年間、中央党政治学校でさっきいったような訓練を受けたが、思想が悪い、ということで連絡部(注⑮)に入ることができずに社会に出ることになったからなんだ。それでも連絡部からは1年に1度ぐらいは私の様子を見に来た。だからそういうときのために酒を飲んだり喧嘩したりと素行を思いっきり悪くしましたよ。
結局、労働者になった。食糧が十分だったころは、そうだな、10人ぐらいに監視されていた。食糧がなくなり始めて監視も緩んだ。だからこれはチャンスだと思ったんだ。妻が中国人だったことも幸いした。隙を見て先に妻を北京に行かせ、その連絡を待って修理工に変装して北朝鮮を脱出したんだ。
私の主観に過ぎないのだが、30年近い年月を北朝鮮で暮らした李在根さんの話からは洗脳された影を読み取ることはできなかった。帰国した5人の日本人拉致被害者たちが見せた表情や言葉を思い起こすと、その強靱さには驚かされる。私は最も聞いておきたい質問を最後にぶつけてみた。
対南工作員としていまも韓国で活動をしている人物はいますか?
「たくさんいる。漁民ばかりか学生もいれば女性もいた。それに北朝鮮人で韓国で使われている方言など言語訓練を受けて潜入した工作員など合わせれば1万人を超しますよ。
いま工作員が静かなのは南北首脳会談が実現して南北関係がよくなったからであって、少しでも北朝鮮の体制が危うくなったら、これは変わる。いまでも韓国の学生組織や労働団体は北朝鮮から来た工作員たちが入り込んで、背後から操っているんだ」
1万人という数字を確かめることは不可能だが、朝鮮半島にはいまも東西冷戦の思考が厳然と存在していることを実感させる話だった。(了)
(注⑮)連絡部・・・ここでは旧労働党連絡部のこと。朝鮮戦争当時から存在していた部署で工作員を韓国に侵入させることが主任務だった。
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