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History, Strategy, Ideology, and Nations

12月28日

2009年12月28日 | ET CETERA
 いよいよ年末も押し迫ってきたこともあり、
 今年の重大ニュースを取り上げる番組や記事が多く見られるようになってきた。
 昨年来の経済不況の影響で、出版界においても有名な雑誌が相次いで廃刊・休刊に追い込まれたが、
 単行本としても、あまり有意義な研究や評論は出てこなかったように思う。
 実際、新聞の書評欄を眺めていても、興味を引くような著作が紹介されていることは少なかった。
 しかも全体的な傾向として、扱われるテーマが非常に身近なものへとシフトしているようで、
 豆知識としては役立つのかもしれないが、
 大きな見取り図を提示しようとする野心的な試みは皆無に等しかったのではないだろうか。
 
 若手の研究者に対して、最初に教えることは、いきなり大きなテーマに取り組むなということであろう。
 時間的にも限られた範囲内で、修士論文や博士論文を執筆するには、
 ライフワークとなるようなテーマを扱っていては、とても間に合わないからである。
 基本戦略としては、やはり出来るだけ対処しやすいテーマを選んで、
 そこから各論を詰めていく作業が最も取り組みやすいし、何より堅実である。
 だが、「三つ子の魂、百まで」ではないが、一定の業績を積んだ研究者であっても、
 そうした試みを忌避して、各論的な研究を志向するのは、どうしたわけなのであろうか。
 
 以前、ノーベル賞受賞者の利根川進氏とジャーナリストの立花隆氏が対談を行なった際、
 利根川氏は「確信を得るまで研究を始めるな」という話をしていた。
 人生の時間は限られているのだから、その限られた時間を有効に活用するためには、
 本当にこれぞと思える仕事やテーマを選ばなければならない。
 そのためには、自分が確信できるまで考え続ける時間が必要なのである。
 同じくノーベル賞受賞者の小柴昌俊氏も、若い世代に対して、
 「楽しいことを見つけて、それに一生懸命、取り組みなさい」とアドバイスする一方、
 「ただし、その楽しいことを見つけるのが、一番大変なのです」とも語っていた。
 
 格言集などをひもとくと、「学ぶことは受け入れることである」と書かれていた。
 確かにその通りだと思う。
 他人の影響をいち早く自分の中で消化して、それを確信に変えることができる人がいる。
 多分、そうした人を「早熟」と呼ぶのであろう。
 目上の人からも、素直で従順な性格と評判も上々である。
 しかし、懐疑的な人は、自分で消化したことを単なる早合点と思ってしまうかもしれないし、
 一応、納得したことであっても、そこに具体的な論拠が得られなければ、
 確信するまでには至らないことも多い。
 その結果、何事につけても出遅れ気味になるし、仕事の効率も著しく悪い。
 目上の人からも「出来の悪いやつ」と評価を下げることになる。

 研究分野を問わず、偉大な業績を残した人が、
 若手の時代、必ずしも優等生ではなく、得てして劣等生だったと言われるのは、
 まさに「考える時間」を必要としていたからである。
 逆に言えば、「考える時間」を作らなかった人は、
 いつまでも自分の立場を根拠づけることができず、場当たり的な研究に追われることになる。
 そうなると、もはや研究は仕事となり、ノルマとなり、
 数をこなすことが評価の基準として機能することになってしまう。
 
 大きなテーマを回避する傾向が強くなったのは、
 不況の影響で、一般読者に受けるテーマを出版社が望んだことも一因であろうが、
 大きなテーマを考えようとしなくなった研究者が増えたことも、
 それと並んで指摘できる要因であるように思われる。
 おそらく今後も、この傾向はしばらく続くものと考えられるが、
 来年こそは、著者の魂が込められた著作の登場を心密かに待望しているのである。