YS_KOZY_BLOG

History, Strategy, Ideology, and Nations

12月8日

2009年12月08日 | NEWS & TOPICS
 今日付の朝日新聞・社説で、軍事情報衛星の問題が取り上げられていたので、少し紹介することにしたい。
 論旨としては、最近の事業仕分けなどの成果を踏まえて、
 目的が不明確となっている偵察衛星への事業削減を提唱する内容となっているのだが、
 民生レベルでの話を即座に軍事レベルの話に結びつけるのは、あまりにも安直な発想と言わざるを得ない。

 言うまでもなく、日本が偵察衛星を持つと決意したのは、
 1999年における北朝鮮のミサイル発射を契機としたものであることは誰もが認めるところである。
 当時、政府は、それが民生分野にも応用し得ると釈明したが、
 実際には軍事施設の偵察活動に用いられていることは暗黙の了解であって、
 そうしたレトリックを用いたことに政治的判断が込められていたのである。

 確かに朝日新聞が指摘するように、それが果たして十分な成果を上げているかというと不明な部分が多い。
 近年のミサイル実験や核爆発実験についても、日本の偵察衛星がどこまで有力な情報を収集できたかは、
 関係者のみ知る話である。
 だが、一説にあるように、日本は米国への情報依存にあると捉えるのは正しくないだろう。
 日米の情報協力において、その役割分担はすでにかなり具体的に進められており、
 日本は情報収集面で米国から大きな期待を寄せられてきたことは間違いないからである。
 もし日本側の情報が大したものでなければ、こうした情報協力が進展するはずもないのだから、
 その点については、偵察衛星も含めて、一定の成果が上がっていると思われる。

 もっとも、日米の情報関係において、米国の優位が保たれていることは止むを得ないであろう。
 なぜなら、国家の機密管理や情報漏洩を厳罰に処する法律が日本には存在しない以上、
 米国のみならず、日本の安全保障にとっても、米国の優位が守られている方が安全だからである。
 もちろん、そうした関係が望ましいと言っているわけでは決してない。
 しかし、日本が状況改善に努めることもしないで、
 米国依存に対して気分が悪いと批判するのは適切ではないし、礼儀にも欠くであろう。
 
 本来ならば、こうした時期にこそ、偵察衛星の役割を包み隠しなく説明して、
 民生利用の可能性も含めてしまった政治的レトリックからの脱却を試みておかなければならないのだが、
 現状を見ている限り、それは望めそうにない。
 以前、ブログで、科学技術や宇宙開発の予算削減に賛同したが、
 そこにも記したように、偵察衛星に転用可能な気象衛星と通信衛星の予算削減には強く反対したい。
 オーストラリアや南アフリカのような国ならともかく、
 周囲に核保有国が4つ(米中露朝)もあり、そのうちの3つが日本に敵対的であることを思えば、
 仮に景気が悪化したとしても、軍事予算を削減することはあり得ない選択である。
 
 朝日新聞としては、偵察衛星に回す予算があるなら貧困層に回せと言いたいのかもしれないが、
 そこは現状において譲るべき部分では決してない。
 問題なのは日本に敵対的姿勢を崩さない中露朝であって、
 彼らの存在が貧困層への予算獲得を難しくしているのである。