続つれづれがるパリ

パリ滞在日記、不滞在日記。日々の思いをつづってみます。

333

2021-03-05 00:30:00 | ノンジャンル
令和3年3月3日、山陽新幹線で岡山へ。神戸より西に新幹線で行くのは何十年ぶりかもしれない。アパレルの営業だった時代に鳥取の米子へ出張したのが西の果てだったように思う。
 公演のツアーは難題を抱えていた。新型コロナ感染症が流行り出してから早一年、色々とある。
思えば10年前、東関東大震災、同じプロデュース公演で初旅だった時には福島市からのツアーで、見えない放射能の脅威に怯えていた。内部被曝、アレルギー反応倍増、常に止血剤携帯は今も続いている。10年後こんな感染症のパンデミックになるとは。30年余芝居やって来て時におそろしくなる。しかし、あの福島へ行く時、演劇人の使命だと感じていた。今この状況で、同じ使命を感じている。それが正しいことだと一心に信じたい。ゾロ目の日、夢見はまた旅立ったあの人の。それはそれでいい。

2222

2021-02-22 23:00:00 | ノンジャンル
2月22日の朝、夢見た。2月2日にお別れしたあの方の。
長く伸びた髪を切った。そうしたいと思ったから。
この1ヶ月、なかなか落ち込んでいた。今日夢の中でその人に会って、私は、「生きているあなたに会えたのが嬉しかった」と言っていた。それは、今のことじゃなくて、私たち2人が同じ時空で会っている感じだった。私の人生の中で、間断を置いて何度も出会った。そういうご縁が深かったのだと体感している。それが、抱かれているような柔らかさ、というか、やさしい親しさというか、埋もれてしまうような感覚。そんな気持ちになることに今自分が少し驚いている。私だけが持っている、その感覚、を忘れない、きっと。

節分・立春

2021-02-08 14:49:00 | ノンジャンル
 1月最後の日曜日に届いた訃報に衝撃を受け、矢庭に関係筋に連絡を取り始める。ただ居ても立っても居られない気持ちだった。忘れられない写真を取り出すと、日付は丁度30年前の節分の日、舞台の初日だった。Mさんの舞台を初めて見たのは恐らく、1976年の夏休みだろう。45年前…。恐ろしく長い時間。。その時ははまりにはまったけれど、次第に興味は別なことに移った、が、その15年後に演劇界で巡り合うことになる。少女の思い出は深く心に刻まれていて、胸が躍り、心中は穏やかではなかった。こんな風にいつか巡り合うことがあるのだと感動していた。全てのツアーも終わり打ち上げの打ち上げがMさんの自宅で繰り広げられている最中、猛烈な腹痛で私は救急車を呼んでもらい、数件の病院を回った後に調布の病院に入れられた。当時尿管結石という診断を信じていた私は持病の発作だからもう救急車しかない、と判断したのだ。検査の結果は誤診で、実はもっと重大な病気だった。入院中に父が他界。自分の身に起こった出来事を持て余し、私が生きていることも奇跡のようで、命の恩人と思い、私は退院後Mさんに長い手紙を書いた。返事はなかった。何年も後にお仕事で再会した時には、「あんな手紙もらって返事の仕様がないやん」と言われた。ごもっともだった。1991年のお芝居から再び間断を経て、別な形でまたお仕事の現場で再会した。幾度も。
 私の転機になった渡仏以来はお会いしていなかったけれど、訃報には耐えがたいものがあった。信じられない、悲しい、という以上に、自分の人生を顧みてしまう大きな衝撃。節分の2月2日、ある方の好意でお別れに行くことができた。次の日からは気持ちが漫ろだったが頑張って仕事の現場へ向かった。週末の金曜日に熱を出した。動けなかった。その日は一日養生し、翌日出掛けると、私を連れて行ってくれたその人に会う筈もないのに遭遇した。お互いにあまりの偶然に驚いた。彼の人はもう旅立っていた。前日がご葬儀だったと聞いた。私が熱を出したのもその人に遭遇したのも偶然ではない思いがした。
 今年2月2日が節分なのは37年ぶりだとか。昔は大晦日と同じような歳の終わりと考えられていたという。立春から確かに季節が移った実感。「さよならだけが人生」なのか。もう少し頑張るために、いま必死に自分を鼓舞している。

挫折が呼び戻す思い出

2021-01-13 14:24:00 | ノンジャンル
昨年の終わり、ある演劇系大学の講師募集に応募した。自分から進んではしないことだ。これまで私の行なったワークショップに幾度も参加してくれて、フランスの我が母校まで留学にも行った俳優の人たちは10名近くに及ぶ。そのうちの一人が、自分の卒業した大学の演劇専攻科が採用を公募している、と情報をくれて、「優さんのような指導者が必要」なんて嬉しいことを言ってくれたものだから、つい出してみた。新春の連休の最終日に応募書類は戻ってきた。主任という方の5行程度のあいさつ文と共に。そのお方はどういう方か、ちょっと検索してみた。自分よりも若いし、きっと次世代を担う方なのだろう。採用はされなかった。
 自分の経験から、どんな指導者に出会うかはある意味決定的なことだと感じている。師匠フィリップ・ゴーリエの学校で始めてサマースクールのアシスタントをしてから、翌年、クラスを持ってみろと言われた。私が「教えた経験が一度もない」云々ともじもじ返答していると、「わざわざ説明ありがとう」とだけ彼は言った。「心配するな、お前が良い先生じゃなければ、生徒が勝手に来なくなって必要なくなるだけだ」と恐ろしいことを言われた。数か月が経ったある寒い朝、フィリップが私を呼び止めた。「あ、クビになるなきっと」と私は縮み上がった。「どうも不思議なんだけど…お前のクラス人が減らないな」と彼は言った。私は黙って笑顔を返し、半ばうれし涙をこらえながら教室へと上がって行った。私にとってフィリップは偉大な先生だ。彼に教えてみろと言われたことは、大きなオーディションだった。やるごとに私はたくさんのことをそこにいた俳優たちに教わった。様々な国籍、年齢の生徒たちに。今もう一度、彼に感謝している、あの経験があったことで、今私は日本でわずかな時間だが教えることができる。そんなことを改めて思い返している。

元日

2021-01-01 10:02:00 | ノンジャンル
2021年が明けた。朝は日の出の時間にマンションの8階に上がる。ビルの谷間からだけどお天道様を拝む。対面西の方角に、富士山。雪を頂いた白い富士山がくっきりと見える。双眼鏡をしまうと、さっそくお雑煮を作る。日本での年越しは気ぜずして去年に続いて二年連続だけどお雑煮食べたいと思ったのは数年来。11時にはお神酒も切り上げようときめる。それから年賀状書き。10枚買っていた年賀はがきを2時間以上かけて書く。3時になる少し前、歩いて豊川稲荷へ。子供の頃からの親しいお稲荷さん。感染予防のための入場制限はあったが、列の進みは早かった。去年のお守りを返し新しいお守りを。元赤坂から歩いて四谷の土手、西の空に日が沈みかける。
2020年て一体どんな年だったのか。前年12月から稽古をしていた1月の公演は、4日に稽古再開、二週目に無事本番を終える。翌日から三月公演の稽古。二月は破天航路に同行でニュージーランドはオークランドへ。夏を味わう。帰国する頃からコロナ感染症の話題が出始める。3月も稽古は続けていたが、公演は中止となる。4月に予定していたセルビア、フランスへの下見旅行も中止。5月に予定されていた東京での国際フェスティバル、6月のシビウ演劇祭もリモートになり、破天航路の参加がなくなる。新規任用になった大学はオンライン授業を迫られ、その準備に忙殺される。緊急事態宣言下ジョギング中に見つけたフレンチのお店にメールをしてみると、直ぐに助っ人に来てとのこと。何十年ぶりかでバイトする。Ova97月公演をどうするか話し合った結果行うことになり、会食を徹底的に自粛した稽古、その間に10月公演のワークショップ。消毒三昧の公演本番。まもなく10月公演の稽古スタート、本番まで息つく暇もなかった。11月は再演ものの稽古、12月北海道から旅公演が始まる。数日は帯同。振り返ったら、休みなく何かしらやっていた。オンライン実験劇場も即興ライブもやった。目まぐるしい。コロナで立ち止まっていた筈なのに。まるで休むと死んでしまう体質のよう。今年は、少しゆっくり進みたい。去年よりは明るい一年になりますように。