のんびり歩こうよ 亀さんみたい

70歳も半ば近くになって、後は神仏の御心のままに。
ゴールはきまっているのだから、のんびりゆったり 日々を大切に。

漠然~と 後5年

2023-10-20 11:18:00 | 生 活

数日前からから

漠然~と 「あと5年」という数字が頭の中に浮かんでいます。

あと5年…とは 私の心臓が動いている時間。

そして その数字に 満足し納得している私がいます。

逆算して 今何をするべきか?を思うのです。

 

月曜日は大学病院の膠原病内科受診でした。

毎回、血液検査と尿検査をします。

腎臓の機能を表す推算GFR値が39.5・・・段々下がってきています。

60が下限値で、20を下回ったら透析の準備でシャントを作ります。

10を割ったら透析です。

週に3回、4~5時間かけて血液中の不純物を濾過する機械に

体内の血液を循環させる・・・延命装置です。

かつて透析をしている人達と交流があって、

誰一人として、「透析のお陰で」とは言う事はありませんでした。

毎日、息苦しく、気だるく、食事も可成りの制限があり、

日々の生活は通院が第一優先でしかない。

私に、そんな日がいずれ来ることを示す血液検査数値がある。

糖尿病でもないし・・・

腎臓疾患があるわけでもないのに・・・

難病を押さえる為の薬による・・・薬剤性慢性腎臓病です。

 

火曜日は国立病院の内科・脳外科の受診。

内科の医師はとても素敵な人です。

外見とかじゃなくて・・・

もう10年近くお世話になっていますが、謙虚で誠実。

この人が私の息子であったら?!・・・そんな妄想にふける事も。

脳外科の医師は外科医独特のキレがあるが、

ディで親しかったKさんは,脳腫瘍の手術を受け、腫瘍は取りきれたが

両手両足のマヒが後遺症となって苦しい日々を過ごしているのですが

その手術の 執刀医がこのドクターでした。

ミスとも、事故とも言えない、微妙な脳内の手術を受け入れるしかない。

 

私はこの医師に、てんかんの診断を受け、薬を服用し始めて1年。

この薬を飲んでいると、シェーグレン症候群の薬が使えない。

先日、医師に「どんな状態になったら完解ですか?」と尋ねた。

医師は 「一生 この薬は飲む事になる。止めたら発作が出る」と。

 

人工関節置換手術を予定していた左足の膝の痛みが 又で始めた。

もう、しなくても良いかな?

右膝の痛みも治って無いのに…両足ロボットじゃ~

何とか、だましだまし、左足を使って行こうかな?~

 

無限の時間があると思い込んでいた頃の私は もういない。

 


裏切らないで・・・訪問看護システム

2023-10-15 14:51:35 | 闘 病

昨年は突然意識が無くなり硬直したまま倒れるというアクシデントに見舞われました。

大きな失神は3回で全く予兆もなく

気が付けば床やトイレに転倒していて

都度、骨折。

意識が戻っても

判断力無く、ヘルパーさんに促されて病院へ。

 

診療科をいくつも廻されて「てんかん」と診断されたが、脳波検査をしていないので確定ではない。

 

ケアマネさんが、緊急通報電話を市役所に手続きしてくれた。

リハビリ型のディサービスは

余り良い顔をされず退所。

それで

訪問看護を薦めてくれたのです。

3人の看護師が交代で訪問し

バイタルチェック

顔色、身体状況、などを観察し

自分で出来ない、足の爪切や

擦り傷の手当などをしてくれる…はずだった。

 

しかし

3月半ばに責任者とケアマネが来て説明を聞き、契約した。

緊急時24時間対応だが、事務所で連絡を受け判断し、看護師を招集し、必要機材等を持ち

訪問すると3時間位掛かるので救急車を呼んだ方がはやいですよ!との説明だった。

3月の最終週から看護師が来た。

お茶と茶菓子を出し、世間話で話が弾んだ。

翌月 請求書が来てビックリ!です。

1割負担で 4282円の請求です。

 

 

訪問14      11.486円 (90分のケアー)

緊急時訪問加算1  5860円  (私は契約に同意してない)

訪問看護初回加算  3063円  (毎月最初の週に付加される)

交通費        50円  (市内でも規定より遠いと付く)

となっている。

 

3月4月5月と様子を見ていたが、納得できないので6月からは停止して貰ったのです。

バイタルチェックは2度だけ・・・外に散歩に出る時と体調が悪く寝ていた時だけ。

足の爪切も2回。

話題は私の身体状況とは関係ない事ばかり。

時には、「ねえ~今度私の恋話聞いてくれる~」と甘える。

契約は60分だが私が気付くまで

お茶と私の作った惣菜をつまみに盛り上がり、

5分オーバーしても90分で請求されている。

毎月掛かる訪問看護初回加算の意味が分からない。

一度、ディサービスでの友人の話をしたことがあった。

彼は60歳前だが脳出血の後遺症でリハビリに来ていたが

どことなく、アウトロー的な雰囲気があり、周囲と馴染めないタイプだったが

なぜか私には 「姐さん」と呼び慕って来て・・・

話をするようになって半年で彼は脳出血の再発で他界してしまった。

その時、看護師は 「その人身体に画が書かれて無かった?(入れ墨)」と聞く。

「知りません。Tシャツとジャジーで身体は見た事ないです」と言うと

「あ~そうなの」と意味ありげな答えが返って来た。

不愉快だった。障害を持つ人たちがリハビリに通う場で

過去の生きざまや生い立ちを話題にはしないのが暗黙のルール。

まして、親しくなったとしても、障害有るからだでそれ以上の深入りなど・・・・。

3人の看護師の内二人の正看は

ラメ入りのアイシャドーにアイライナー・マスカラを施し

派手な口紅をしている。マスクは手にかけているが顔にはしない。

両耳に複数の銀色のピアスをして

もし身体介護で看護師にも垂れたらピアスの端で顔や身体が傷つきそうだった。

 

いつも親身になってくれるケアマネが

彼女たちの化粧などに違和感を感じないのが理解できなかった。

2カ月と1週間で約2万円弱の金額が口座引落されていた。

 

最期の時は、定刻になっても看護師の訪問が無いのでケアマネに電話を入れると

看護師から電話があり 今から行きます・・・と

3時間遅れできたが、間もなく携帯電話鳴り呼び出されて、20分ほどで帰っていったが

説明も無く、60分の請求があり引き落とされていた。

 

市役所の担当部署に電話をして顛末を話したが

その後 市役所からも

訪問看護事業所からも連絡は無い。

 

私は失望間でしかないのです。

年金だけの収入でやりくりする中、

食卓の椅子に座りきりで身の上話しや、

過去の恋話でケラケラ笑い 何とか60分を1分でも超えそうとするのが見え見え。

 

全ての事業所でそうだとは思は無いが・・・

失望の思いだけしか残って居ません。

市役所はこんな事業所に介護保険の9割分を支払っているのが納得できません。

 

 


友遠方より来る 又遠方より旅人来る

2023-10-09 12:40:30 | 社 会

以前約30年程住んでいた町から、

友人が紅く化粧をした滝を見に来ると連絡があった。

勿論 異性の友達です。

 

彼とは色々なストーリーがあり、絶縁状態の続いた後、

人間として付き合える関係になった。

男と女は…終わった。

嫉妬も…終わった。

旅費も食事も割り勘で、我が家に泊めても…なんてことは無い。

 

80歳を超えた男性が100歳の寝たきりの女性を強姦したニュースを見た時

「若いね~」と半分侮蔑の気持ちで見られる位、

私と彼の精神年齢は不詳の付き合いです。

 

彼は未だシルバー人材に登録して

1日4時間の労働をしているので連休を取るのは簡単ではないようで

暇な私が合わせるようにしている。

 

昨日、彼は前日遅番の仕事を終え帰宅後すぐに寝て、

朝食も摂らずに特急電車でやって来た。

私はお昼のお弁当とお茶を用意しリユックに詰める。

コロナ封鎖解禁の秋は観光客で混むので宿は取らず、

夕飯の鍋の用意をしておいた。

彼の寝る布団も敷き、準備万端で駅に行き彼の到着を待つ。

フリーパスのバス券を2枚買い、勿論割り勘で。

まだ紅葉には早い綴れの坂道をバスで昇って行く。

バスの中は半分以上いや三分の二は日本人以外だった。

私達は去年も行った大きな滝に向かいバスを降り坂道を歩く。

去年より、足腰が重く、息苦しいが

敢えて言葉にせず…二人とも同じ思いだったようだ。

「来年は この坂道あるけるかな?~」どちらともなく弱音がでた。

「うん!寿命が1年でも10年でも構わないけど、寝たきりにはなりたくないよね~」

そんな会話で、胸の動悸に堪える。

滝の良く見える茶屋でキノコ汁を買い、自前の栗ご飯を食べる。

味が薄い??

いつかテレビのミステリードラマで見たアレだ!!

標高によって味の感覚が変わるって・・・。良い体験だった。

 

一時を過ごし又バスを待ち終点まで向かった。

そこは 「温泉寺」で

知る人ぞ知るひなびた一間四方の木の浴槽に硫黄の白濁湯の源泉が流れている。

 

私の友人で山女がいるが、

彼女は学生時代から50年近く近隣の山は勿論、

山小屋に寝袋で雑魚寝する醍醐味を

経験して、この温泉寺も彼女に一度連れて来て貰った場所。

 

セメントの洗い場には木のすのこが何枚か敷き詰めてあり、

硫黄の匂いが一層レトロ感を感じされる。

あつあつの風呂で、洗い場で何度も体に湯をかけ、

そろそろと湯舟に浸かると体のあちこちがかゆくなってくる。

 

自宅では、シャワーと半身浴で

ボディソープでささっと流すだけなので、何とも異空間の入浴が楽しい。

 

彼は初めてなので、タオル等は私が用意してきた物を渡し、

熱いからね!慌てないでね!何度も念を押した。

彼は20年程前に心筋梗塞を起こし、

ずっと通院しているので 発作だけが心配だったが

レトロな硫黄泉が可成り気に入ったようだった。

近くには、登山やスキー客が宿泊するこじんまりした宿がいくつも有る。

 

「この辺の宿は皆 硫黄泉かな? 宿は高いのかな?」

独り言のように呟いている。

来年は・・・・なんて夢はせているようだったが、

鬼が笑うので私は無言でスルーしていた。

こうして 小旅行の目的を達した。

 

帰りのバスは始発だったので悠々座れたが

多分200%の乗車率だったと思う。

私達の座席の前は車椅子の留め具が入って居るスペースがあり、

普通に考えればリュックや手荷物を置く場所。

しかし、金髪で体格の良い白人の中年女性は

なんと、その空間に飛び乗って座り込んでしまった。

連れは居ない様だった。

薄手の衣類からシルエットがむき出しで

つき立ての餅の様に

ポニョポニョした大きなヒップが半分はみ出している。

 

彼女が足を延ばすと私のジーンズの上に届くので、

彼女は片手で足を抑え込み窮屈な姿勢で

綴れの坂道を降りるバスに身体を預けている。

 

ひょっとして、私の上に落ちて来ないかな?

…不安だった。

私も彼も障害者手帳持参者なので席を変わってあげるゆとりなど無い。

彼女は 終点近くなった宿泊施設の多い所で無事下車したので

私達は顔を見合わせて頷きあった。

 

もし私が海外旅行をしたら、あんなふうにはでいない。

旅慣れているのか? 

遠方より来る旅人の生活の一つの習慣なのか?

終戦直後の列車に、

日本人が窓から乗り込む白黒写真を連想する。

 

こんな出来事が旅の良さなのかもしれない。

我が家に着き、用意ししてあった鍋を火にかけ 

熱々の食事をしながら話は尽きなかった。

 

遠方より来る友人はそのまま眠り、

今朝鍋の汁で作った雑炊を食べて帰宅路についた。

今朝スマホを見ると、気温7度C。

夜中から降り始めた雨で晴天時には見える

昨日出かけた連山が雲の中に隠れ

一機に冬到来だった。

先月までクーラーだったエアコン

今朝は暖房設定で付けた。

 

今年も残りの日々を指折り数える時になった。

 

 


秋が急ぎ足で・・・

2023-10-05 18:57:44 | 人間関係

あんなに暑くて イライラしていた9月が過ぎると

カレンダーの1枚を切り取るように秋が来た。

 

まだ陽に当てて無い冬用の掛布団を取り出し足元に置く。

夏用のTシャツを洗い仕舞い支度。

 

私に頭の中を何かか通り抜けて行く。

季節は人生その物?かも知れないって考え。

 

暑さを目の敵にしていたのは

エネルギーを持て余す若かりし頃と同じかも知れない。

 

尖ってみたり、燃えてみたりの時代がずっと続くと思っていたら

突然、疲労感が襲って来て、

自分がそう若くない季節を歩いていると知る。

 

時々、深い雪に埋もれて息絶える日を想像する。

それが私の潜在的理想なのかも知れない。

今迄幾度となく入院をし、手術を経験した。

手術台には自分で上がり横たわるが数秒の内に看護師らが首の所に間仕切りを作り

両手、両足が拘束されて、やがてス~と眠り落ちるので

医師の呼びかけで薄っすらと眼を覚ました時は

もう何時間も経っていて手術が終わっている。

その時が一番幸福感に浸っているのです。

もしかして、息絶える時もこんな感じ?

・・だったらいいな~と思う。

医療事故で苦しい恐ろしい事も経験した。

アナフィラキシーショック!!

頭は覚醒しているのに息が出来ない。

声が出せない。手も足も動かない。

全身の力を込めてナースの白衣の裾を掴み引く。

周囲の話声は聞こえるのに

私は苦しさを伝えるすべが無く意識が遠のいた。

この時、私は生きたいと強く思っていた。

 

今は秋、間もなく木枯らしの季節が来る。

私の体力も同じように移り行く。

でも 生きる事に執着はない。

穏やかに、枯れ葉の様に散って行く事を

心に決めている。

 

さあ、そろそろ 冬支度。

着古した衣類は始末して、

手作りの吊るし雛もこの手で供養しよう。

そんな想いにしたる季節に今私は足を止めているようです。

 

 

 

 


人生 第3章がはじまる。

2023-10-03 14:06:49 | 人間関係

末っ子の私は深読みするタイプでは無かったので、

流れのままに、

ちょっと不合理?・・・と思う事は多々あってもその波に乗って生きて来ました。

いろんな事が有っても、「因果応報」の心情が支えだったのかも知れません。

時は流れ33歳で子供2人を連れて離婚しました。

話がこじれて調停へ。8カ月掛かりました。

その間、子供は転校し、私は保険会社に勤務しました。

 

氏をどうしよう・・となった時

子供が年度の途中で氏が変わる事のリスク・・イジメ!!

名刺を持って学校の共済の営業をしている私の

「どうしたの?」の質問攻めを想像する時、

リスクを最低限にするために夫の姓を名乗り続ける事にしました。

 

まだ若い弁護士は

実家に戻らないんですか?

どうして嫌になった夫の姓を使うんですか?などなど・・

そのたびに目を丸くして

「えぇ・・そういうもんなのですか?」と驚いた。

子供を連れて戻る実家は もう兄夫婦の物なのに・・。

姉夫婦は、母の所有する借家が空いているので

私を呼べば!と言ってくれたようだが

母も兄夫婦も答えなかったと 大分経ってから耳にはいりました。

 

もちろん、長期間、母や兄夫婦のお荷物になる気は初めから無いが・・

早々に就職したのは、私に子供を養育出来る力が有る事を

示せないと親権、

養育権が取れないと弁護士から言われていたからです。

 

母は、世間体を憚って、

  出戻り娘を近くにいて欲しく無いとは明らかでした。

跡取り娘の母は外で働いた経験も無く、

舅・姑の関係を経験したことも無く

家賃を払って食べて来た事も無く

たどれば、近所は皆親類という町という中で

代々続いた商家のメンツの方を優先したのです。

母は老いては子に従い

寡婦になったら長男が家長であるも当然という

古い感覚を優先するタイプだったのです。

鼻っぱしは強くとも 

根は弱く兄に物言えぬ人だったのでしょう。

 

 

私にはどうでも良い事なのです。

婚家を出ると決心した時から、分かって居た事だからです。

こうして・・・私の人生 第3章が始まりました。