友愛学舎生の日常生活がよくわかるブログ

早稲田駅から徒歩5分の場所にある、様々な大学生による自治寮。キリスト教精神に基づいた様々な活動に取り組んでいます。

カフェ中

2011-04-27 02:05:10 | 日記

こんばんは。相変わらず夜な夜な目覚めている4年の猫である。

非常に個人的なことで申し訳ないのだが、実は私は大のカフェイン好きである。コーヒーを筆頭に、紅茶、緑茶、ココア、チョコレイト・・・と挙げたらキリがないのだが、とにかくその摂取量が正常でなく、一日の間になにかしらのカフェインを摂取しないという日はないと言っていい。とりわけコーヒー・紅茶に関しては一日のうちにどちらかを摂取していない日にはどこか落ち着きがなく不安に駆られ、何か悪いことをしているような、罪を犯しているような気分になってくるわけであり、ここまでくればもうお分かりだと思うが、これは依存であり、もはやアルコールやタバコと並ぶカフェイン中毒であり、立派なビョーキといっていいものである。コーヒーなどは本来「眠気を振り払い、目を覚まし、神経を活性化させる」ような効果があるとされているそうであるが、私の場合こうした方程式が全くあてはまらない、いまや飲んでも飲んでも眠たい、もしくは夜中に一杯のコーヒーを飲んでから落ち着いて眠りに入る、というような完全な逆転現象が起こっている。

その他の紅茶や緑茶等にしても、一般にカフェインを「夜飲むと寝れない」という定義があるようなのだが、私の場合むしろカフェインを「夜飲まないと寝れない」という事態なのである。繰り返すが一般的見地からすればこれは完全な身体の異常状態であり、ビョーキであり、不健康の極みと批判されても仕方のない大問題であるが、といってもはやここまで来たら元の状態に戻す努力をする気は全くない、というか努力をしても戻らない可能性の方が高い。もはや家族や恋人、お金と同様、カフェインが「これがなければ死ぬ」というところまで来てしまっているのである。たとえそれで不健康に陥りいずれ命を絶たれたとしても、それがなければ今日生きることができないのだから全くもって仕方のないことであろう。

だから私と同じような状態に陥っている人は少なからずいると思うのであるが、そういう方は誰に何を言われようとこうした致し方ない事情があるわけだから、大いにカフェインを摂取し満喫する勇気を失わないで頂きたいと言いたいのである。

ところで私はアルコールやタバコに関してはいずれも軽く嗜む程度であり、カフェインほど危険な状況ではないと思われるのだが、コーヒーとの相性という点で言えばタバコは欠かすことのできない存在といえる、というのもコーヒーとタバコは、喫茶店に行けば分かるように香りの妙というところでマリアージュするからである。ということは私も現時点では問題なくともカフェインに引きずられ、いずれタバコ中毒に陥る危険も決して否定できない訳であるが、今のところ幸いなことにそうした兆候は見られない。

とはいえコーヒーとタバコは本来切り離せないものなのであり、少なくとも「カフェ」と名乗るのであれば全部でなくとも普通は喫煙席はあると考えるのが当たり前であって、そもそも喫茶店の原型となったイギリスのコーヒー・ハウスとは人々がコーヒーとタバコを摂取しつつ議論を戦わせる場であったのである。

ところが最近の日本では、喫茶店に限らず喫煙席、喫煙コーナーそのものをあたかも「悪」の象徴であるかのごとく徹底的に撲滅していこうとする極めて暴力的な動きが見られる、というかそれがむしろ常識であり、道徳であって、神であるかのごとくの位置に祀り上げられるという事態が起こっている。しかも近年は特にその流れが加速しつつある一方である。喫煙席が存在しない喫茶店があたかもそれが正常なことであるかのように軒をつらね、私が通っている某大学でも昨年から今年に欠けて喫煙所が狂気のごとく次から次へと排除され、わずかに一カ所、大学の隅へと追いやられるという事件が起こった。

私は別に積極的な喫煙者ではないし、別に自分を擁護しようとしているわけでもないが、それでもこうした動きは明らかに間違った方向に進んでいるといわざるを得ない。タバコの値上げとはまた別問題であり、「タバコを吸わない人が正常」であるかのような認識が蔓延していることが問題なのである。タバコを吸っている人が気違いならば、過去の偉大な文人や学者たちの多くがタバコをくわえていたことをどう説明しようというのだろうか。

副流煙による女性、子供への影響や健康への配慮から喫煙所を分けるというような気遣いは正しいことであり、そうした処置は不可欠だが、それが安易な喫煙所や喫煙者の撲滅に結びつけられるのは間違っているということなのである。それはホームレスや精神病の人々といった弱者を排除していく現代的権力と何ら変わりがない。禁煙を威圧的に強制する「禁煙ファシズム」という言葉があるらしいが、現在まかり通っている喫煙者への抑圧や排除はまさしく権力であり、ファシズムであるといわれても仕方ないほどの狂気である。

 喫茶店での喫煙所の排除にしても、そもそも「コーヒーとタバコ」の相性は一つの歴史であり、遺産であり、時代を超えて「カフェ」における一つの「文化」をかたちづくって来たものなのだ。完全禁煙のカフェもあって良いし、禁煙席をつくることにも問題があるわけではないが、だから喫煙席はいっさいなくす、というのでは話が違うのである。それは一つの歴史を通して育まれてきた「文化」、貴重な遺産を破壊し、追放する野蛮な行為であるということを自覚すべきなのではないか。世界遺産を守ることと同じように、コーヒーとタバコの香りと言う文化も、大切な人類の歴史の遺産として守っていってもらいたいものである。そうしたとりとめもない、無駄にも思われるちっぽけな弱々しい脆弱な文化をどれだけ懇切丁寧に扱うことができるかが、世界遺産のような大きくて偉大な文化をいかに残すことができるかということに欠かせない視点である、ということにそろそろ気づくべき時が来たのではないだろうか。

全く友愛学舎から脇道をそれたお話になってしまったが、つまり少なくとも寮生活では他人に迷惑をかけない限り(多少はかけたとしても、)カフェインであろうがタバコ、アルコールであろうがご自由に摂取できるということである。しかも万が一なにかあったとしても仲間がいるから心配ない(恐らく)。こうした自由な学生生活を満喫したいという方には是非寮生活をおすすめする次第である。