見出し画像

ChatGPTさんの『古事記』英訳

ChatGPTの『日本書紀』英訳 雄略天皇 11

『日本書紀』雄略天皇 11

是月、置史戸・河上舍人部。天皇、以心爲師、誤殺人衆、天下誹謗言「太惡天皇也。」唯所愛寵、史部身狹村主靑・檜隈民使博德等。

三年夏四月、阿閉臣國見更名磯特牛、譖𣑥幡皇女與湯人廬城部連武彥曰「武彥、姧皇女而使任身。」湯人、此云臾衞。武彥之父枳莒喩、聞此流言、恐禍及身、誘率武彥於廬城河、偽使鸕鷀沒水捕魚、因其不意而打殺之。天皇聞、遣使者案問皇女、皇女對言「妾不識也。」俄而皇女、齎持神鏡、詣於五十鈴河上、伺人不行、埋鏡經死。天皇、疑皇女不在、恆使闇夜東西求覓、乃於河上虹見如蛇四五丈者、掘虹起處而獲神鏡。移行未遠、得皇女屍、割而觀之、腹中有物、如水、水中有石。枳莒喩、由斯、得雪子罪、還悔殺子、報殺國見。逃匿石上神宮。

≪英訳≫

In this month, the Emperor established the departments of Fumihito and Kawakami no Toneri. The Emperor often acted on his own whims and frequently made mistakes that led to the deaths of people. The people of the realm criticized him, saying, "He is a very bad Emperor." The only ones he favored were Musa no Suguri Ao from the Fuhito department and Hinokuma no Tamino Tsukai Hakatoko.

In the third year of his reign, in the summer, fourth month, Ahe no Omi Kunimi slandered Takuhata no Himemiko, the Ise Shrine maiden, and Iokibe no Muraji Takehiko, a bath attendant for the imperial children. He said, "Takehiko has defiled the princess and made her pregnant." Takehiko's father, Kikoyu, heard this rumor and feared it would bring disaster upon them. He lured Takehiko to the Ioki River, pretended to dive into the water to catch fish like a cormorant fisherman, and suddenly killed him. The Emperor sent an emissary to investigate the princess. She responded, "I know nothing about this." The princess then took a sacred mirror, went to the Isuzu River, chose a secluded spot, buried the mirror, and hanged herself. The Emperor, suspecting something was amiss, searched for her in the dark. He found a rainbow over the river, about four or five jō (around 12 to 15 meters) long, like a serpent. Digging where the rainbow stood, they found the sacred mirror and nearby, the princess's corpse. Upon opening her body, they found something like water inside, with stones within the water. Kikoyu used this to clear his son's name, but regretted killing his son and sought revenge on Kunimi. Kunimi fled and hid in the Isonokami Shrine.

≪この英文の和訳≫

この月、天皇は文人部(ふみひとべ)と河上舎人部(かわかみのとねりべ)を設立しました。天皇は自分の心だけで専決するところがあり、 誤って人を殺すことも多かった。天下の人々は天皇を批判し、「太悪天皇(非常に悪い天皇だ)」と言いました。天皇が唯一お気に入りだったのは、文人部(ふみひとべ)の身狭村主青(むさのすぐりあお)と、桧隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)だけでした。

天皇の在位三年目の夏、四月、阿閉臣国見(あへのおみくにみ)は、伊勢の斎宮(いわいのみや)である栲幡皇女(たくはたのひめみこ)と、皇子と皇女の沐浴を担当する廬城部連武彦(いおきべのむらじたけひこ)を中傷して「武彦(たけひこ)は皇女(ひめみこ)を汚して妊娠させた」と言いました。武彦の父である枳莒喩(きこゆ)は、この噂を聞いて災いが身に及ぶことを恐れました。彼は武彦を廬城川(いおきのかわ)に誘い出し、魚を捕る鵜飼いの真似をしているふりをし、不意に武彦を殺しました。天皇は使者を送り、皇女を調査しました。皇女は「何も知りません」と答えました。皇女は急に神鏡を持ち出し、五十鈴川(いすずがわ)のほとりに行き、人気のない場所を選んで鏡を埋め、首を吊って死にました。天皇は皇女がいないことを不審に思い、夜の闇の中で彼女を探し求めました。川上に虹がかかっている場所を見つけ、それは蛇のように四、五丈(約12〜15メートル)の長さでした。虹が立っている場所を掘ると、神鏡が出てきました。そしてその近くに皇女の遺体がありました。遺体を割くと、中には水のようなものがあり、その水の中には石がありました。枳莒喩(きこゆ)はこれによって息子の無実を証明することができましたが、息子を殺したことを後悔し、国見(くにみ)に復讐しようとしました。国見は石上神宮(いそのかみじんぐう)に逃げ隠れました。

令和6年7月2日(火) 2024

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日記」カテゴリーもっと見る