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ChatGPTさんの『古事記』英訳

ChatGPTさんの『古事記』英訳 神武天皇 1 ≪改訂版≫

『古事記』神武天皇 1 ≪改訂版≫

古事記 中卷-1

神武天皇

神倭伊波禮毘古命自伊下五字以音與其伊呂兄五瀬命伊呂二字以音二柱、坐高千穗宮而議云「坐何地者、平聞看天下之政。猶思東行。」卽自日向發、幸行筑紫。故、到豐國宇沙之時、其土人、名宇沙都比古・宇沙都比賣此十字以音二人、作足一騰宮而、獻大御饗。自其地遷移而、於竺紫之岡田宮一年坐。

亦從其國上幸而、於阿岐國之多祁理宮七年坐。自多下三字以音。亦從其國遷上幸而、於吉備之高嶋宮八年坐。故從其國上幸之時、乘龜甲爲釣乍、打羽擧來人、遇于速吸門。爾喚歸、問之「汝者誰也。」答曰「僕者國神。」又問「汝者知海道乎。」答曰「能知。」又問「從而仕奉乎。」答曰「仕奉。」故爾指渡槁機、引入其御船、卽賜名號槁根津日子。此者倭國造等之祖。

≪英訳≫

The Emperor Jimmu, also known as Kamuyamato Iwarebiko no Mikoto, and his elder brother, Itsuse no Mikoto, consulted at the Takachiho Palace in Tsukushi, saying, ‘In which land should we settle to establish peace throughout the nation? We are considering heading east.’ They set forth from the province of Hiuga in southern Japan and arrived in northern Kyushu. When they reached the land of Bungo, two people named Usahiko and Usahime built a palace with one foot which is called Agari-no-Miya and served them a feast. 

After residing there for a year, they moved to the Okada Palace in Chikuzen, and then to the Takeri Palace in Aki, where they stayed for seven years. From there, they relocated to the Takashima Palace in Bingo and stayed for eight years.

When they come up from the gate and the land of Hayasui, they met a man who was fishing on the back of a turtle and shaking his body vigorously as he came along. They called out to him and asked, ‘Who are you?’ He replied, ‘I am a deity residing in this land.’ They further asked, ‘Do you know the way of the sea?’ He answered, ‘Yes, I am familiar with it.’ They then asked, ‘Will you serve us?’ He replied, ‘I will serve you.’  They gave him a pole and took him into their ship, and gave him the name Sawonetsuhiko. This was the ancestor of the Wa country's leaders and founders.

≪この英文の和訳≫ *含む解説

神武天皇(カムヤマトイハレ彦の命)と、兄であるイツセ(五瀬)の命は、筑紫の高千穂の宮で相談されました。「この国をどの土地に定めれば、天下が泰平になるでしょうか。やはり東に進むべきだと考えています」と述べられました。お二方は日向の国から出発し、九州の北部に到着されました。豊後のウサと呼ばれるところにお着きになると、宇沙都比古(ウサヒコ)と宇沙都比賣此(ウサヒメ)の二人が足一つ騰(あがり)の宮を建て(*「足一つ騰の宮」とは「足一つ分高い建物」という意味。つまり、特別な宮殿や建物を建てて神武天皇とその兄を迎え入れたことを示している。この表現は、その地域の人々が敬意を表し、特別な待遇をしたことを示していると解釈できる。Bingの回答)、大きな祝宴を催してお二人をおもてなししました。その地に一年滞在された後、筑前の岡田の宮に移り、さらに安芸のタケリ(多祁理)の宮に七年間滞在され、また別の国へと移動され、備後の高島の宮に八年間滞在されました。

速吸(はやすい)の門を通り、その国からお上(のぼ)りになる際、亀の甲に乗り、釣りをしながら勢いよく身体を振ってやってくる人と出会いました。速吸の海峡での出来事でした。お二人はその人を呼び寄せて『そなたは誰か』とお尋ねになると「私はこの土地に住む神です」と答えました。また「そなたは海の道を知っているか」とお尋ねになると「よく知っております」と答えました。さらに「私たちに仕えてくれるか」とお尋ねになると「お仕えします」と答えました。彼を船に案内し、サヲネツヒコ(槁根津日子)という名前を授けました。彼は倭国の指導者や創始者たちの祖先〔倭(和)の国造(くにのみやつこ)〕となりました。

令和5年8月8日(火) 2023
≪改訂版≫

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